内田樹という迷惑・ソフトボール

今回のオリンピックでの団体競技は軒並み不振で、女子のソフトボールだけが目立った。
僕にとってソフトボールを見る楽しみのほとんどは、ピッチャーです。
あの投げ方はそうとうな高等技術だろうと思うし、とくに女子が投げている姿のほうが見ごたえがある。
そりゃあソフトボールでも、男の投げ方のほうが迫力がある。しかし女が上手に投げている姿は、ちょっと感動的です。
野球のピッチャーの投げ方は、素人でも真似するくらいはできるが、ソフトボールのあの投げ方は、部外者がいきなりやろうと思ってもできるものじゃない。
まあそれだけでも感動的なのだが、上野投手のレベルになると、やっぱりこれは至芸だな、と思ってしまう。
もともと女は、下半身の使い方が下手です。それは、性器という「難所」を抱えているせいかどうかはわからないが、とにかく下半身がもろくてぎこちない。
だから、例外的に下半身の使い方のうまい選手は、たちまち頭角をあらわしてくる。
柔道の「やわらちゃん」は、そのいい例だと思う。今やお母さんになって、目を見張るほどではなくなってしまったけれど。
今回の彼女は、不利な組み手になることをさかんに嫌がっていた。それは、どんな体勢からでも投げに入っていける下半身の素軽さがなくなってしまったからでしょう。上半身の力は、そうかんたんに衰えるものではない。むしろ、若いころより強くなっているはずなのに。
引退間近のボクシング選手は、下半身(=フットワーク)の勤勉さがなくなって、上体の動きだけで相手のパンチをよけようとするようになる。具志堅用高辰吉丈一郎もそうだったし、むかし僕が大好きだった沼田義明もそうだった。それで、むざむざと格下の選手に負けてチャンピオンベルトを失ってしまった。
なぜフットワークの勤勉さがなくなるのか。それは、身体を「肉体」として意識し始めるからだ。身体の肉体性から逸脱してゆくのがスポーツであり、そこにおいて身体の動きが成り立っている。
まあ、こういうことは、鈍くさい運動オンチである内田氏の「身体論」には書かれていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで、野球の投げ方とソフトボールの投げ方がどう違うのかというと、やはり下半身の使い方にあるのだと思う。
野球の場合、まず下半身から始動し、そこから順に上半身そして腕へと力が伝わってゆく。これは、理にかなっている。
しかしソフトボールは、いきなり腕から動き始め、その風車のように腕を回す勢いといっしょに、下半身が前に飛び出してゆく。
とても不自然な投げ方だ。しかしその不自然さが、女に合っているのかもしれない。
あまり下半身に頼らなくてもすむ。
とくに、日本人選手以上に下半身の使い方の下手な外国選手には、好都合だ。彼女らは、上体の力と腕の長さを武器に、鈍くさいフォームでもすごい球を投げてくる。
で、とくべつ大きな体でもない上野投手は、そのハンディを何でカバーしたかというと、やっぱり下半身の使い方のうまさにあったと思う。それによって、腕の振りに最後の勢いを与えているように見えた。
また、彼女のフォームは、投げると同時に体がバッターに向かってビュッと飛び出してゆく勢いがとても鮮やかだった。バッターは、それが気になって、ボールの出どころに意識が集中できない。外国選手の体の大きさはもちろん威圧的だが、彼女の、銃口から弾丸が飛び出すような投球フォームも、べつの意味で威圧感があり、バッターの目を幻惑していたのではないだろうか。
そして連投で疲れていたのだから、いつ球威が落ちるかという心配を抱えながら彼女は投げていたはずで、躍動的な投球フォームだからこそ、見ているほうはよけいにはらはらさせられる。
彼女のフォームを見ながら僕は、むかし中日ドラゴンズにいた鈴木孝政という速球投手のことを思い出していた。彼の若いころの投球フォームは、まさにバッターに向かって体をぶつけてゆくような躍動感があった。世の中にはすごい身体能力を持った人間がいるものだ、と思った。厳密にいえば、それは、身体のまわりの「空間」に対する感じ方から生まれてくる身体の動きであり、身体そのものを「肉体」ではなくただの「空間=輪郭」として扱っている動きなのだ。そうしてバッターばかりが、その「肉体」の動きのダイナミズムに幻惑され威圧されている。あんなにも凶暴で美しい投球フォームは、彼のほかに見たことがない。
彼が肩を壊したと聞いたとき、「イカロスの失墜」という言葉が浮かんだ。
野投手の投球フォームにも、それに近いものを感じた。飛翔するイカロスのような若々しさと悲劇性をはらんでいた、といえばいいすぎだろうか。