内田樹という迷惑・あきはばら8

秋葉原で事件を起こした彼は、携帯サイトでいつも「自分は不細工な嫌われ者だ」と言っていた。
べつに不細工でも嫌われ者でもなかったのに、どうしてそんなことばかり言わずにいられなかったのだろう。
内田氏など、われわれから見れば反吐が出そうなほどグロテスクな人間なのに、自分は誰よりも清らかな魂の持ち主のナイスなおじさまだとしつこく自慢ばかりしている。
いったい、この落差はなんなのだ、と思う。
げすな自慢ばかりしているやつがますますのさばり、自分を持て余して自分にうんざりしていた誠実で人恋しさに溢れた若者が、あんなひどい事件を起こすところまで追い詰められてしまった。
世の中そんなものさというのならそれでもいいのだが、こちらだって、薄っぺらなことばかりほざいているくせにいっぱしの哲学者か文学通を気取っているあほな大学教授くらいはちゃんと軽蔑しきるだけの確信はもったほうがよい。
軽蔑しきることができないと、自己嫌悪に押しつぶされてしまう。
内田氏がのさばることは勝手だが、あんなくだらない言説が正義で清らかな魂の発露だということにされたら、たまったものではない。
正義なんてどうでもいい、しかし清らかな魂は、あの若者の方にあるのだ。内田氏の中にでは、断じてない。
若者たちのネットシーンでは、「加藤よ、俺たちに勇気を与えてくれてありがとう」とか、彼をいわば「殉教者」として賛美する書き込みが後を絶たないのだとか。
大人たちは、この現象に、きっととまどっていることだろう。
彼らが厚顔無恥に叫びつづけている「命の大切さ」などという愚劣で安直な平和ボケしたスローガンが今否定されているのだ。そうして、「社会の不公正な構造が彼をこんなにも醜い人間にしてしまったのだ」というような結論で納得しようとしているのだろうが、それはごまかしだ。彼は醜い人間ではない。すくなくとも一部の同世代からは、そんなふうには見られていない。魅力的な人間として慕われているのだ。そのことを、なんと思う?彼らが愚かだからか?
僕は、そうは思わない。
何であれ、とにかく彼らは、そこに清らかで傷つきやすい心のかたちを感じてしまったのだ。ただの殺人鬼が起こした事件だとは誰も思っていない。つまり、人を殺した行為そのものだけを賛美しているのではない。自分たちよりももっと追い詰められてしまった心を傷んでいるのだ。
人を殺すことことが社会的に許されることではないことくらい、誰だって知っているさ。それでも、なぜ「殺してみたい」と思ってしまうのだろう、と彼らは煩悶している。
嫌いな人間を殺したいというのとは違うのですよ。
殺すという行為それじたいに魅入られてしまう。それがなぜかと問われなければならない。
「自制心がないからだ」とか、「欲望を求めすぎるからだ」というようなステレオタイプな議論は無意味だ。それじたい、殺すことが魅力的な行為だと認めてしまっていることになる。
殺すことが魅力的で楽しい行為であるはずがない。究極のストレスに決まっている。
とすれば、そのストレスのかたちを確かめてみたいという衝動だろうか。
幸せで楽しいことばかりが価値の世の中だから、自分の中のストレスのかたちがうまく把握できない。ストレスはいっぱいあるのに、そのかたちがうまくとらえられない。
そういうストレスを、まとめて吐き出してしまいたい。
そうすれば、どんなにすっきりすることだろう。
彼がトラックで人を轢き殺したとき、楽しさなんかなかったはずだ。ただもう狂おしいようなストレスがわっと押し寄せてきただけだろう。そうしてわけもなく人を突き刺してゆくうちに記憶がなくなってしまった。
たぶん、ものすごいストレスの中に飛び込んでいっただけだろう。そしてそれこそが、彼の望んだものだったのだ。
快楽とは、ストレスの別名である。
「人を殺してみたい」という彼らの衝動には、たんなる「社会規範(道徳)の侵犯」というだけではすまない側面がある。
この問題を考えようとすると、僕はもう迷路に引きずり込まれて、頭が痛くなってくる。
いろんな側面がある。
それは、現代社会を生きる若者の実存の問題であり、人間の歴史の問題であり、現代の家族問題でもある。そしてなにより、「加藤なにがし」という個人のパーソナリティの問題でもある。
まことにややこしい。僕は、途方に暮れる。
ある雑誌で内田氏と養孟司先生が対談し、この事件のことも話題に上ったそうだが、いったい何を話したのか、見ものである。
どうせ二人とも例の調子で、俺にはこの事件の構造が見えている、というような口ぶりで、現代社会なり人間なりを断定してくれているのだろう。
しょせんあなたたちの思考は「解答」をまさぐるしか能がないのだ。わかったようなことを言ってしまうことの反省やはにかみは、あなたたちとは無縁だ。
こういう傲慢で短絡的な脳みその構造のことを、イカフライ氏は侮蔑的に「東大脳」といっていたが、僕も、おめえらしょせんそのていどなんだよ、と言いたい。彼らには、あの若者のように、解答のない問題と向き合うことのストレスの真っ只中に入ってゆけるような率直さも誠実さも勇気もない。
わかったような顔をして、どうせ上から人を見下すようなことばかりほざいているのだろう。
違うかもしれないけど、彼らのふだんからの言説に対しては、僕はそういう印象しかない。
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たとえば、1987年6月の「現代思想」という雑誌で「進化論への新しい視座」という特集が組まれたさい、養老先生は、大島清という生殖生理学の権威と対談していた。そこで先生は、まあえらそげに知識を振り回して独壇場の弁舌を発揮しておられるのだが、途中で、おまえらこんななこと考えたことあるまいという調子で、生きものの進化の過程でなぜ「雌雄」というものが生まれてきたのかわからない、と語っていました。
「わからない」といえば、一見誠実そうだが、ようするに、この「解答のない問題」を問いつめようとする根性も誠実さもない、という馬脚をあらわしているだけのことではないだろうか。「東大脳」は知識を振り回すのは得意だが、「解答のない問題」と格闘するストレスの中に入ってゆく能力がないのですね。
解剖学者で、しかも昆虫のことにも並みの学者以上に詳しいその人が、「雌雄の発生」の「仮説」ひとつも持っていないなんて、変ですよ。立場上うかつなことはいえないとか、そういう問題ではない。「わからない」ということを自信まんまんに言っているのだから、単純に、問い詰める能力がないだけのことさ。
「東大脳」は、「仮説」を提出しないでもいいと思っていやがる。その単純で不誠実な頭の構造が、僕は気にくわない。言ったからには提出してみせるのが、この国をリードする知性のたしなみとプライドだろうが。
いっちゃなんだけど、僕は、この記事を読んだことがきっかけで、ない頭をしぼってけんめいに「仮説」を考えましたよ。このことに関してなら僕の何万倍も知識を持っているその人が、たったひとつの「仮説」も提出できないなんて、ぶざまですよ。
で、僕がどんな「仮説」を考えたかということは、今は書きません。さし当たって秋葉原の事件とは関係ないことだから。
ようするにそういう短絡的な思考回路だから、断定口調のえらそげなことをぽんぽん言えるのだ、ということです。
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それにたいして秋葉原事件の彼は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という答えのない問いの中に、どんどん入り込んでいった。「殺してみたい」という衝動があるから、問わずにいられない。
「殺してみたい」という衝動を持った若者のその問いに対して、「いけないに決まっているじゃないか」という前提で解答する態度は誠実さが欠けている。薄っぺらな「東大脳」的解答だ。そんな前提は、共同体の規範において成り立っているだけで、人間とは何かと問うなら、ひとまず「わからない」と言うしかないのだ。
「いけないに決まっている」などというせりふは、この世から死刑も戦争もなくしてからにしてくれ、と彼らは言う。その通りだ。
「人殺し」のない社会は、「殺したくない」という思いの上にしか成り立たないのであって、「殺してはいけない」という規範によってではない。なぜなら、そういう規範をつくるということじたい、「殺してみたい」という衝動を認めていることだからだ。それが人間の本性である、と認めていることだからだ。
「殺してはいけない」という法律があるから、「殺してみたい」という衝動が起きてくるのではない。「殺してみたい」という衝動があるから、「殺してはいけない」という法律が生まれてきたのだ。
したがって、「殺してみたい」という衝動が非人間的なものだというアプリオリは成り立たない。
「殺してはいけない」という法律は、人間の本性を否定し、抑圧しているのだろうか。
人殺しは死刑だぞ、というのなら、死刑になることを受け入れたら人を殺してもいいということか。
どうやら、そういうことらしい。
つまり、「死んでしまいたい」と思った瞬間、彼は、人を殺す権利を手に入れる。
そういう気分が、若者の中にある。生きていてもしょうがない、と思うのなら、どうしても「人を殺してみたい」という気分になってしまう。「生き延びる」ためではない、「死んでしまいたい=生きていてもしょうがない」という衝動の表現として「殺してみたい」のだ。
息苦しくなったら息をするように、空腹の鬱陶しさを解消するために飯を食うように、この生にうんざりすることが生きることなのだ。この生にうんざりするという「反応」がなければ、生き物は生きてゆけない。この生は、そういう仕組みになっている。
生き物は、生きてゆこうとする「本能」によって生きているのではない。そんな「本能」などというものはないのだ。ただ、生きていれば必ず息苦しいとか空腹だというかたちで「今ここ」に対する幻滅がやってくるから、その幻滅に追い立てられて、息をするとか飯をくうと言うかたちで「つぎの瞬間」に逃げ込んでいっているだけだ。
この生を侮蔑する者こそ、もっとも誠実に生きているのだ。それはたしかにそうなのだ。生きることは、この生を侮蔑することなのだ。
秋葉原で事件を起こした若者は、誰よりも深くみずからの生を侮蔑していた。それは、誰よりも誠実に生きていたということです。そしてたいていの若者が、そんなふうな観念の姿勢で生きている。
だから、ネット上で賛美されているのだ。彼らが「勇気を与えてくれてありがとう」というのは、「われわれに人殺しをする勇気を与ええくれてありがとう」と言っているのではないですよ。この生に幻滅しながら生きてゆくことのできる勇気を与えてくれてくれてありがとう、この生に幻滅することを肯定してくれてありがとう、と言っているのだ。
若者の中の「人を殺してみたい」という衝動がどこからやってくるのか。
べつに、そういう劇画があるからじゃない。「人を殺してみたい」という衝動があるから、そういう劇画が生まれ、もてはやされるのだ。
そしてこの衝動を根源的に問うなら、われわれはもうそれを否定することができなくなってしまう。
あえて言います。給料が少ないことなんかたいした問題じゃない。結論を急いでいってしまえば、内田氏とか養老先生のようなくだらないことをいう学者や、それに追従したがるくだらない大人がのさばっている世の中だから、若者が「殺してみたい」と発想してしまうのだ。あなたたちのそのえらそげな態度とその雑駁な思想が、若者を追いつめているんだぞ。
現代社会は、若者が「殺してみたい」と発想してしまうような観念空間になっている。劇画のせいじゃない。あなたたちの、そしてこの世の大人たちのくだらない思想のせいなのだ。
死刑が極刑だという鳩山大臣は甘い。極刑とは、永遠に生きつづけることだ。
あの若者は、「死刑」という甘い誘惑に引き寄せられて秋葉原に向かったのだ。
それくらい彼は、生きてあることにうんざりしていた。そしてうんざりすることは、生きものとして当然のことだし、人間としてもっとも誠実な態度なのだ。そういうことを肯定した上で、なお「人殺し」が起きない社会をどうすればつくることができるのか。
それはもう、僕のこの幼稚な脳みそのおよぶところではない。
言いたいことは、内田氏や養老先生のような安っぽい言説をたれながす「大人」がのさばっている世の中であるかぎり、若者の「人を殺してみたい」という衝動を自覚する風潮もなくならない、ということです。
人殺しの劇画よりも、おふたりのえらそげな言説の方が、ずっとたちが悪いと僕は思っている。何かを悟ったつもりでいやがるその安直な思考が気に食わない。答えのない問いの中で身悶えするという誠実さがないだけなのに、自分は誰よりも賢いつもりでいやがる。
僕は、あなたたちのその薄っぺらな言説から学ぶものなど何もない。
人間とは何かということは、秋葉原に向かったあの若者から学ぶ。
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とくに、内田氏の愚劣な道徳論くらいは、ちゃんと軽蔑できるようになりたいものだ、と僕は思っている。
誰かが「この人は倫理というものがわかっているのだろうか」といっていたが、内田氏の粗雑な言説など、倫理にすらなっていない。
「この世の誰もが自分みたいな人間になったときのことを考えなさい」だって。
くだらない。誰がおめえみたいな愚劣な人間になるものか。死んでもなるものか。
「他者の異質性」がどうとかこうとかほざいているその口の裏で、こんどは「この世の誰もが自分みたいな人間になったときのことを考えなさい」てか。この人は、言ってることが矛盾だらけなのだ。その場その場の口から出まかせで、他人をたらしこむことばかり考えていやがる。
「この世の誰もが自分みたいな人間になったときのことを考えなさい」だなんて、何様のつもりでいやがる、という話です。ようするに「君たちも私のようになりなさい」と脅迫しているのです。
具体的に言えば、この国の誰もが内田氏のような「プチ・ブル」の「プチ・インテリ」になることをめざすのが彼の思想的戦略なのだそうです。
よけいなお世話だ。おまえごときが、この国の将来なんか語るなよ。そんなことを語る資格のある人間なんか、どこにもいない。そんなことは、歴史が決定するのだ。少しは、「他者」や「歴史」というものに対する畏れというものを持てよ。それは、おまえが他人の運命を決定しようとする態度なのだぞ。われわれは、おめえみたいな薄汚い人間にはなりたくないと思っているのだぞ。そういう人間もいるということは、誰においても承知しておかないといけないことだろうが。おまえにこの国の将来を決める権利があるのか。ろくに哲学も倫理もわかっていないおまえさんに。
われわれは、「自分のような人間は誰かに<殺してしまいたい>と思われてもしかたない」という思いが、つねに胸の底で疼いている。われわれは、この国の将来は「他者=時代」に託す。そして「他者=時代」を受け入れる。だから、あるべきこの国の将来なんか語らない。あくまで目の前の「他者=時代」に反応して生きてゆくだけだ。
ところが内田氏は、誰も自分のことを嫌うはずがない、軽蔑するはずがないという前提で発言している。そういうふうに決めてかかって、なんの恥じらいもなくこの国の将来を正義づらして語り出す。そんな恥知らずな人間が「ためらいの倫理学」だなんて、笑わせてくれる。
だったら、この国の将来を語ることにも「ためらい」をもてよ。
臆面もなく口から出まかせばかり垂れ流しやがって。
自信があるというより、不細工な男が虚勢を張っているだけのことだ。
こんな不細工な男に追いつめられるなんて悔しいではないか。だったら、思い切り侮蔑してやるしかない。
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秋葉原の彼は、人恋しくてしょうがなかった。
携帯サイトにはまるのは、人恋しいからだ。生身の人間を相手にできないからだ、などとよくいうが、そういうことじゃないのですよね。彼は、職場の仲間と仲良くやっていたのです。
それでも、それだけではすまなかった。
生身の人間とのつきあいは、自分が魅力的な人間としてふるまわなければつきあってもらえない。自分が不細工であることを許してくれるわけではない。
彼は、顔も性格もけっして不細工ではなかったのに、携帯サイトでは、不細工な嫌われ者だと執拗に告白した。それは、「許されたかった」からだ。
たんなる「好かれる」という関係ではなく、それ以上の「許される」という関係を願った。それほどに人恋しかった。
もしかしたら、お母さんに許されたい、という潜在意識かもしれない。彼の母親は、けっして彼を許さなかった。厳しくしつけをするということはつまるところそういうことであり、高校になって学力が低下した彼に対しては、見離すような態度を取った。彼は、ついに「許されなかった」のだ。
許されないのなら、もう許されない人間になりきるしかない。なりきって、お母さんに「ざまあみやがれ」といいたかったのだろうか。そういう気分で、秋葉原に向かったのだろうか。
彼の人恋しさは、本格的だった。
携帯サイトでは、相手の姿が見えない。だから、嘘の(バーチャルな)人間関係だというが、ちょっと違うと思う。
太陽が照りつける晴れた日に、太陽が恋しいと思うことは論理的に不可能です。曇りの日や雨の日にこそ、太陽が恋しいと思う。見上げるその雲の向こうに太陽がいる。その太陽が恋しい。携帯サイトも、これと同じでしょう。目の前にいないからこそ、せつなく恋しいと思ってしまう。携帯サイトとは、そういう体験の場ではないかと思えます。
携帯サイトだからこそ彼は、せつなく「許し」を乞わずにいられなかった。
人恋しさがなかったら、報われることの少ない携帯サイトなんかやってられないし、携帯サイトだからこそ、人恋しさが募ってしまう。
そして、もっともせつない人恋しさとは、「許し」を乞うことなのだ。
この気持ちは、内田樹とかいうあほな大学教授にはたぶんわからない。
「女は何を欲望するか?」の中で、彼はこんなふうに言っています。
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例えば、私が、「私は頭の悪い人間です」と言うときには、「私は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間です」というメッセージを同時に発信している。「私は邪悪な人間です」と断言するときは、「私は自分の道徳性を過大評価するほど非倫理的な人間ではありません」というメッセージを同時に発信している。
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自分がそうやって他人をたらしこむことばかりしているからといって、他人まで同じだと決めつけるなよ。というか、自分のスケベ根性の馬脚をみごとにさらけ出してしまっている。
秋葉原の彼は、しんそこ「自分は不細工な人間だ」と思っていたのだ。不細工じゃないと言ってほしかったのではなく(それくらいのことは、職場の同僚が言ってくれている)、不細工であるということそのものを許してほしかったのだ。携帯サイトなら誰かが許してくれる、と思ったのだ。
われわれが、そうやって卑下したり自虐的になったりしてそんなことを言うとき、かならずしも内田氏のようにひとひねりして自慢しているのではなく、ほんとに自分のだめさかげん醜さかげんをそのままのかたちで許してもらいたいと訴えているときがある。
そして秋葉原の彼は、われわれの何倍ものせつなさと切迫した気持で「不細工」であることの「許し」を乞うたのだ。
小ざかしくひとひねりして自慢したかったのではない。
何を下司なことほざいてやがる。
彼は、けんめいに「許し」を乞うた。しかしそれは、ついに叶えられなかった。日に何百件も書き込みをして反応はひとつもない、という状態になっても、まだ送信しつづけた。そうして、絶望した。
もう許されない不細工な人間になりきるしかなかった。つまり、そういうかたちで「神」に許しを乞うたのだろうか。
彼ほどひたむきに「許し」を乞うた人間もいない。そんな人間が、あんなにも陰惨な結末に向かって突っ走っていかねばならなかった。
その行為を、どう裁けばいいのかなんて、僕にはわからない。
もう一度ドストエフスキーの「罪と罰」を読み返してみようか、と思っています。
社会に追いつめられたとか、そんな単純なことじゃない。彼は、社会に追いつめられた「ふり」をしてみせただけだ。彼は「人間」に追いつめられたのだ。
とすれば彼は、われわれ以上に、内田氏のごときあほな大学教授がのさばる社会や、内田氏のような大人たちを侮蔑しきっていたのかもしれない。
「彼女さえいれば」、と彼は言った。どんな社会よりも、内田氏のどんなありがたいご託宣よりも、彼に必要だったのは、ただもう「彼女の許し」だけだったのだ。
内田さん、「この世にはセックスよりも大事なものがある」などというあなたのせりふを、しんそこ軽蔑しますよ。
侮蔑しつつ許す、というこの世のもっとも崇高な態度は、女のおまんこにしかできないのだ。あなたのごとき思想的インポにはわかるまいが、彼はたぶん、どこかでそれを直感していた。