内田樹という迷惑・あきはばら10

原始人がはじめて海の魚と山の木の実を交換したとき、彼らは、自分のいちばん大事なものを差し出して、取り立てて欲しくもないものを受け取った。
経済としての「交換」という行為は、そこから始まったのだ。
海の魚を食ったことのない者は、べつにそれを食いたいとも思わない。しかし、それが相手にとって大事なものであることの「信憑」があった。海の魚は、海の民の命を支えている大事なものにちがいない。そして山の木の実は、山の民の命を支えている。たがいに、そういう大事なものを差し出したのだ。余っていらなくなったから、ほかのもっといいものと交換して「利潤」を得ようとしたのではない。
「交換」しあうことそれじたいによろこびがあった。
山の民にとって海の魚なんか、欲しくもなんともない。たがいに欲しくもなんともないものだけれど、「交換する」ことそれじたいがうれしかった。
「交換する」とは、「祝福する」ということだ。
みずからの大事なものを差し出して、相手を祝福する。これが、根源的な「交換」という行為であろうと思えます。
「贈与と返礼」、内田氏のお得意のせりふです。これだけで「交換(=コミュニケーション)の起源」が語れるつもりでいやがる。
しかし原始人の「交換」という行為に「返礼」などという行為はなく、「贈与」だけがあった。彼らの「交換」に「剰余価値」などという「利潤」はなかった。それは、「商品」ではなく、交換のために「道具」に過ぎなかった。
原始人の「交換」は、たがいに祝福し合う行為だった。
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人間とは、祝福し合う生きものであるのか。
秋葉原事件の若者は形態サイトでそれを予告してしまったから引っ込みがつかなくなったのだ、とよく言われているが、引っ込みがつかなくなることじたい他者を祝福している態度にほかならない。祝福する気持ちがなければ、そんなもの知らん振りしとけばいいだけだ。普通の人間は、多かれ少なかれそうやって他者を祝福しながら生きている。祝福する気持ちがあるから追いつめられる。
ただ内田氏などは、二枚舌だろうと三枚舌だろうとお構いなしに「複数のボイスは美しい」などと居直ったようなことをほざきながら、平気で前言と矛盾したことを吹きまくっているのだが。
僕は、「引っ込みがつかなくなったのさ」と言って何かがわかったつもりでいる知識人たちにたいして、こう言いたい。引っ込みがつかなくなるところまで追いつめられる者の気持を、おまえら考えたことがあるのか。おまえらなら、いったん怖気づいたり興味がなくなったりすれば、やめてしまうだろうが。彼は、引っ込みがつかなくなるくらい他者を祝福していたのだ。それくらい他者の存在を切迫して思ったことが、おまえらにあるか。それは、自分の「死刑」と引き換えになされた行為なんだぞ。引っ込みがつかないというだけではすまない何かがあるだろう、と。
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人間の直立二足歩行は、胸・腹・性器等の急所を晒して、相手に殺されても仕方のない姿勢です。
殺されても仕方のない者どうしが出会えば、殺し合うか祝福し合うかのどちらかしかない。そして祝福するとは、許すことであると同時に、許しを乞うことでもある。
つまりそこで、「侮蔑しつつ許す」という関係が生まれる。
「殺意」を「侮蔑」に変えて「許してゆく」のが、直立二足歩行する人間性の基礎なのだ。
人間は、急所=弱みを晒して存在している。侮蔑されるべき存在なのだ。しかしそうやって出会った他者を侮蔑したとき、みずからもまた侮蔑されるべき存在であることに気づかされる。そうして他者を許し、みずからもまた許しを乞うほかない。
秋葉原事件の彼は、携帯サイトでしきりに「自分は不細工な嫌われ者だ」と言い募りつつ、けんめいに許しを乞うていた。それは、彼が、他者を許していたからだ。侮蔑しつつ許していたのだ。だから自分も、侮蔑されつつ許されたいと願った。
彼が「自分は不細工な嫌われ者だ」と言うとき、原始人の海の民が海の魚を差し出す行為に似ている。彼は、みずからの急所=弱みを晒した。それは、他者を祝福する態度でもある。「弱み」を晒す者は、他者を祝福することによってしか生きてゆけない。彼は、そういうかたちでけんめいに他者を祝福していたのだ。
携帯サイトの「自分は不細工な嫌われ者だ」という書き込みを見たほとんどの者が、うっとうしがり、侮蔑した。そのメッセージを、たぶん誰も理解できなかった。せいぜい内田氏が言うところの「私(が自分のことをばかだと言うの)は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間(だから)です」という程度のひねくれた自慢の仕方をするいけ好かないやつだ、というような印象しか持たなかったのでしょう。
内田氏は、人間はそういうひとひねりした自慢の仕方をする生きものだ、というが、そうじゃない。内田氏自身をはじめとしてそういういけ好かないやつがときどきいる、というだけのことだ。そして彼のメッセージを読んだ読者も、そういういけ好かないやつのひとりだろうと思った。
あの若者のしんそこからの叫びだとは、誰も受け取らなかった。誰もがそういう思いを抱えているからこそ、そうかんたんに告白できることではないはずだった。ほんとにそう思っているのなら、そんなことつらくて言えないだろう、と誰もが解釈した。
だから彼は、それがしんそこからの叫びであることを証明しなければならないと思った。
正真正銘の不細工な嫌われ者として「死刑」になってみせなければならなかった。
ひとり殺すたびに「死刑」に近づいてゆく・・・・・・その狂おしい確信(ストレス)の中に彼は飛び込んでいった。
事件が起きて、携帯サイトの受信者たちは、はじめてそれがしんそこからの許しを乞うメッセージであったことを知った。そうして「加藤よ、俺たちに勇気を与えてくれてありがとう」というメッセージを投げ返した。
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鳩山大臣、死刑制度が今回の事件を引き起こした、という側面がないではないはずですよ。庶民の若者は、あなたのようなセレブなお坊ちゃんほど死を怖がっていないのですよ。あなたのような醜い老人ほど死を怖がってなどいないのですよ。「死にたい」と思っている若者はたくさんいるのですよ。そういう若者にとっての「死刑」は、ひとつの甘い誘惑なのですよ。
人を殺すということは、自分が死ぬということを確信することです。
人がこの世に生まれてくるということは、死刑を宣告されることでもある。だから、いつ死のうとたいした違いはない。それはたしかにそうなのです。
かならず死ぬ、ということがわかってしまえば、死にたくなってしまう。いやそれは、じつはわからないことであるのだが、この手で人を殺せば、たしかな確信になる。
この世に生きてある者は、誰も死んだことがないのだから、ほんとうに死ぬのかどうかよくわからない。でも、きっと死ぬ。だから、なんとしてもそれを確かめてみたい。確かめるためには、人を殺してみるしかない。それは、人間の観念の運動の、ひとつの法則のようなものかもしれない。
現代人は、けんめいに死なないようにして生きている。そのための医療技術は発達したし、遺伝子操作でほんとうに死なないですむ方法まで研究している。そんな世の中だもの。死を見てみたい、死を確認したい、という気持だってとうぜん強くなってくる。
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養老先生は、「人間の死亡率は100パーセントなのだよ」と悟ったようなことを自慢げに吹聴している。くだらない。そんなことは、あなたにいわれなくてもみんなわかっているのだ。わかっているから、さまざまな愚かな行為が起きてくるのだ。そのことをみんなわかっていない、なんて、他人を見くびるのもいいかげんしろ。みんな、あなたより切なくそのことを思っているさ。せつなく思っているから、ややこしくなるんじゃないか。
この世の醜い大人たちが、とりあえず明日は死なないという前提のスケジュールの中で生きているとすれば、それは死ぬことがわかっていないからではなく、わかりすぎる恐怖のあまりはんぶん「気絶」して生きているからだ。わかっていないのは、わかりすぎているからだ。
僕の知り合いに、古代ローマ時代の戦争のことにやたら詳しい男がいる。彼は、べつに死ぬことが怖いとも思わない、という。それは、彼が悟っているからでも、みずからの死のことがよくわかっていないからでもない。怖くてはんぶん気絶してしまっているからだ。気絶しているから、戦争の知識を面白おかしくいじくりまわすことができるのだ。
その男にしても養老先生にしても、べつに死ぬことが怖いとも思わないのは、悟っているからじゃなく、ある種の精神が麻痺してしまっているからであり、はんぶん気絶してしまっているからだ。養老先生だって、はんぶん気絶しながら、死体解剖の仕事を粛々と果たしてくることができたのだろう。
僕はべつに、はんぶん気絶することが悪いといっているのではない。ただ、はんぶん気絶しているから戦争という殺し合いの話に耽溺することができるのだし、死体解剖を粛々と執り行うことができるのだし、仕事人間になって明日のスケジュールにのめりこんでゆく生き方ができる、という側面はあるはずで、そういうことを自覚しようよ、と言いたいだけです。
養老先生、「死亡率100パーセント」というあなただって同じ穴のムジナなんだぜ。そして内田氏など、はんぶん以上気絶してしまっている。
それに対して「自分は不細工な嫌われ者だ」といった若者は、気絶しない生き方をしていた。気絶していないから、「自分は不細工な嫌われ者だ」と思い知るほかなかった。それは、胸・腹・性器等の「急所=弱み」を晒して存在している人間の本性に通じた、きわめて根源的な認識なのだ。
気絶しない生き方をしていたから、つぎつぎに人を殺してゆく気絶の体験に引き寄せられていった。それが、やりきれなくて、僕の考えることはいつまでたっても収拾がつかない。
内田氏や養老先生のようにかんたんに収拾してしまえるなら、そりゃあ楽でしょうよ。
しかしそれは、あなたたちが頭がいいからではない。すぐに「気絶」してしまえる人間だからだ。