内田樹という迷惑・神の視点

神の視点に立ってものを言うことは、つつしまねばならない・・・・・・そのていどのことは、誰だって言っている。サルトルだって内田樹だって言っている。
しかし人間なんか、どうせすぐそういう視点に立ってしまう生きものだ。
問題は、それをどのように反省できるかにある。
人間とは「自己意識」である、とヘーゲルを持ち出して内田氏はいつも言っている。そしてそれは、幽体離脱してみずからの身体を外から眺めることことであるのだとか。
これって、「神の視点」じゃないのですか。
自分を外側から客観的に眺めることによって、はじめて自分を知ることができる。そういう「自己意識」を持ちなさい、とえらそうにいつも説教している。
何をバカなこと言ってやがる。
戦いの場面を真上からの視点で描くことのできる劇画家の感性は素晴らしい、とこの前も言っていました。
素晴らしいのかどうかよくわからないけど、人間というのはそのようにして神の視点に立ちたがる生きものだということ。そしてそういう視点をなんの反省もなく振り回せるのが劇画家の、すなわち「物語作者」の才能だ、ということです。
いいか悪いかなんて、僕にはわからない。
ただそれは、観念というもののはたらきの、ひとつの病理であろうということは、なんとなく感じます。
才能があるとは、そういう病理を抱えている、ということだ。
「自分を外がわから眺める」ということだって、ようするに「自分さがし」という病理のことでもある。そういう病理が、人間性の基礎である、と内田氏は言う。
「反省」なんか、なあんもしていない。脳みそが薄っぺらだから。
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魚は、その狭い岩のあいだを自分の身体が潜り抜けることができるかどうかということを、ちゃんと知っている。
それは、自分の身体画像を知っているからか。
そうじゃない。あの目の位置で自分の身体なんて見ることはできないし、だいいちそんな「画像」などなんの役にも立たない。自分の身体の厚さが二センチか二センチ三ミリか、ということは「画像」だけではわからない。しかし彼らは、ミリ単位でそれを心得ているのです。
それは、「画像」ではない。自分の身体を「空間」としてとらえる即自的な内がわからの感覚なのだ。
自分の身体の厚みを感じる感覚。これは、外側から見た「画像」の感覚ではない。
皮膚感覚、と言ったほうがまだましだが、それでも正確とはいえない。
自分の身体を「空間」のボリューム(体積)としてとらえる感覚。これを、P・ヴァレリーは「第四の身体」といった。外からの「画像」としての身体でもなく、みずからの「実在感」としての身体でもなく、「肉や骨や内臓」としての身体でもない、「非存在」の「第4の身体」のイメージがある、というわけです。
「非存在」、すなわち「空間」のパースペクティヴとしての身体です。
生きものは、自分の身体がこの世界の空間のどれだけの容量を押しのけて存在しているかということを、直感的に知っている。その直感がなければ、身体は動くことができない。
生きものは、みずからの身体画像を知らないが、「身体の輪郭」をひとつの「体積(パースペクティブ)」として正確に知っている。
それに比べて「身体画像」なんて、生きものは、あんがいよくわかっていないのです。
人間が鏡を持っているということは、鏡を見なければわからないということです。自覚された身体画像なんてそれくらいあいまいだ、ということです。
僕は、街を歩いていてふとビルのガラスを見たとき、そこに映った自分の姿になんと貧相な男かと驚かされることがよくある。
ブスな女が美人と一緒に歩いて平気でいられるのは、自分の「画像」をよく把握していないからだ。もし他人がどういう目で見ているかということを正確にわかったら、彼女はもう、生きてゆけないくらい絶望してしまうだろう。
としをとれば、誰の身体や顔も醜くゆがんだり萎れたりしてゆく。それでもわれわれがなんとか生きてゆけるのは、そんな画像のことなどよくわかっていないからであり、そんな画像を正確に認識することが生きるために不可欠な機能でもないからだ。
空間の容量としての身体、これが「第四の身体」です。それは、「自己意識」としての「画像」や「皮膚感覚」や「肉や骨や内蔵」に対する意識が消えてゆくことと引き換えに得られる「身体(=空間)感覚」なのだ。ヴァレリーがそこまで言っているわけではないが、僕はそういうことだと解釈している。
つまり、魚が狭い岩のあいだをすり抜けてゆくことができるのは、この即自的な「第四の身体」を持っているからであって、内田氏のいうような、外側から眺めた「対自的な画像」=「神の視線」を持っているからではない。
街角の人ごみで、ぶつかり合わずに歩いてゆけるのも、ぶつかりそうになって間一髪でよけることができるのも、この「第四の身体」を持っているからだ。
内田氏なら、さしずめ「身体を離れた真上からの視線を持っていてぶつかりそうになるのを予測できるからだ」というところです。そんなスケベったらしいことをして歩いているのは、内田さん、あなたくらいのものですよ。もっともあなたのように鈍くさい運動オンチは、そこまでしないとぶつかってしまうのかもしれないが。
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内田氏のいう「自己意識」だろうと庶民の「自分さがし」だろうと、ようするに「神の視点」で自分を眺めようとする観念のはたらきにすぎない。
人間はそういう視点に立ちたがる生きものであるが、それが生きてゆくのに不可欠な人間性の基礎だというわけではない。
むしろそれにわずらわされると、われわれは、かえって生きにくくなってしまう。そういう「身体画像=自己意識」は、差別する側の勝者(たとえば美人)をいい気持にさせるが、される側の敗者(たとえばブス)を生きてゆけなくしてしまう。
即自的な「身体(=空間)感覚」、それがわれわれの生存を可能にしている。
意識が世界に気づくとき、「身体画像=自己意識」が消えて、身体は「非存在」としての「空間」になっている。このパースペクティブによって意識は、「大きいなあ」とか「小さいなあ」とか「広いなあ」とか「狭いなあ」とかという感慨を持つのであって、身体画像によってそれを感じることは不可能なのだ。その画像には「体積(パースペクティブ)」がない。
また、他者と出会ったとき、他者の身体とみずからの身体のパースペクティブとのアナログな連続性(類似性)を感じさせられる。太平洋の真っ只中を泳ぐウミガメがあるとき他のウミガメと出会ってたちまち交尾をはじめたとしたら、それはこのパースペクティブの連続性(類似性)に気づいたからだろう。彼らは、生まれてから一度もウミガメを見たことがないし、自分の体すら見たことがないのに、それでも同じウミガメだと気づいたのだ。
つまりそういう認識をひとつの「ときめき」として体験するのが、人間性というものだ。
人間とは自己意識である、と内田氏はいうが、そうじゃない。世界に気づいて自己意識が消えてゆく体験のダイナミズムにある。自分の体を外側から眺める自己意識でちんちんは勃起しない。他者に気づく体験のダイナミズムこそ、人間的な勃起のかたち、すなわち人間性なのだ。
われわれ差別されるがわの庶民は、自分を外側から眺めて自分にうっとりするような、そんなスケベったらしい自己意識に執着して生きてゆくことなんかできない。
それは、内田氏のように、見栄張って他人をたらしこむことばかり考えている人の意識なのだ。
鈍くさい運動オンチのくせに武道の極意がわかっているような顔をし、哲学する度胸もないくせに哲学しているかのように見せびらかすことのできる立場と才能を持った人は、せいぜいそうやって生きてゆけばいいさ。
むかつくくらい目ざわりだけど、しかたがない。世の中なんて、そういう卑しく下品なやつがのさばるようにできている。
だけど、これだけは言っておく。内田さん、あなたよりわれわれの思考の方がはるかに人間の根源に届いているはずだ、と。
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内田氏は、じつに安直に「美しい」という言葉を連呼する。
美しいか否かで判断する、という。それは、「美しい」ということがわかっていない人間の態度なのだ。ようするに「美しい」という「規範」で判断しているのです。そういう「規範」にしがみつかないと美しいか否かの判断ができない、ということです。
「美しい」と判断する規範は、身体の外からの視線によってつくられる。
しかし、小林秀雄はこう言った。「花の美しさのようなものがあるのではない。美しい花がある」と。
この言葉の意味は、「美しい」という規範にしがみついている内田氏にはわからない。
身体の外側からの視線がどうちゃらこうちゃらと言っている人間にわかるものか。
人間とは自己意識である、と言っている人間にわかるものか。
自己意識が消えた即自的な視線で世界に気づくこと、そのときめきを知らないやつが、「美しい」という規範にしがみついて世界を納得しようとする。
幸田文の文章は美しい」という「規範」にしたがって、「幸田文の文章は美しい」と判断する。「余分なものを削ぎ落とした文章は美しい」という「規範」にしたがって、「余分なものを削ぎ落とした文章は美しい」と判断する。
そんな「規範」などいっさい忘れて、なんだかわからないけど胸がときめく、という体験がある。
そういう即自的な体験を「美しい花がある」というのだ。
ようするに、ちんちんが勃起する、という体験のことです。
「美しい」という言葉を喪失する体験が、「美しい」という体験なのだ。
勝手に文学通ぶっていやがれ。
文学なんか、おら知らん。