内田樹という迷惑・「ほめる」ことと「けなす」こと

相手の美質を探し出して「ほめる」ことこそ批評の能力であり本質である、と内田氏は言っている。
何言ってるんだか。
あんたの言うことは、ていどが低いんだよ。幼稚なんだよ。
誰だって、ほめもすればけなしもする。内田さん、あなただって例外ではないでしょう。
何をほめ、何をけなすか、という態度においてその人の批評性が試されるのだ。
僕には、我慢がならないくらい醜いと感じる体験がある。それが僕の批評の原点だ。
内田さん、僕はあなたの言説に対して、我慢がならないくらい醜いと感じてしまう。僕は、あなたほどお利口ではないし、あなたほど俗物でもない。
自分だってときには他人をけなすくせに、自分をけなす他者はすべて否定する。じぶんのそういう意地汚なさを正当化するために、「ほめることこそ批評の能力である」というような口からでまかせで糊塗しようとする。この俗物根性のふてぶてしさはいったいなんなのだ。
僕だって、他者にひざまずいてゆく態度くらいは持っている。自分をけなす者に対してせつなくひざまずいてゆくという体験が、ないわけではない。
他者にひざまずくという心の動きなどいささかも持っていないやつが、かっこつけて他者をほめて見せたからといって、誰が感心するものか。そんな態度は、姑息なだけでろくな芸も持ち合わせていない太鼓もちがお大尽に擦り寄っていっているのと、少しも変わりはしない。
相手のいいところを探し出してほめてあげる、だって?現代の批評家が、そんな通俗的なことを言っていてなんになる。ほめようがけなそうが、そんなことはどっちでもいいことだ。批評とは、世界を他者を証言することだ。それだけのことでしょうが。あんたの性格なんか、どうでもいいんだよ。
相手のいいところを探してほめてあげることによって、もてようってか。そんなことなどしなくても、相手の存在そのものに、その笑顔やふとした表情にときめく心の動きさえもっていれば、仲良くなることくらいはできるさ。そんなしゃらくさい「知性」なんぞ持っていなくても、もてるやつはもてるのだ。
言い換えれば、「出会いのときめき」は、そんなしゃらくさい知性以前のところで、すでに誰もが体験しているのだ。つまり、社会の規範にべったりと擦り寄ってそういうときめく感受性を失ってしまったやつが、「ほめる」などという手練手管を使いたがる。あなたなんか、もてているのではなく、ほめてたらしこんでいるだけじゃないか。
なにはともあれ、「イカフライ」氏のほうが、ずっとほんとの意味でもてている。
相手の存在そのものを祝福してゆくことができるのなら、ほめる必要なんか何もない。相手と一緒にいることに、ただときめいて踊っていればいいだけのことさ。「ほめる」なんて、そんな小ざかしいことは、どこかのインポ野郎にまかせておくさ。
ほめることが上手な人間は心が清らかだ、てか?何言ってやがる。それじたいが、他者をたらしこもうとするスケベ根性じゃないか。
ほめられりゃ、誰だってうれしいさ。そういう心の隙を突こうとする下心がないといえる自信が、あなたにはあるか。僕にはない。僕は人をほめながら、ときどき自分のいじましさがいやになる。
ほんとに清らかな人は、誰もほめない。ただ「他者」と一緒にいることにときめきよろこんでいるだけだ。そういう人と出会うと、ほんとに自分が恥ずかしくなる。
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人間存在は、この生を侮蔑しつつ受け入れている・・・・・・僕の批評の原点は、そこにある。
この生を侮蔑している者にしか体験できない世界の輝きというものがある。それを提出することが、僕にとっての批評という行為だと思っている。
女(他者)のいいところを見つけてほめてあげるのではなく、そんな小ざかしいことではなく、女(他者)であることそれじたいにときめくことができなければならない・・・・・・と言うとき、それは僕がそういう境地であるからではなく、そういう人がこの世のどこかにいると信じるからです。僕にとって批評とは、そういう「他者」の存在を「証言する」ことだ。
内田氏のように、スケベったらしく自慢たらたらに「自分」を語ることだとは思っていない。
だから僕は、「侮蔑する」という感情から逃れて生きることはできない。
内田氏のごとき低劣な言説は徹底的に侮蔑できなければならない、と自分に課している。しかしまだ、徹底的には侮蔑しきれていない。それが悔しい。
とはいえ、可能な範囲で、敬意は表している。実名だって出しているし、俺はこう考えるというところを身を削って差し出している。言葉尻だけを捕まえてけなしているのではない。いったん相手の言うことを受け入れ、それで我慢がならなくなってしまうから批判しているだけです。
軽くおちょくることができるほど、僕は器用でもおりこうでもない。
内田氏の言説に対して、「違うだろう」と言いたいことが山ほどある。だから、いつまで経っても終わらない。
どこかでけりをつけなければと思いつつ、今の調子では、けりなんかつきそうもない。絶望的につきそうもない。
自分の無力感と追いかけっこをしているようなものです。
内田氏からすると、けなすより、ほめるほうがずっとエネルギーのいることなのだそうです。つまり内田氏にとってけなすことなんか、ただの小手先の言葉遊びみたいなものらしい。
そりゃあ、そうでしょうよ。けなしたって、相手をたらしこむというごほうびなんか得られない。それよりも、ほめてたらしこむことのほうが何倍もがんばりがいがある。
しかし僕にとっては、ほめることにはつい腰が引けて疲れるまでにいたらないが、けなすとなればもう、いいかげんではすまされないから、とてもエネルギーを消耗してしまう。気楽になんかできない。内田批判をはじめて、ますますそれを思い知った。もう泥沼です。
ほめて、いい子ぶってるやつなんか、くそくらえだ。
われわれは、そんな幼稚で俗っぽいレベルで人間存在を考えていない。そんな幼稚で俗っぽい論理を口当たりのいい言葉にまぶして他人をたらしこもうとするような、そんな卑しいことはしたくない。
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他人をたらしこもう(説得しよう)なんて、未来に憑依してゆく態度です。そこに、近代合理主義の決定的な誤謬がある。われわれは、「未来」など信じない。「あなた」が「私」を好きであろうと嫌いであろうと、それはもう取り返しのつかない事態なのだから、どちらであろうと受け入れるしかない。
「私」のはたらきかけによって、「あなた」が「私」を好きになるという未来なんか信じない。「私」のことを好きであろうと嫌いであろうと、「今ここ」の「あなた」を肯定してゆくしかない。
「私」は、「今ここのあなた」を祝福する。「私」を好きになるであろう「未来のあなた」ではなく。
「私」は「あなた」のいいところなど知らない。だから「あなた」のことはほめない。私が知っていることはただ、「今ここ」の目の前に「あなた」が存在しているということ、「あなた」と一緒にこの世界に存在しているということ、ただもうそのことに驚きときめいている。
そんな感動が、人間性の基礎として、誰の心の中にもはたらいているのではないだろうか。誰の心も、まずそこから動き始めるのではないだろうか。
そこから、ゆがんでゆくのだ。
内田氏は、「物理的な」状況にとらわれると解答を見失う、というが、われわれは「物理的な今ここ」だけを信じて、「解答という未来」など信じない。その「解答」を見つけて悦に入っているスケベ根性(制度性)がいけ好かないのだ。「解答」を見つけようとするのが、近代合理主義の病理なのだ。われわれは、その態度を「間違っている」とは言わない。うんざりするくらい「卑しい」と感じてしまうだけだ。
われわれは、「解答」を見失っている。見失うことのなやましさの中で、ときめいている。感動とは、「解答」を見失う体験ではないだろうか。そういうなやましさや狂おしさのことをいうのではないだろうか。
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人間の直立二足歩行は、相手の前に胸・腹・性器などの「急所=弱み」を晒す姿勢です。弱みをほめることなんかできない。それは、かえって侮辱することでしょう。しかし人間は、「弱み」を見せている人を祝福したくなる衝動を持っている。それがボランティアという行為の深層心理だろうし、そういう「存在のあやうさ」がセックスアピールになってもいる。
「ほめる」ことと「祝福する」ことは、ちょっと違う。「ほめる」ことの出来ない「弱み=存在のあやうさ」を前にしてときめいてしまうこと、それが「祝福する」という体ごとの反応です。
いや、僕は結論を急ぎすぎたようです。直立二足歩行は、世界中の誰もが共有しているもっとも根源的な人間性だろうと思うのだけれど、このことを基礎において考えようとすることはまだ一般化していない。だからためらいつつも、このことしかないじゃないかという思いにもなる。いずれにせよそれは、持ち出すからには、腰を据えて語るしかない問題なのだ。まったく、やるせない。出直します。