この世界は男社会だといっても、その男は女から生まれ、女に育てられたのだから、つまるところ男社会は女(=母)がつくったともいえる。
よく働く男や、権力欲の強い男ほどマザコンの傾向がある。
森鴎外田中角栄も、みんなマザコンだ。
社会に有用な男は、女=母がつくる。
社会の競争原理は父親が教える、と内田樹氏は言っているのだが、世の中は学者の薄っぺらな頭で何もかも解けるほど、そんな単純なものじゃない。競争原理を押し付けようとする父親は、必ず息子の反発を食う。だから欧米では「父殺しの衝動」が普遍的な問題として扱われるのだし、この国でも金属バットによる父殺しが起きたりする。
子供と良好な関係を結べるお父さんの多くは、そんなものを押し付けない。押し付けないお父さんが、子供に慕われるのだ。
社会の競争原理を父親が伝えるのは、根源的に不可能なのです。その話をすると長くなるが、とにかくそれは「母」によって伝えられるのです。
内田樹氏が思っているほど、男は、純粋な「男」ではない。したがって、彼が言うように「性秩序は絶好調に機能している」ということもないのです。内田氏がマザコンであるのかないのか僕はよく知らないが、言ってることは、マザコンの論理です。「ママと僕の関係は絶好調に機能している」と考えることは、ともに「男であること」「女であること」の多くを喪失している状態なのです。
母親なんか、鬱陶しいくらいでちょうどいい。内田氏の論理からすると「母」の「承認」を得ることが「息子」のアイデンティティになるのだろうが。僕はそうは思わない。誰の「承認」も拒絶することがアイデンティティだと思っている。人間はそういうようにできているし、拒絶することのトレーニングの場として「家族」があればいいのだと思っている。
フェミニズム運動とは、男に「承認」されることを拒絶する運動なのだ。そうして誰もが拒絶する自分を「処罰」するかたちで抱きしめあうことによって「快楽」が生まれ、浄化作用(カタルシス)が汲み上げられる。
他者の「承認」によって自己確認するなんて、マザコンの論理であり、インポ野郎の論理なのですよ。「承認」される前に勝手にときめいてしまうものだけが、それを拒絶することができる。われわれは「他者の承認」によって生かされているのではなく、すでに他者にときめき生きてしまっている存在なのだ。
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ザコンの傾向が強い男は、女に裏切られる。
嫁と姑(しゅうとめ)の宿命的な対立・・・・・・亭主を裏切った嫁は、じつはそれによって姑を裏切っているのだ。嫁は、姑に殺意を抱いている。
ゆえに、フェミニズム運動の男社会に対する悪意は、「姑=母」に対する悪意でもある。
フェミニズム運動は、嫁と姑の対立の代理戦争でもある。
フェミニズムのブームが去って「勝ち組(=母)」「負け組(=女)」という言葉が登場してきたのは、何か示唆的である。フェミニズムがもてはやされていたころ、「母」たちはじっと反撃の機会をうかがっていたのだ。
子供に社会の競争原理を植え付けようとする「母」の最高の栄誉は、子供の東大の入学式に父兄として参列することです。フェミニズムが退潮して、そういう無邪気で凶悪な「母」たちがのさばりはじめている。
内田氏の「女は何を欲望するか?」という本だって、フェミニズムのよき遺産を継承してゆくためとかなんとか言っているが、たんなる火事場泥棒みたいなものです。自分に都合のいい言説を見つけ出して自慢話の道具にしているだけです。東大の赤門の前で記念写真を撮っているのと大して変わりゃしない。安っぽいマザコンの論理を振り回して、フェミニズムの息の根を止めようとしている。
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女の男に対する悪意は、その向こうに「母」を見ている場合が多い。
女は、「母」になることによって、何かを失い、何かを獲得する。女だって母親に育てられたのだから、そういうことは母になる前からすでに経験的に知っている
「母」は、「男(の性衝動)」を失い、「子供」を獲得した。
娘がセックスを知ったころ、母親は、セックスを失う。セックスを体験したたいていの娘は、父と母がいまだにセックスをしているとは思っていない。父の性衝動は自分に向かっている、と思っている。観念的には、いちおうそういう構造になっている。
子育てをしている母親は、夫の性衝動を失っている。観念的には、いちおうそういう構造になっている。子育てに夢中になればなるほど、夫の性衝動は離れてゆく。離れてゆけばゆくほど、子育てに夢中になる。
「母」のヒステリーは、男の性衝動を失っているという喪失感から来ることが多い。だから、自分は子供のころに父親から性衝動を向けられた、という記憶を「トラウマ」として与えてやると一時的にその症状がおさまる。つまり、自分は男の性衝動を失っているのではなく、拒否しているのだ、とひとまず納得して気持ちを落ち着ける。
「母」は、女にうつつをぬかす(性衝動)よりも仕事に頑張る男になるように息子を育ててゆく。
女は、根源的に男の性衝動を拒絶している。そして、「自己処罰」として男の性衝動を受け入れる。「自己処罰」だから、セックスが快感になり、自浄作用(カタルシス)になる。
「母」は、息子の性衝動を拒絶しつつ、受け入れる。つまり、そういうかたちで息子を「支配」してゆく。そうやって息子の欲求を抹殺し、自分の欲求する方向へとなにがなんでも向かせようとする(ソフトに言えば、息子の将来に何事かを願う、ということです)。欲張りな要求だろうとやさしい願いだろうと、「母」にとっては、息子が自分の思い通りになることが、息子の性衝動「愛」を受け入れることなのです。
しかしほんらい、息子が何を思い、何者になろうと、息子の勝手なのです。殺人鬼になるのだって、息子の勝手なのです。
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ほんらい人間は、他者を拒絶して「根源的な疎外」の状態を生きている。そしてその他者を拒絶する自分を処罰しようとする衝動は性衝動なのだから、息子に向けてはならないのです。母子相姦がいけないからじゃない。息子の性衝動はすでにほかのところに向いているのに、それを無理やりこちらに向けさせて受け入れてゆくというのが「母の愛」だからです。
「姑」は、息子の性衝動をいったん「嫁」に向けておいて奪い返す。そういうかたちで息子を支配している。
「母」は、「支配」するというかたちでしか息子を愛せない。息子の性衝動をほかに向けさせつつこちらに向けさせる、ということをする。マザコン男と母子相姦してしまって結婚なんかさせない、というほうがまだましです。結婚させておいて自分のほうに向けさせようとするから、「嫁」が苛立つ。
「母」はかつて、苦しい思いをして息子を体の外に吐き出した。「母」にとっての子供は、ほんらい外に追い出そうとする対象です。追い出しておいて引きずり込もうとするから、ややこしくなる。そういう態度に出られて、ときに息子は、他者に向かおうとする衝動と胎内回帰の衝動との狭間で混乱し、母親に暴力をふるったりする。
しかしそうやって暴力をふるう息子は、世に出ても出世しない。「母」のそういうはたらきかけを心地よく受け止めることのできる男が出世する。
ザコン男は、自然に他者を「支配」することをおぼえてゆく。この社会の「支配の構造」にいちはやく、誰よりも本質的に気づく。
男は、「母」からの圧力を受けて生きている。そういう男たちが、この社会を支配している。母に支配されたことの反動として、あるいはそれを教訓として、この社会を支配している。
そういう男たちと、フェミニズムの「女」たちはどう戦えばいいのでしょうね。
母になることを断念した女はえらいと思うし、母になった人たちも、それが正義だなんてできれば思わないでいただきたい。息子が、いい迷惑です。いじわるしないでいやいや育ててくれるくらいでちょうどいい。誰もが一度は「母になりたい」と思うのだろうし、なればいいのだが、「母」になることは、われわれが考えている以上にいろんなものを喪失することなのではないだろうか。獲得するものなど何もない、と思っているくらいでちょうどいいのかもしれない。
喪失感を持っていない「母」は、嫁にも息子にも裏切られる。たぶん、裏切られたほうがいい。
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