感想・2018年7月27日

<不幸のかなしみ>
この広い世の中には不幸な夫婦関係の中に置かれている女はいくらでもいる。
そこで別れようと別れるまいと、その不幸のかなしみによって輝きが増す女もいれば、くすんだり歪んでしまったりする女もいる。
人間とはもともと「不幸のかなしみ」の上に成り立っている存在であり、それによってなお輝いてくるのはきわめて自然なことで、くすんだり歪んでしまったりするのはほんらいの人間性から外れている。それでもそうなってしまうのは、近代の文明社会を覆っている「生命賛歌」とか「経済至上主義」とかもろもろの「幸福論」とかの共同幻想から圧迫を受けているからだろう。
近代の文明社会は、「不幸のかなしみ」が人を輝かせるような仕組みになっていないし、人々のあいだからそういう合意が失われてしまっている。それはきっと、とても病的で不自然なことだ。
しかしこの国の伝統、すなわち歴史風土においては、そうした「共同幻想」に対するカウンターカルチャーも人々の意識の底に今なお息づいている。

「萎れたるこそ花なり」といった世阿弥の言葉は重い。
「不幸のかなしみ」を心の底にたたえている女こそが、もっとも美しく輝いている。まあ僕はあまり女性経験が豊富なわけではないのだが、たとえばそれは、セックスのときのあえぎ声やあえぎ方にあらわれる。
人妻のあえぎ声は深みがある、などといわれたりする。そして、亭主よりもよその男により深く感じたりする。そのあえぎ声の深さは、いわゆる「いい女」かどうかということはあまり関係がない。普通の女だって、心にしみるようなあえぎ声をしていたりする。とにかくそれは、女としての「かなしみ」の問題なのだ。
というわけで、今どきの普通の人妻が、不幸な夫婦関係からいっとき逃れようとして不倫に走るのも、女としての自然がないわけではない。我慢をすることが習い性の普通の人妻のほうが嘆きは深い、という場合もある。
自立した女が偉いのかどうか知らないが、女は、存在そのものにおいてこの世界から「孤立」している。
女にとってセックスはひとつの「自傷行為」であり、「萎れて」ゆきながら死の淵に立ち、そこから心は華やいでゆく。まあそうやってあえぎ声を上げているわけで、そんな不幸な人妻のあえぎ声はことさらに輝いている。
女は、存在そのものにおいて、すでに「不幸のかなしみ」を背負っている。つまり、死の淵に立っている。
人妻にとっての不倫は、「生活=日常」に汚されてゆく我が身に対するひとつの「みそぎ」であり、この国にはそういう歴史風土がある。
まあ僕が書けるのはここまでで、もっとたくさん女を経験しておけばよかったな、と思う。