「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?18・結婚て何?

ちょいと横道にそれてみます。
最新刊の「街場の現代思想」で内田樹氏は、「文化資本」ということについて語っています。
知識とか教養のことです。
こういうものもお金や財産と一緒で、それを生まれながらに身につけている貴族タイプの人と、あとからの努力で身につけていった成り上がりタイプがいる。
たとえば、生まれながらにワインに親しんできた人は、ワインの銘柄のことは知らなくても、ワインの味は知っている。それにたいして、大人になってからワイン通になろうと頑張った人は、知識は豊富だが、そのわりに味にうとく、飲み方もさまになっていない。
子供のときからテニスをしてきた人と社会人になってからはじめた人の違いは、フォームを見ただけですぐわかる。そして、生まれながらに運動神経を持っている人といない人の差も、見る人が見れば歴然としている。
絵画や音楽などの芸術も、努力すれば必ず報われるという世界ではない。
禅宗でも、悟ることのできる人とできない人ははじめから決まっていて、できない人はどんなに頑張って修行しても無駄である、などとも言われる。
思想とか哲学の場合だって、同じでしょう。研究者は誰もが知識は豊富だが、われわれ庶民より思想的哲学的かといえば、かならずしもそうとは言えない。ほとんどの研究者は知識の「成り上がり」にすぎない。というか、知識だけでなんとかなる世界だから、「成り上がり」ばかりだともいえる。「成り上がり」タイプの方が出世したりする。
内田樹氏は、自分はほかの研究者と違って「成り上がり」タイプではない、と思っているらしい。そういう自覚が、言葉の端々に出ている。
そんなことないって。あなただって、じゅうぶん知識の「成り上がり」ですよ。
レヴィナスのいう「始原の遅れ」というパラダイムをこの人が持ち出してきても、口先だけで体ごと納得したものを持っていないから、あちこちで馬脚をあらわしてしまう。
未来のことはわからないから生きるに値するのだ、と言いながら、未来のことばかり気にしたような言説を繰り返している。未来の死の時点から現在を振り返って考えれば自分の人生も見えてくる、なんて、いともあっさりと言って抜ける。「未来のことはわからない」と言ったのはいったい誰なのだ、という話です。あなたの死は、明日かもしれないのですよ。いや、次の瞬間かもしれないのだ。
内田さん、あなたには「最後の一日」を生きているという意識がひといちばい希薄です。そういう気分は、庶民なら誰もが胸の底に抱えて生きているのですよ。
「女は何を欲望するか?」という本の最後では「人間は、無知であることによってしか叡知的であることができない」などとかっこつけたことを言っておきながら、俺は何もかも知っている、とあちこちで吹きまくっていやがる。
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「街場の現代思想」という最新刊は、若者に対する人生相談の本です。その中で内田氏は、「俺は何でも知っている、よろしい、君たちに教えて差し上げよう」という口ぶりで終始一貫語っている。
たとえば、結婚とは何か、ということ。
いやもう、結婚や子育ての意義と実態について、神のごとくとくとくと説明してくれている。
まず、「結婚することには欠点と利点があり、その利点(意義)は、欠点を補って余りある」という。
しかしねえ、そんなものは、人それぞれでいいんじゃないのですか。僕もずいぶん長いあいだ結婚生活を続け、それなりにしんどい子育ても体験したつもりだが、そのことについての普遍的な意味や意義など、何もわからない。人に教えてあげられるようなものなど何もない。
なにが結婚の欠点でなにが利点かなんて、ほんとにもう人それぞれですよ。そんなことまでいちいちあなたに決め付けられたくはない。
恋愛や同棲は「私的な関係」で、結婚は「公的な関係」なのだそうです。
知識の「成り上がり」人種は、すぐそういう安直な定義をしたがる。
公的である証拠として、「先方の親族」と付き合わねばならない、という。しかしそんなもの、付き合う人もいえば付き合わない人もいる。その付き合いを喜ぶ人もいればいやがる人もいる。いやな人は、付き合わないですむ相手を見つければいい。付き合うのが結婚である、そしてそれはとてもしんどいものである、なんて、結婚なんてみんなそんなものだと決め付けられたら誰もする気になれない。
どんな結婚生活になるかなんて、誰にもわからない。結婚式の翌日にだんなさんが交通事故で死んでしまった、という場合だってあるのですよ。
まあ、子育てのしんどさもふくめてあれこれ結婚生活の実態を説明してくれるが、誰の結婚生活も必ずそうなると、あなたはほんとうに保証することができるのか。
また、すぐ離婚してしまうのは、よけいな幻想を抱いて、いやになれば別れればいいと最初から決めてかかっているからだ、というが、じゃあそう思っている人々はみんな離婚するのか。たいていの夫婦は、いつかきっと別れやろうと思って暮らしているのです。僕なんか、年が変わるたびに「来年こそは別れよう」と思って生きてきた。女房だって、きっとそうです。
べつに結婚生活に不足があったわけではないけど、ほかの人を好きになってしまったんだもの、というケースだってあるし、好きになっちゃいけないという決まりもないでしょう。結婚して醜く変身する夫や妻はいくらでもいるでしょう。おおむねそんなものでしょう。そういうことに耐えられなくなる感受性をなくしたくない、と思ったっていいじゃないですか。
そういうことに鈍感な人間になって「結婚の意義」に殉じることが、そんなすてきなことですか。
そういう「結婚の意義」に殉じたら、夫に抱かれたい妻を抱きたいというときめきも必ず起きてくると、あなたは保証してやることができるのですか。
「結婚の意義」よりもセックスアピールのときめきの方が大事だと思っちゃいけないのですか。
妻に逃げられて離婚した男のほとんどは「妻に裏切られた」と思っているのだろうが、ほんとは男がセックスアピールを失ってしまったからだ、という場合は少なくないでしょう。そしてそういうことを優先するのは、人間性を失っている証拠ですか。人間なんて、良くも悪くもそういうことに大きく行動を左右されたりするものじゃないのですか。そういうことも含めて「人間性」でしょう。我慢して「共生」できるのもできないのも「人間性」でしょう。
結婚についての内田氏の決めぜりふは、次のようなものです。
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結婚は、快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。
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なに言ってるんだか。けちくさい「根源」です。これこそまさに、前回に問題にしたジュディス・フェッタリーの言う「女に裏切られるアメリカの男が抱いている女に対する恨み」のかたちを表している。
「金と力と正義」で結婚生活および女を支配しようとしている男の論理です。結婚は正義なのだから、他者と「共生」することは正義なのだからどんな「不快」にも耐えよ、耐えられるはずだ、と迫っている。
で、女からしたら、正義だから耐えられるんじゃない、あんたにときめくことによってはじめて耐えられるのよ、となる。
「達成の約束」なんて言われようと、そんな「未来」のために人間は生きているのではない。未来はわからないからこそ生きるに値するのだ、と言ったのは、内田さん、あなたなのですよ。
「妻」も「夫」も「子供」も明日死んでしまうかもしれないのですよ。「達成の約束」もくそもあるものか。
「達成」なんか、得られる夫婦もいれば、得られない夫婦もいる。いったいあなたが、彼らの「未来」の何を保証してやれると言うのか。
「不快な隣人=他者と共生する能力」と内田氏が言うとき、おそらく「ユダヤ人」のことが頭にあるのだろうが、ユダヤ人となんか共生したくないというのも「人間」なのですよ。そしてユダヤ人だって、人間はかならずしも共生しようとする生きものではないということを骨身にしみて知っていたから、他人をたらしこむテクニックを身につけていったのでしょう。つまり彼らじしんに共生しようとする願いも、人間の共生しようとする衝動に対する「信」もなかったから、ひたすらたらしこむテクニックを磨いていったのではないのですか。
「愛」とか「共生」を人間性の根源として深く信じていたら、彼らはけっして人をたらしこむのが上手な人種にはならなかった。そういうことをもっとも深く信じているのは、そういうことにもっとも「無力」な人です。つまり、それこそが「無知であることによってしか叡知的であることができない」ということの意味です。あなたのごとき知識オタクが言うべきせりふじゃないのですよ。
ユダヤ人は「愛」という「人間性」によって現在まで生き延びたのではない、たらしこむ能力で生き延びてきたのだ。それが悪いと言っているのではないですよ。ただ、ユダヤ人も内田氏も、正義ぶって「愛」だの「共生」だのとえらそげに自慢しないでくれ、といいたいだけです。
自分にセックスアピールがないことを、「愛」だの「共生」だのという「正義」で言いつくろおうなんてぶざまなだけだ。そういうくだらない大義名分で女を否定し支配してゆくのが、アメリカの男の論理だとフェッタリーは言っているわけで、たぶんそれは正解なのです。
人間は「共生」しようとする衝動など持っていない。持っていないが、結果といて共生してしまう生きものである。そこのところを考えたことがありますか、内田さん。
人間は、他者を拒絶している。女は男を拒絶している。そして、拒絶する自分を「処罰」する。だからこそ膣の中にペニスを埋め込むことが浄化作用になるのだし、他者に対するどうしようもない「不快」ということも起きてくる。そこのところを、考えたことがありますか。
あなたのような知識の「成り上がり」人種は、しょせん既成の知識のカードを並べているしか能がないのです。
知識に関係なく、体で「ああそうか」と納得する体験がないのですよ。
「無知によってしか叡知的であることができない」ということは、そういうことなのですよ。
結婚に意義なんかあるものか。毎日エッチしたいとか、掃除洗濯してもらいたいとか、ひとりじゃ淋しいからとか、そんなような弾みでしてしまえばいいだけのことです。
結婚や子育てに「意義」を与えれば少子化問題が解決するなんて、言うことが短絡的すぎる。「できちゃった婚」のように、はずみで結婚し、はずみで子供をつくってしまうような人が増えることこそもっとも有効なのだろうと思います。先のことなんかわかりゃしないのです。たぶん、日本人の歴史は、おおむねそんなふうにして流れてきたのです。
誰の中にも、結婚の意義も未来のこともよくわからないという愚かな部分があるから、結婚できるのです。それこそが結婚に踏み切る最後の切り札なのです。そしてそういう「愚かさ」を失った人が増えてきたから、結婚しなくなってきたのでしょう。
「快」であろうと「不快」であろうとそこに「意義」や「意味」があろうと、そうやって未来のことがわかったようなつもりになれるのなら、誰も結婚なんかするものか。
そうやってこれが結婚だと知ったかぶりして決めつけてしまうあなたの言い草は、それじたい結婚するなと言っているのと同じなのです。
知識オタクの「成り上がり」がなに言ってやがる。
あなたはえらい大学教授で僕は名もない庶民にすぎないが、あなたはほんとうに僕よりも思想的哲学的「文化資本」を豊かに持っていると僕の前で言える自信がありますか。