内田樹という迷惑・親族の構造2

親族という関係集団は男どうしが「女を交換する」というところからはじまっている、とレヴィ=ストロースは言っている。
そしてこの言い方にフェミニストが反発し、内田氏は、おまえらあほか、その通りじゃないか、といけしゃあしゃあと言っています。
こんなふうに。
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どうして男が「交換の主体」であり、女が「交換の対象」であるかというと、答えは簡単。男それ自体には交換物としての価値がないからである。男は再生産しない。再生産のためには女100人当たり、男1人いれば十分である。99パーセントの男には生物学的な価値がない。無価値なものをもらっても、反対給付の義務は動機づけられない。それでは、親族は形成されない。
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ここでも、親族を形成しようとするのが人間の本性である、と言いたがっている。何度も言うように、親族の形成は、女が交換されたことの「結果」であって、「目的」ではない。
しかしまあ、どうしてこんなステレオタイプな俗論を、ラディカルぶってぬけぬけと持ち出してくることができるのだろうか。たしか同類の村上龍氏もそんなようなことを言っていたっけ。あんたたち、それじゃあ中学レベルの教養だぞ。
まず、交換の起源は、「価値」を交換したのではないということ。原始人の交換が「価値」の交換として始まったと決め付けていられるのは、内田さん、近代合理主義の垢が骨の髄まで染み込んだあんたの俗物根性なんだよ。
原始人は、「無価値なもの」を交換したのだ。それが、交換の起源なのだ。サッカー選手が試合後にユニフォームを交換するように、交換することそれ自体に耽溺していったのだ。サッカー選手だけではない、人間のそうした衝動は、利潤をひとまず度外視した「外部経済」として、現代人の意識の底にも息づいている。また、子供たちが意味もなく「お手玉」したり「あや取り」したりすることだって、ひとつのプリミティブな「交換」の行為なのだ。
「価値の交換」なんて、あくまで現代的な行為にすぎない。
すくなくとも「人類学的」なレベルにおいては、「価値の交換」などない。原始人は、「交換」することそれ自体に耽溺していったのだ。
「男には価値がない」だって?何をくだらないこと言ってやがる。「人類学的」なレベルや「生物学的」なレベルにおいては、「価値」なんかどうでもいいのだ。
「再生産のためには女100人あたり、男1人いれば十分である」だってさ。かっこつけちゃって、まあ。
ゴリラやオットセイなど、「男1人」がハーレムをつくっている種は、爆発的に個体数が殖えることはない。つまり、「再生産」のダイナミズムがない。そうして彼らは、「絶滅危惧種」になってゆく。それが「自然」というものだ。
「再生産」の能力が豊かな種は、オスもメスも、だれかれかまわずやりまくる。あるいは、最低限、一夫一婦制になっている。
男1人が100人の女を抱えても、すべての女につねに子供を産ませてゆくということなどできるはずがない。100人の女を抱えているからこそ、選り好みをしたくなる。そうして半分の女たちは置き去りにされてしまう。たとえ一時期かわいがられても、すぐにお払い箱になってしまう。それが、生物学的真実というものだ。
100人の女を抱えた精力絶倫の男1人が50人の子孫を残すのと、100人の男と100人の女が100人の子孫を残すのと、どちらが効率的かは考えるまでもないだろう。どんなに精力絶倫でも一晩に数回射精するのが関の山だが、100人の男と100人の女なら、一度に100人の女が受胎することができる。それに人間以外の動物の場合は発情期というかたちで時間が限られているから、1人の男が100人の女を相手にしていたら間に合わなくなってしまう。
「再生産のためには女100人当たり、男1人いれば十分である」だなんて、そんなていどの低い絵空事の談義は中学校の教室でやってくれ。いや、校庭の隅か体育館の裏ででもやってくれ。
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一夫多妻制のアフリカでは、かつては、女100人を専有している部族の首長もめずらしくなかったらしい。だからアフリカでは爆発的に人口が増えることなく、20世紀になってもほとんどの地域で「国家」をつくることができなかった。家族単位で移動生活をしていた彼等の社会は、ゴリラやオットセイと同じように、人口が増えない「構造」になっていた。
「再生産のためには女100人当たり、男1人いれば十分である」だなんて、「構造主義者」の言うせりふじゃないだろう。
女をばかにするのもいいかげんにしていただきたい。女100人あたり男1人しかないのなら、1人の女がセックスしているあいだ、99人の女は待ちぼうけを食らわされているのですよ。こんなに女をばかにした話も、こんな非効率的な「再生産」の仕方もないじゃないですか。
氷河期に極北の地で暮らしていたネアンデルタールの女たちは、誰もが生涯に10人前後の子供を産んだという。それでも、その厳しい環境のもとでは、成人できるのはその中の1人か2人だったらしい。
ネアンデルタールの遺跡から出土する骨の半分以上は子供のものです。子供の骨は土に溶けてなくなってしまいやすいのに、それでもそんなにもたくさん出てくる。
彼女らは、複数の男とやりまくっていた。女を大事にしないと、すぐほかの男に取られてしまう社会だった。だから、たくさんの子を産むことができたのだ。また、乳幼児期の死亡率は女の子のほうが高いから、女の人口が少ない社会でもあった。
アフリカと違ってネアンデルタール圏のヨーロッパから西アジアの地域ではそういう社会の構造になっていたから、氷河期が明けて乳幼児の死亡率が激減したとたん、爆発的に人口が増えたのだ。
子供の「再生産」のためには、女の数と同じかそれ以上の数の男が必要になる。これが、「生物学的」な真実なのだ。
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現在の未開の人種に「女を交換する」という習俗があるとしても、それは、女に「価値」があると認識しているからではない。「交換」することそれ自体をしたいからだ。「交換」すれば、仲良くなれる。あるいは、仲がいいことの証しとして交換する。
価値なんか意識していたら、交換は成り立たない。価値のあるものなんか上げたくない。価値は、交換することそれ自体にある。どんな財宝よりも人間を交換したほうが、交換したという充足がある。人間なら、恒常的に交換したという事実を確認しつづけていられる。
そうして女が、「交換物」になることに応じるのは、そういうかたちで自分を処罰したい衝動を持っているからだろう。女は、そのような「悲劇」を好むところがある。
まわりにいくらでも自分を欲しがっている男がいるのを知っていながら、あっさりと親が決めた相手と見合いをして結婚してしまう。この国にだって、そういう女は、つい最近までいくらでもいた。それは、親が決めた相手なら将来の不安がないだろうと計算するからではなく、そういう「悲劇」として結婚するほうが気持が落ち着くからだ。
女の人生には「悲劇」が必要なのだ。子を産むことだって、「悲劇」だからこそ、彼女らはその役割を引き受ける。腹ぼての体になってしまったら、女としては何の値打ちもない。そのとき彼女は、世界中から置き去りにされているような「悲劇」を生きている。その悲劇性に安らいだり居直ったり混乱したりしながら生きている。そういう女としての実存感覚においては、未開の人種だろうと現代の文明人だろうと変わりはない。
女のそういう傾向につけ込んで、「政略結婚」が生まれてきた。
女は交換物としての「価値」があるだなんて、内田さん、あなたはどこまで人をコケにすれば気がすむのだ。「価値がある」と言っていることじたいが、女をコケにしているんだよ。
そんな安っぽいへりくつでラディカルぶったって、お里が知れてるさ。虚を衝いたつもりだろうが、あなた自身が隙だらけで、その薄汚い俗物根性を晒しているだけじゃないか。
「再生産のためには女100人当たり、男1人いれば十分である」と内田氏や村上氏が言うとき、女は優秀な遺伝子を持ったオスを求めている、と決め付けている。なぜなら、インテリほど、自分は優秀な遺伝子の持ち主であるとうぬぼれているからだ。
まるで、ブ男や頭の悪い男は再生産に関与しちゃいけない、といわんばかりじゃないか。
やつらのそういううぬぼれが、この世の生物学を空疎でゆがんだものにしている。
生物学的な男の存在理由は、優秀な遺伝子を持っていることにあるのではなく、ちんちんが勃起することにある。生き物に、そんな薄汚い損得勘定などあるはずがないじゃないか。魚やカブトムシは、遺伝のことなど何も知らないのだぞ。再生産に必要なのは、優秀な遺伝子ではなく、勢いよく勃起したちんちんなのだ。そんなこと、あたりまえだろうが。女に聞いてみればいい。