感想・2018年8月1日

<家族という価値>
世間ではよく「地に足がついた生き方をしろ」という。
しかし、そんなふうに固定化された思考や行動ばかりしていたら、誰だって飽きてくるだろう。心は、そのようにして澱んでゆく。確固たる主義主張や信念を持って生きるといっても、それでうまくいっているときはいいけど、人生にはその基盤が崩れてしまうときもある。
妻に愛されていると信じて疑わなかったのに、あるときその妻が家を出ていった。愛されているという信念があっただけに、ショックは余計に大きい。
そこで男はこう思う。妻は俺の価値をなんにもわかっていなかった、あるいは俺の正しく立派な人生についてこれなかったのだ、と。
妻が逃げていったということは、幻滅されたということであり自分に魅力がなかった、というそれだけのことなのに、それを認めたがらないで、思考も行動も悪あがきしてしまう。
逃げられたことがいけないのではない。それはもう世間にはよくあることで、誰にでも起こりうる。
人と人の関係は、いろいろとややこしい。
立派な人間が立派な人生を送るとはかぎらないし、立派な人生を送っている人間が立派な人間だとはかぎらない。
この世に「立派」などということはない、ともいえる。
「地に足がついている」ことの愚かさというのもある。
フワフワしている女やいつも心が揺れ動いている女は魅力的だ。そういう女は表情が豊かだし、信念など持っていない人間のほうが、この世界や他者の輝きに豊かに反応することができる。生まれたばかりの赤ん坊のようなまっさらな心で反応してゆくことができるのなら、それはとても素敵なことだろう。
心が揺れ動いているということは、信念など持っていないということであり、心の底に深い絶望やかなしみを宿している、ということでもある。そして、人はもともとそのように存在しているのであり、ただ、文明社会の制度によってそのような「信念」や「希望」を持たされているだけなのだ。
「地に足がついている」なんて時代や文明制度に踊らされているだけのことで、権力者にとってはそういう生き方をさせておいた方が支配しやすい。
家を出ていった妻の心は揺れ動いていた。心はすでに、世界からはぐれてしまっていた。そんな心を、男は抱きすくめてやることができなかった。
人と人は世界からはぐれてしまった心を共有しながらときめき合っているのであり、世界=社会の枠にはめ込まれてときめく心を持たない男とときめき合うことなんかできない。
社会制度や自意識という虎の穴に潜り込んで出てこない男に、どうしてときめくことなんかできよう。まあそういう男は、芸術や恋愛やセックスすらも制度的な物差しで考えているし、家族そのものも制度的な価値として信じ込んでいる。
吉本隆明は、「家族は本質的にエロス(=対幻想)の場である」といっているが、それこそが制度的な幻想であり、「家族」という意識でセックスなんかできるはずがないのであり、それでもその幻想でセックスしようとして多くの男がインポテンツになってゆくのだし、その幻想に執着しながらセックスをしなくなってしまっている夫婦もたくさんいる。
家族は本質的に「非エロス」の場であり、家族からはぐれてゆくことによって「エロス」が発生するのだ。
家族なんてもともといずれ解体されてゆくことが宿命づけられている集団であるし、夫婦は家族からはぐれた一人の男と女になってセックスしている。そして親子やきょうだいだって、ひとりの男と女になったときに近親相姦が起きる。
たとえ夫婦であっても、家族だからセックスをするのではない、家族からはぐれてゆくことによってはじめてセックスする気になれるのだし、まあそうやって不倫をしている人妻は少なくない。彼女らの多くは、亭主が寄ってくるのを拒否しつつ不倫に走っている。
戦後の家族は、「団地」とか「ニュータウン」とかの権力者が用意した「核家族」という制度の虎の穴に潜り込んで失敗した。
核家族がいけないというのではない。「家族」という価値に執着すると失敗するということ。戦後の権力者は、民衆を「家族」という制度的な価値の中に閉じ込めることによって民衆を家畜化してきた。男たちは、「家族のため」という美名のもとに働き蜂に徹してきた。
妻たちの心が家族からはぐれてゆくということは、男たちにとっても権力者にとっても、誤算だったのかもしれない。
妻は、家族という価値からはぐれながら、不倫をし、家を出てゆく。