内田樹という迷惑・イカフライ神話

僕は、何も知らない。
しかし、知らない人間にしか知ることのできない領域というものがある、とも思っている。
人には、気づきたくない、ということがある。知らない人間は、そこに気づいてしまう。
内田氏の気づきたくないことを提出できれば、と思っている。
内田氏が「殺すか、殺されるか」の勝負をしてくれるというのなら、のぞむところです。たとえ殺されても、全力で内田氏の言説の品性下劣なところをえぐり出してみせる。
正しいかどうかなど、どうでもいいのです。あの人の言うことは、下品で下劣なのです。
で、「イカフライ」氏も、内田氏のそういう部分をついてしまったのではないだろうか。
僕には「イカフライ」氏のような勇気も言葉のフットワークのよさも文学的な素養もないが、まったく別の人種とも思えないし、それらの資質に恵まれていないぶん、僕のほうが腰を据えて批判しているという自信はある。イカフライ氏が認めてくれるかどうかは知る由もないが。
そこで、「イカフライ」氏のことをあらためて考えてみることにしました。
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内田氏がみずからのブログのコメント欄を閉鎖したのは、とにもかくにもそこに投稿しつづけていた「イカフライ」氏のせいらしい。
イカフライ」氏は、内田氏のけなし方が上手だったから皆が注目したのではない。
思想的に、内田氏よりもまっとうでレベルの高いことを言っていたからだ。
よく考えたら内田氏なんて、なんとまあちんけなことを言っているのだろう、ということをわからせてくれたからだ。
なんといっても相手は世間的な注目度の高い学者先生なのだから、素人は、つい引け目を感じてしまう。そういう先生から、こうなんだぞ、と言われたら、まあそんなものなのかな、とどこかで思ってしまう。しかし「イカフライ」氏は、こんなやつなんかただのあほじゃないか、とおそれることなく言ってみせた。
そして、やっぱりそうだよな、とうなずく人がたくさんいた。
内田シンパは激怒したけど、幼稚な悪態をつくだけで、誰も本格的にイカフライ氏に反論してゆくことはできなかった。
それでも内田氏自身が書く毎日の本文でイカフライ氏を凌駕し、その反論がトーンダウンしていけばこの騒ぎも終息していったのだろうが、イカフライ氏の反論は逆にさらにエスカレートしてゆくばかりだった。
そうして内田シンパのイカフライ氏に対する悪態も、ますます見苦しくなっていった。
いや、内田シンパの悪態なんかどうでもいいが、多少なりともイカフライ氏を口ごもらせることのできなかった内田氏こそ、ぶざまだと思う。
イカフライ氏だってばかじゃないのだから、内田氏にちゃんと人間としての「格」の違いを見せつけられたら、黙っていったはずです。
べつに、ストーカーとなって脅迫していたわけではない。
だいたい有名人のブログが「炎上」するのは、私生活までおびやかされそうな卑劣な脅迫が舞い込むからでしょう。
イカフライ氏に、そんな脅迫するそぶりなどいっさいなかった。
内田氏は、安全だったのです。それでもコメント欄を閉鎖せざるを得なかったのは、内田シンパのイカフライ氏に対する悪態があまりにも目に余るものだったからだろうか。
そうしたマス・ヒステリーによって、このままではイカフライ氏が直接物理的な被害をこうむる可能性がある、と判断したのだろうか。
しかし、そんなマス・ヒステリーを起こすような読者をたくさん抱えているという事実は、内田氏にとっても恥ずかしいことでしょう。彼は、私はこの世の「5人にひとり」のリーダー的献身的な人間に向かって語っている、というが、実際の読者のほとんどは、そうしたマス・ヒステリーを起こしがちな「5人に4人」のほうの人びとであり、そういう人びとに自己正当化の根拠を与えてやっているところに内田氏の言説の真骨頂がある。
いずれにせよ、内田氏が、イカフライ氏との「格」の違いを見せつければ、自然に騒ぎは終息していったはずです。
内田氏自身、庶民に向かって、俺はおまえらより人間としての「格」が上なんだぞ、とふだんから自慢しつづけているわけで、その根拠を見せつければよかっただけのことだ。それほど自慢するのなら、そのブログを開いてくる任意の第三者にそれを示すことくらい、わけなかったはずです。
内田シンパも、アンチ内田派も、関係ない。第三者的な立場の読者にそういうところを示すことができれば、イカフライ氏だって立ち往生してしまったはずです。なのに、イカフライ氏のほうがまともなことを言っているのかもしれない、と思い始める読者が増える一方になってしまった。この騒ぎを演出したのは、第三者的な立場の読者だったのだ。
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内田氏本人がどんなに知性と清らかさの人間としての「格」を自慢してみせても、イカフライ氏はひるまなかった。
そりゃ、そうでしょう。そんなものは、本人が自慢することじゃなく、まわりから与えられるものだ。自慢すればするほど、みすぼらしくなってしまう。
ほんらいなら、イカフライ氏のような相手こそ、「自分は内田氏よりも人間としての格において負けている」と思わせることができてしかるべきなのだ。
しかしイカフライ氏は、そんな負け惜しみを隠しながら虚勢を張って反論しているわけではなかった。そのへんのところは、第三者ならたいていの人がわかっていた。
内田氏は、いつも自慢していたい人だ。自慢して、コメント欄を自分への賞賛で花ざかりにしておきたかったのだろう。そういう書きざまばかりしていたし、今もしている。
まず自分の意見を発信し、読者からの反応が寄せられ、それに返答してゆく。そうやって読者と一緒に考えてゆく、という地道な姿勢を貫いている学者のブログは、いくらでもある。
しかし内田氏の場合は、自分のいうことを聞かせたいだけで、欲しい読者の反応は、自分への賞賛だけだったらしい。読者のコメントが自分の思索を深めるきっかけになる、という認識や希望など皆無だった。どうせ何も知らないうぞうむぞうなのだから、俺を称賛していればいいだけさ、という態度だった。
だから、コメントに対する返答はしなかった。
こんな態度で、「他者にたいする敬意」だの「礼儀正しさ」だのと、よく言っていられるものだ。
「他者にたいする敬意」というものについて厳密に考えるなら、それらは、社会で生きてゆくための手続きでも賞賛を得るためのものでもない。「他者に反応する」という、それだけのことだ。
イカフライ氏は、自分を捨てて内田氏に体ごと反応していった。それは、内田氏に対する敬意であり礼儀正しさであったはずだ。
それに対して内田氏の書きざまには、「他者に反応する」という態度がない。自分見せびらかすというパフォーマンスばかりだ。
読んだことがない人は、読んでみればいい。そんなことばかりが書かれてある。
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けっきょく、実存の問題なのだと思う。
内田氏は、「他者に対する敬意」こそが生物学的な「生き延びる力」だというが、そんなものは、人間社会で生き延びるための力であり手続きにすぎない。
「生き延びる」などということは、社会的制度的な問題なのですよ。生物学的な問題などであるものか。
生き物に、生き延びようとする意志などない。彼らに、「未来」に対する意識などない。「今ここ」に反応しつづけているだけだ。
人間以外の生き物はみな、生き延びるのが下手くそだ。
だから「絶滅危惧種」が増えてゆく。
チンパンジーだって、生き延びたければ、自分たちの習性のままに勝手なことばかりしていないでみんなで助け合えばいいのだ。そうすれば、今ほど個体数が減るということもなかっただろう。彼らは、生き延びることが下手くそだ。
夏のはじめに生まれて夏の終わりに死んでゆく蝉たちに、どれほどの「生き延びる力」があるというのか。彼らが「生物学的」に所有している能力は、「生き延びる力」ではなく、自殺なんかしなくても「死んでゆくことを受け容れることのできる能力」なのだ。
僕は、生き物たちの死んでゆくことのできる能力に感動する。
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内田氏は「生物学的な生き延びる力とは、危機的な状況に陥ったときに他者の支援を取り付けることができる能力のことだ」というが、じゃあ、孤島のロビンソン・クルーソーは誰の「支援」を取りつけて生き延びたのか。
「支援を取り付ける」といえば聞こえはいいが、そんなもの、他人を利用する小ざかしさの別名じゃないか。
内田さん、あなたのような鈍くさい運動オンチは、崖から落っこちそうになったとき、とっさに崖の草や木の枝につかまるということはできないだろう。そういうことのできない社会的制度的な人間がこずるく立ちまわって生き延びてゆくのがこの世の中だ。べつにそれが悪いというつもりもさらさらないが、それこそが生物学的な本性なのだと自慢することもないだろう。
それは、「身体感覚」ではなく、身体を逸脱した「空間感覚」によって実現される。身体すなわち身体が生き延びることから逸脱した意識が、崖の木の枝や草をつかむのだ。
生き物の生きてあるかたちは、生き延びること(身体意識)から逸脱した意識の上に成り立っている。それは、「今ここ」の実存感覚なのだ。べつに生き延びたいわけではないが、不安定な「今ここ」の身体状況から逸脱して、安定した「今ここ」の身体と世界との関係に立ち返ろうとする実存感覚なのだ。
生き物は、生き延びることが下手くそだ。つねに「今ここ」に対する反応だけで生きている。「今ここ」から逸脱して「今ここ」に立ちつづけようとする。
「今ここに立ちつづける」ことと「生き延びる」こととは、ちょっと違う。それは、けっして「生き延びる力」にはならない。
社会的制度的動物としての人間ばかりが、生き延びてゆく。
それだけのことさ。
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この社会で生きることが下手な人間は、生物学的にも劣等な者たちなのか。
どんなに生物学的にまっとうで美しくても、この社会で他者の支援を取り付けることのできない人間というのはいるでしょう。
男運が悪くていつまでたっても結婚できない彼女に、ふと生き物のような純粋な目の輝きを見つけることってあるじゃないですか。「かけひき」をしない目の輝き、そういうものをあなたは感じたことがないですか。
男をたらしこむのが上手な思わせぶりな視線を持っていなければならない、というわけでもないでしょう。
じっと見つめる視線よりも、見つめることにとまどっている視線にチャーミングな気配を感じてしまうときってないですか。
「君は人を信じすぎるのだ」と言ってやりたくなるような、そんなかけひきしない目の輝きを持っている女って、いるじゃないですか。
僕は、平気で男を見つめたおすことのできる女というのは、あんまり好きじゃない。
内田氏によれば、そういう「かけひきする目」のしたたかさこそ、「生物学的な生き延びる力」なんだってさ。
内田氏の言説など、ほとんどがそんなようなものだ。ただ社会的制度的に生きているだけのくせに、生物学的な真実までも自分たちのもとにあると言いたがるそのふてぶてしさと無知が、僕はめちゃめちゃむかつく。
話が脱線してしまったが、イカフライ氏と内田氏の違いというのは、ようするにそんなような男運の悪い女と男をたらしこむのが上手な女との違いみたいなものだろうと思えます。
どちらが正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでもいい。みずからを生き物として生きてあることの「自然」を問おうとするなら、どうしたってイカフライ氏のほうに注目してしまう。