内田樹という迷惑・あきはばら7

彼と「ロリコン・コミック」との関係。
彼は、「女」という存在をどのように見ていたのだろうか。
彼が最初に出会った女は、もちろん母親だ。
その母親は、能力至上主義で、幼いときから厳しく彼をしつけた。
母は、全能の神のように彼の前に立ちはだかっていた。
それはもう、従うしかなかった。
おそらく、ストレスの中に身を置こうとする彼の自虐趣味は、そういう幼児体験によってすでにつくられていたのだろう。
幼稚園のときに家出をし、歩いて一時間以上かかる祖父母に家に行っていたというエピソードは、母親から受けるストレスがいかに大きいものだったかをうかがわせる。
幼い彼にとっては、そのストレスと和解することが生き延びるすべだった。
一般的に、幼児体験をゆがませるのは、貧乏よりも親との関係の方がはるかに大きい。
現代は、核家族になって親の干渉はますます強くなっている。日本が貧乏だったころよりも、今の子供のほうがずっとストレスフルな生存を強いられている。
子供との対話を多くし、休日には遊園地に連れてゆけばそれでいいのかといえば、そんなものじゃない。子供にとって親は、存在そのものがストレスなのだ。
子供との対話などと言っても、それじたいがしらずしらずのうちにプレッシャーをかける行為になっている場合も多い。親の吐き出す言葉のひとつひとつが、子供にとっての抑圧になっていたりする
「あのお花きれいね」
と子供に声をかければ絵に描いたようなやさしいお母さんの姿になるが、その言葉によって子供は、自分もきれいだと思わなければならないというプレッシャーを受けている。
お母さんにやさしくていねいに世話されようと、厳しくしつけられようと、すなわちお母さんに愛されること、それじたいが子供にとってのプレッシャーなのだ。
お母さんに「あのお花きれいね」といわれた瞬間、子供は「あのお花」に対するみずからの反応を放棄しなければならない。
そうやって子供が無感動な人間になってゆく場合もあるのですよ。
ましてや、あの若者の場合は、絶え間ない叱責によるあからさまなプレッシャーをかけられていた。
その母親が、高校生になった彼のことを、家の中で二人きりになると「酒鬼薔薇少年」のようで怖い、と周囲に洩らしていたのだとか。
よく言うよ、という話です。そこまで追いつめたのはいったい誰なのか。彼にすれば、母親に対して反応しないことが唯一の自分の身を守る方法になってしまっていたのだ。
子供の未来像を描いてそのようにしつけるということは、子供の現在(今ここ)を否定してゆく行為です。
彼は、お母さんに自分の存在を「肯定」してもらったことがないのです。
そのあげくに「酒鬼薔薇」呼ばわりされたら、たまったものじゃない。
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彼が、「ロリコン・アニメ」に夢中になっていったのは、幼くしてすでに女の恐ろしさを実感してしまったからかもしれない。
彼は、プレッシャーをかけてこない女に憧れた。しかしそんな女は、アニメの中にしかいなかった。
生身の女が怖い、という言い方は正確ではないような気がする。「彼女がいれば」といっていたくらいだから、むしろ、生身の女を求めていたのだ。
ただ、女から「検閲」されることが怖かった。そういうストレスを、いやというほど味わって育ってきたのだ。
アニメの中の「戦う美少女」がことに好きだったらしい。
「戦う美少女」は、男を検閲しない。つねに敵と戦っている。
そして彼には、けっして勝ち目のない「母」という敵がいた。
母と戦いたかったけど、戦えなかった。
母を受け入れている自分と、許すまいとする自分。
現代の若者による「ロリコン」趣味は、母親の抑圧を受けて育ったという背景があるのではないだろうか。彼らは、生身の女が怖いのではない。母親が怖いのだ。母親に「検閲」されることが怖いのだ。
ロリータ少女は、男を検閲しない。その目は、世界のすべてを肯定している。あるいは、読者ひとりだけを見ている。つねに「今ここ」だけを見ている。それは、「今ここ」の読者だけを見ている、ということだ。
彼らは、ロリータ少女の「検閲しない視線」に魅せられている。彼らは、検閲されたくないが、見つめられたがっている。「検閲しない」というかたちで検閲されたがっている。
ロリータ少女であろうと、女は女だ。「オタク」と呼ばれる彼らは、けっして女を否定していない。女が「検閲する(見つめる)」存在であるということを否定しているわけではない。それは、母親を否定していない、ということでもある。
とにかく秋葉原で事件を起こした彼は、彼女をほしがっていたし、年上の女性の「萌え声」が収録されたCDを愛聴したりもしていた。つまり、たんなるロリータ趣味というのとはちょっと違う。
その「萌え声」とは、こんなふうらしい。
「・・・・・・おねえちゃんはね、君ががんばってる姿をみるのがいちばん好きなの。えらいね〜、なでなで、なでなで、すごい、すごすぎる、かっこいい〜、お姉ちゃんしびれちゃう〜。おねえちゃんは・・・弟のために戦場を駆ける・・・時を駆けるおねえちゃん。いつもお仕事お疲れさま、おねえちゃんがお酌してあげるね」(「応援おねえちゃん」)
こんなCDを企画したレコード会社の社員もたいしたものだと思ってしまう。これこそ日本の男女の関係の原型であり、今なお日本の男たちの無意識にはこのような関係へのあこがれが潜んでいるはずです。この国の飲み屋の文化もフーゾク産業も、このかたちの上に成り立っている。
童貞を卒業することをむかしは「筆下ろし」といったが、相手が商売女であれ素人であれ、このようなかたちで体験するのが理想だとされていた。
たぶん、彼なりに女との関係に入ってゆく方法や心構えを模索していたのだと思う。というか、いつも模索しながら生きてきたのだろう。
女とはつまるところ男を「検閲」する存在であるのなら、こんなかたちで「検閲」されたい(かまわれたい)というのが、彼のたどり着いた場所だったのではないだろうか。
ロリコン・オタク」であるはずの彼がこんな「おねえちゃん」CDを聞いていたということは、なんのかのとと言ってもけっきょく母親を許していた、ということを意味するのかもしれない。
ちなみに彼の母親は、美人で才媛の姉さん女房であったらしい、かつては。