感想・2018年7月31日

<女の絶望>
男は、女が持っているかなしみの深さに、どうしてもたどり着けない。
古語の「おみな」の「み」は、「実」「身」「見る」で、「やわらかさ」とか「本質」とか「認識」というようなニュアンスをあらわし、「な」は、「慣れる」「なつく」「なじむ」の「な」で、「親密」な感慨をあらわす。
まあ古代以前の人々は、「やわらかくなじんでゆく」存在のことを「おみな」と呼んだらしい。それは、セックスのときの反応の仕方をあらわしているのだろうが、女は、体だけでなく、心においてもそういうかたちをしていて、それは、心の底に深い「かなしみ」を宿しているからだ。そして男の心は、どうしてもそこに届かない。
「心がやわらかくなじんでゆく」とは、「心が華やいでゆく」ということだ。男の心は、女ほどの深いかなしみもなければ、女ほど華やいでゆくこともできない。
女は体温の上下動が激しく、心が不安定になりやすい。そのせいだろうか。どんな体験をしたとかというようなことではなく、存在そのものにおいて女は深いかなしみと豊かな心の華やぎを持っている……古代人のそういう感想・認識から「おみな」という言葉が生まれてきた。
だから、普通の若い娘がたとえば「絶望」というような言葉を口にしたとしても、男はそれを侮ってはいけない。女は女であるというだけでそのことを深く知っているし、男の心は、けっしてそこまでたどり着けない。絶望を回避して悪あがきしてしまい、女のようにそれをそのまま受け入れそれが心と体にしみ込むというようなことはない。
男は、観念でそれをごまかしてしまう、ということだろうか。そうやって、「天国」や「極楽浄土」のイメージが生まれてきた。それは、男のごまかしなんですよ。

話は飛ぶけど、ひところ『シン・ゴジラ」や『君の名は。』という映画が大評判になって、「3・11の大震災を総括する映画だ」などといわれたりしたが、何も総括していないじゃないですか。それらは大災害を回避するストーリーだったわけで、ようするに「観念でごまかした」ということであり、そんないじましいことを考えるなよ、という話です。男のいじましさ丸出しであり、まあ権力社会というのは「男のいじましさ」の上に成り立っている。権力社会のプロパガンダみたいな映画だったのですよ。
女は、「観念でごまかす」というようなことはしない。すべてを受け入れ、「世界の終わり」から生きはじめる。それが、「おみな」という言葉の意味するところではないでしょうか。