内田樹という迷惑・雑感

自分はなぜ同じことばかり書いてしまうのだろう。このことをある人から指摘されて、このところずっと気になっています。
内田氏は、矛盾があろうとなかろうと、口からでまかせを並べ立てて、「複数のボイスは美しい」などといって悦に入っておられる。
それに対して僕は、何を言っても「ひとつの声」に収斂されてしまう。
「原理」とか「主義主張」というようなたいそうなものを持っているわけではない。気がついたらいつも同じ「ひとつの声」でしかなかった、というだけのことです。そこを目指したわけではない。
内田氏は、みずからの「豊かな好奇心」を自慢する。それが、「複数のボイス」になるらしい。
僕には、そんな「好奇心」などない。
目に入ってきたものが、興味のあるものだ。
べつに何が見たいわけでもないが、生きていれば、そのときどきで目に入ってくるものがある。目に入ってくれば、つい興味を抱いてしまう。それだけのことだ。
べつに人と出会いたいわけでもない。僕の今の暮らしなど、一日にひとつ、ひとりになって何か勝手なレポートを書く時間があればそれだけでOKだ、という気分です。
でも、生きて暮らしていれば、どうしても誰かと出会ってしまう。
出会えば、ついなついていってしまうのが僕の悪いくせです。
まったく、情けないくらい、いつもこのパターンだ。
そしてこの調子で、情けないくらい、同じことばかり書いている。
たぶん、内田氏のような「好奇心」を持っていないから、こんな書きざまになってしまうのだろう。
それはとても情けないことなのだが、しかし人をたらしこもうとする「好奇心」などくだらない、とも思う。
僕は、「好奇心」で「他者」に気づくのではない。そこに他者が存在するという事実によって気づかされている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「意識」が他者(世界)の存在に気づいているとき、みずからの存在に対する意識は消えている。自分と他者(世界)、意識は、この両方の存在を同時に意識することはできない。これが、意識のはたらきの本質です。したがって、「自分の好奇心」によって「他者」を認識することは、原理的に不可能である。
われわれは、「好奇心」によって、他者(世界)を認識するのではない。他者(世界)の存在が「この意識」にはたらきかけてくるからだ。「この意識」は、他者(世界)の存在に気づく装置である。
「この意識」は、他者(世界)を求めてはいない。不可避的に他者(世界)の存在の気づいてしまうだけだ。
「この意識」は、他者(世界)の存在に気づくというかたちで発生する。言い換えれば、他者(世界)の存在と出会わなければ発生しない。
意識がはたらいているということは、他者(世界)と出会っている、ということだ。
「意識はつねに何かについての意識である」、と現象学者は言う。
つまり、「他者(世界)に気づいている意識」と「他者(世界)を求めている意識(=好奇心)」は、ともに「他者(世界)についての意識」であるが、まったく別の意識でもある。この二つが同時にはたらくことはないし、「他者(世界)を求めている意識」で他者(世界)に気づくことはできない、ということです。
「他者(世界)を求める」というかたちですでに「意識」になってしまったら、もはや「他者(世界)に気づく意識」になりえない。
「他者(世界)に気づく意識」は、他者(世界)の存在との出会いとともに、そのつど発生する。
「私」の「この意識」は、「私」を置き去りにして他者(世界)に気づく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏が自慢する「好奇心豊かな私」なんか、どうでもいい、ということです。
「好奇心豊かな私」は、他者に気づくことはしない。すでに気づいていることを前提にして、勝手に他者を吟味し、つねに他者をたぶらかしにかかっている。
そりゃあ誰だって、そんないやらしい「私」を多かれ少なかれ持っていますよ。誰だって人間であるのだし、この社会に生きている現代人であるわけだから。しかし、そんな「私」を、何も自慢することないじゃないですか。そうやって勝手に他者を吟味し、たぶらかしにかかっている「私」に対する反省や含羞というものはあっていいでしょう。
けっして美しい心でも誠実な心でもない。
というか、そうやって「誠実さ」なんか自慢するなよ、という話です。
他者に誠実であろうとするよりも、すなわち他者が存在することを前提にしてものを考えるよりも、そんな前提など持たず、まず他者と出会って驚きときめいてから他者について考えればいいだけかもしれない。
他者の存在を前提にしているような「好奇心」など、美しくも何ともない。くだらない。
たとえば、自分の持っているカードに当てはめて、いまどきの若者や子供や大衆はこんなものだ、と決め付ける。これが、内田氏の言説の常套手段です。それを、もっともらしく装って見せることは、じつにまあお上手ですよ。
彼は、そういうさまざまな「他者」との出会いの感慨などない。はじめから出会っていることを前提に吟味して見せているだけです。だから、もっともらしく聞こえて、多くの人がたらしこまれる。
この世の多くの人びとは、彼ほど「出会いの感慨」を捨象していきなり吟味してゆくというような芸当は出来ない。
もちろん、僕だってできない。
われわれ凡人は、ニートのこともフリーターのこともホームレスのことも、まずみずからの意識の「感慨」が発生しているところから考え始める。しかし「好奇心」が豊かな内田氏は、「感慨」などなしに、いきなり吟味してゆくことができる。だからわれわれは、つねに内田氏から一歩も二歩も遅れをとって、彼にたらしこまれねばならない。
僕は、内田氏のような言説もあっていいと思っている。しかし彼がひといちばいまっとうで清らかな人間であるということだけは、ぜったい認めない。どうしようもないゲス野郎だと思う。自分のことをまともで清らかな人間だと自慢してくるそのぶんだけ、その言説のトーンは卑しく下品だと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕がなぜこんなふうに毎回毎回同じようなことばかり言いつづけるのかというと、このページで今日はじめて出会う「あなた」をつい意識してしまうからです。
しかしこんなことばかりしていたら、これまで読んできてくれた数少ない人たちにあきれられ、しまいに飽きられるであろうというおそれはいつもあります。
だから、どうやって書いてゆけばいいのかと、つい考え込んでしまう。
いや、これまで読んできてくれた数少ない人たちだって、顔も見たことがないのだから、やっぱりはじめて出会う「あなた」のようにもどこかで思っている。
こんなことは以前に書いたから書かなくてもわかってもらえる、という前提には、どうしても立てない。
いつも行く酒場だからといって、かならず愛想よく迎えてもらえるという自信はいつまでたっても持てない。
ブログも酒場も、まあその場かぎりの出会いだと思っている。
その場かぎりではなかったというよろこびをときどき体験しつつ、それでもその場かぎりだとあきらめようとしてしまう。
とりあえず今日もまた、野暮な「フーガ」で筆を置くしかない。