内田樹という迷惑・親族の構造

もしも僕と内田氏が「殺すか殺されるか」の論戦をしたら、99パーセントの人が、殺されるのは僕のほうだと思っていることでしょう。しかし、じつは殺されるのは内田氏のほうかもしれない、という気持ちが僕にないわけではない。今のところひとりだけだが、「内田氏を殺しにかかるようなことはしないでくれ」と訴えてくる内田ファンの友人だっている。
やってみなければわからないのだ。それが、勝負というものでしょう。
僕が殺されたら、人間の真実が滅びる。そういう気持ちが、ないわけではない。
生きることなんかどうでもいいことだ、という人間の真実が、です。
われわれは、どうでもいいこの生を、どうでもいいではすまないことにして生きている。そういう「嘆き」を共有して生きていけたら、と思う。生きてあることを価値あることのように言いたがる俗物根性なんて、うんざりだ。それは、人間の真実をゆがめている。
価値なんかないのに、どうでもいいのに、われわれはこの生を大切に扱ってしまう。どうでもいいというそのことが、たぶん大切なのだ。そこにたぶん、人間の真実というか、人間性の基礎がある。そういうことを僕は、内田樹とかいう俗物がのさばりかえるこの状況から死守したいのだ。
「僕が真実を口にしたら世界は凍りつく」と若き日の吉本隆明は言った。その気持は、わからなくもない。吉本氏が実際に真実を語ってくれたかどうかはともかくとして。
まあ、社会的に公認された文筆家ならあたりまえのように書きつづけてゆくことができるのかもしれないが、僕のような素人は、自分にプレッシャーをかけてゆかないと書きつづけられない。書きたいことはいくらでもあるが、いつも挫折しそうになりながら書いている。
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内田氏は、「親族」のことを繰り返し語っています。新しい本が出るたびに、かならず「親族」を語る項目がいくつかエントリーされている。「親族」を語ることができるのが「構造主義者」のたしなみであり、「親族」を再確認してゆくことこそすぐれて普遍的現代的な問題なのだ、と考えておられるのかもしれない。
彼は、親族意識のとても強い人らしい。「結婚とは親族をつくるための制度である」、とも言っている。
しかし、こういう卑しいものの言い方が、僕は気に食わないのです。結婚して親族がつくられるのは、結婚したことの「結果」であって、結婚の目的ではない。そんなこと、あたりまえでしょうが。
ブルジョア階級や支配階級の政略結婚に、人類学的な普遍性があるのですか。くだらない。
レヴィ=ストロースが言うような、二人の男がたがいの姉妹や娘を交換し合う、ということを原始人や現代の未開の人種がやっているとしても、そこにはたらいている根源的な欲望は、「女が欲しい」ということでしょう。そしてそうやってたがいに女を得たことによって、「親族」という関係が発生する。まずそういう幾世代かの人類の歴史があって、やがて親族を形成するための「政略結婚」が生まれてきた。それだけのことだ。
したがって「親族をつくるための結婚」こそ、もっとも非本質的かつ非人類学的な結婚である、といえるはずです。
親族をつくるために結婚するなんて、内田さん、あなたは考えることが卑しいのですよ。その女が欲しいから結婚するだけのことだ。そして結婚したからには、親族という義理の関係は引き受けるしかない。それが、人間の社会でしょう。また、引き受けなくて不都合なことが起きるとしても、その不都合に耐える覚悟があるなら、引き受けなくてもいいのだ。べつに、人間は、親族をつくるために結婚するのではない。そういう社会の掟(規範)を引き受けるか引き受けないかの問題にすぎない。
引き受けるも引き受けないのも、その人の勝手じゃないか。なにをくだらないこと言ってやがる。そういう掟(規範)を破ったり拒否したりすることによっていろんなドラマが生まれてきたのが、人間の歴史だろう。古代の壬申の乱も、源平合戦も、関が原も、近松心中も、みなそういう親族関係を逸脱してゆくドラマだったったじゃないか。それは、そういう掟(規範)が人類学的な本質でもなんでないことを意味する。
親族を形成することは、結婚(婚姻)することの「結果」であって「目的」ではない。それが、人類学的真実なのだ。内田さん、わかりますか。
原始人だろうと未開人だろうと現代人だろうと、根源的には、その女が欲しいから結婚するのだ。そんなこと、あたりまえじゃないですか。
原始人だろうと現代人だろうと、「この女とやりてえ」と思うから結婚するのだ。インポ野郎ばかりが、「親族をつくるために」結婚する。
親族をつくるために、結婚という制度が生まれてきたのではない。結婚という制度が生まれた「結果」として、親族という関係集団が形成されてきたのだ。
原初の人類に、「親族」を形成しようとする欲望や目的があったのではない。
人間の本性に、親族を形成しようとする意志などというものはない。親族は「結果」として存在し、存続しているだけのことだ。
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レヴィ=ストロースは「親族が存在することの唯一の理由は親族が存続することである」といった。
内田氏はそれを「親族の存在理由は親族を存続させることである」と読み替えた。
レヴィ=ストロースは、「親族を存続させる」とはいっていない。「親族が存続する」といっただけだ。
つまり内田氏は、親族を存続させようとする意志が人間性の基礎である、といっているのです。その「意志」によって、「婚姻」という制度がつくられてきたのが、人類学的真実であり、原初の人類の歴史なんだってさ。
この女とやりてえ、という気持よりも、親族を存続させようとする意志のほうが根源的なんだってさ。
原初の人類は、「親族」というイメージを抱いたことによって、「婚姻」という制度をつくり出したのだそうです。
「親族」など存在しない段階で、「親族」というイメージを持ったのだそうです。くだらない。
婚姻という制度を持ったことによって、「親族」という関係を発見したのでしょう。そんなこと、あたりまえじゃないですか、親族が存在しない段階で、どうして親族をイメージできようか。
ゆえに、親族には、「親族を存続させる」という意志は原理的に存在しない。親族を存続させようとして親族が生まれてきたのではない。
そんな「意志」などとは関係なく、「親族が存続する」のだ。
内田氏は、レヴィ=ストロースの読み方が甘っちょろい。
構造主義者は、「構造が存在する」と言っているのであって、人間の意志が構造をつくるとはいっていないのですよ。人間の意志に先立って「構造が存在する」といっているのだ。
人間の意志が構造をつくるのなら、「構造主義」とはいわない。ただの「人間主義」だ。
ロラン・バルトは「作者は死んだ」といい、フーコーはさらに「人間は死んだ」といった。この二人の構造主義者のいった意味を、内田さん、あなたも少しは考えてみなさいよ。
親族という構造に、親族を存続させようとする意志など存在しない。「構造」というただの概念を、そんな擬人化して考えちゃいけない。構造に、存続しようとする意志などあるはずがないじゃないですか。
「親族(という構造)が存続する」のだ。ちゃんと読みなさいよ。
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5万年前、アフリカの「ホモ・サピエンス」という原始人は、移動生活をしながら一夫多妻制の家族をいとなんでいた。おそらく彼らは、女を交換していた。今でも、多くのアフリカ人がそうしている。アフリカ社会の停滞の歴史は、多分にそのことも影響しているのだろう。
いっぽう同じころのヨーロッパの「ネアンデルタール」は、家族のない乱婚社会をつくっていた。彼らには、家族という意識も親族という意識もなかった。
ヨーロッパに「家族」が生まれたのは、氷河期明けの1万年前以降のことです。
まず、女子供が一緒に暮らす「家」をつくった。それまでは共同生活をしていたから、「住居」はあっても、家族という単位が暮らす「家」はなかった。
つまりアフリカでは5万年前からすでに「父権社会」だったが、ヨーロッパの家族制度は、一万年前にまず女子供だけの「母系家族」としてはじまっているのです。
したがって、「女を交換する」という習俗はなかった。
ヨーロッパの女は、ネアンデルタールいらい、とてもわがままでヒステリックです。ヨーロッパでは、原初にさかのぼればのぼるほど、「女を交換する」などとんでもない社会だったのだ。
ヨーロッパの原始人は、女が男を選んでいた。「レディファースト」の習慣は、おそらく、そうやって女のわがままやヒステリーに手を焼いてきた歴史のなごりなのだ。
8万年前から1万年前までの氷河期における北ヨーロッパネアンデルタールの女たちは、自分の産んだ子供がつぎつぎに死んでゆくという状況を生きていた。それでも産みつづけなければ、群れは滅んでしまう。ひたすら産んで、つぎつぎに死なれていった。だったらもうわがままでヒステリーになるしかないし、男たちもそれを許すしかなかった。
そうして氷河期が明けて、子供がそう簡単に死ななくなり、今まで群れ単位のチームワークで育てていたのが女だけで育てられるようになった。そこではじめて、そのための「家」がつくられ、「家族」という単位が発生してきたのです。
そしてその後、女が、そうした家族のいとなみに男を引き入れるようになっていった。これが、5、6千年前ころの本格的な農耕牧畜の社会になった時期であり、そこではじめて「一夫一婦制」の家族が誕生した。
農耕牧畜社会が本格化し、戦争も起きるようになってきて、ようやくヨーロッパにも「父権社会」が生まれてきた。
ヨーロッパの父権社会は、あんがい歴史が浅いのです。(日本は、もっと浅い)。
だから、「原始社会では女を交換する」と、そうかんたんに言ってもらっては困るのです。
ヨーロッパで「女を交換する」歴史がつくられてきたのはたかだか五千年くらいのものであり、そういう一夫一婦制の家族になって、はじめて「親族」という概念も生まれてきたのだ。
親族なんて人間性の本質でもなんでもないし、親族を存続させようとする意志を人間が根源において持っていることもさらにない。
人間は、親族をつくろうとしたのではなく、親族という関係に気づかされたのだ。
それは、あとから「家族」に参加していった男たちが、母系家族の鬱陶しさから逃れて男どうしのネットワークをつくっていった「結果」として生まれてきたのだ。
そのネットワークによって男たちは「国家」という共同体をつくり、「戦争」に熱中していった。
そこのところを、内田氏は、なんにもわかっていない。
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内田氏は、親族と付き合うのがとても好きな人らしい。
親族とは、性衝動なしに親密になれる関係のことです。つまり、そういう「絆」によって結ばれてあるために、自分が「個体」として孤立した存在であるという自覚(=存在の不安)を持たないでもすむ関係のことです。
親族の外部の人間との関係は、相手が同性であれ異性であれ、いくぶんかの「好きか嫌いか」の性衝動が起きている。
内田氏にとっては、性衝動としての「ときめき」よりも、親密さの「まどろみ」のほうが大切であるらしい。というか、そういう関係の中でしか生きられない人なのでしょう。そういうことが、ふだんの言説にとてもよく出ている。
「ひとりでは生きられないのも芸の内」という著書での「この世でもっとも純度の高い愛の言葉は<あなたなしでは生きられない>という告白である」という言い方など、まさにこのパターンです。
「胎内回帰願望」と言ってしまうとなんだかありきたりだが、内田氏の言説は、ようするに性衝動をともなわない「親密さのまどろみ」ばかりを止揚している。
ザコン、なのかな。それを隠すために、父との関係ばかり言っている。ゲスに勘ぐればの話ですけどね。
「親密さのまどろみ」が欲しい人は、親族をつくるために結婚する。結婚相手からすれば、じゃあ私はなんなのか、という話です。
内田氏の言説には、他者にときめくという孤立性(=存在の不安)がない。
彼のブログの記事なんか、「親密さのまどろみ」を得ているという自慢話ばかりで、他者にときめいたというスリリングな表現など、どこにもない。
この世の中には、「親密さのまどろみ」が欲しい人がたくさんいるのでしょうね。