感想・2018年8月3日

<情交>
LGBTという言葉を、このごろよく聞く。
「性的マイノリティ」という意味らしい。
ホモとかレズビアンとか性同一性障害とか。まあ母子家庭だって、広い意味で性的マイノリティといえるのかもしれない。
LGBTを差別するな、LGBTにも生きる権利はある……と叫ばれている。
それは、1990年代ころから世界的にいわれるようになってきたのだが、この国ではこのごろようやく政治がその問題を取り上げるようになってきている。
バブル崩壊後の「失われた20年」を経て、「家族の崩壊」とか「少子化」とか「非婚化」とか、そういうさまざまな問題が間に合わせの経済政策だけでは解決できないことが露呈してきて、基本的な人と人の関係から問い直そうとする段階にさしかかっているのかもしれない。
もちろん権力者たちは一夫一婦制を中心とする男女の婚姻形態の価値を称揚し確立したいと計画しているわけだが、世の中はその形態に対する幻滅がますます広がってきており、その懐柔策として、ひとまずすべての形態を認めるという方針になってきた。

近ごろ杉田水脈という自民党の議員が「新潮45」でLGBT差別の暴言を吐きたちまち炎上するということが起きたが、まああれは自民党の本音なのだろう。
右翼とはいったいなんなのだろう。
世の中は右傾化しているといわれ、自民党日本会議はわが世の春を謳歌しているらしいが、その揺り戻しは来ないとも限らない。「彼らはいい気になりすぎている」とは誰しも思うし、今や「既得権益を守ろうとなりふり構わず大騒ぎしている」ともいえる。その品性の下劣さに、人々が気づかないはずがない。
右翼とは、品性下劣な人間のことか。
僕もまあ神道天皇のことをわりと肯定的に書いてきたから右翼の範疇かもしれないが、ネトウヨなんかほんとに最悪だと思うし、自分こそまっとうな右翼保守だといっているインテリ連中だって、「なんにもわかっていないんだなあ」と思わせられることも少なくない。
日本人が日本人であることはわれわれの宿命であって、べつに美しさや優秀さを意味しているのではなく、そのことが自分が存在することのよりどころになるわけではない。
まあ、「よりどころ」など持たないのが日本列島の伝統なのに、彼らは自分が日本人であることに必死にしがみついている。
日本人であることのアドバンテージなどない、と思っているのが日本人であるはずなのに、彼らは平気で根拠のない「差別(レイシズム)」振りかざしてくる。
この国の総理大臣なんか、何が美しいかということもよく知りもしないくせに『美しい日本』などといっている。骨の髄まで美しくない思考や態度に凝り固まっているくせに、それでも彼らはぬけぬけと『美しい日本』という。
まあ今どきの日本人全体がそんなふうかもしれないが、それでも日本列島の伝統は今なお脈々と流れている。
つまり、日本列島の伝統は、右翼以外のところで受け継がれている。
今どきの右翼とは、日本列島の伝統を身体化していないものたちのことにほかならない。
今どきの右傾化傾向は、日本列島の伝統によって退潮させられてゆくのだろう。

まあ、家族とか家父長制度に執着するということ自体が、日本的ではない。
吉行淳之介は、「日本の娼婦とのセックスには『情交』という味わいがあるが、西洋にはただの『性交』があるだけだった」といっている。それはつまり、西洋の男と女の関係はあくまで男と女(=オスとメス)で、日本列島には男と女の関係を超えた人と人としての関係がある、といっているのだ。日本の女は、人としての「情」でセックスしている。「女三界に家なし」、日本の女の心は家族からはぐれてしまっている。そうしてひとりの人間になって男にセックスをやらせてあげている。
家族からはぐれてゆく心こそ日本列島の女の伝統であり、そうしてたったひとりの孤立した人間としてのさびしさとせつなさとともにあえぎ声を漏らしているわけで、そこにこそ「情交」の味わいがある。
日本列島の男と女は、男と女の関係から逸脱し、人と人として「情」を交し合う。
したがって、杉田水脈のいうような、ゲイやレズビアンは子供を産まないから生産性がない、などという理屈は成り立たない。日本列島の男と女は、子を産むためにセックスをしているのではないし、子を産むためのセックスしか知らない男から順番にインポテンツになってゆく。
まったく、今どきの右翼は、日本列島の伝統をなんにもわかっていない。