感想・2018年7月26日

<ミツバチの孤独>
ハイデッガーは「言葉は存在の家である」といった。
それに対して吉本隆明は、「言葉の本質は<沈黙>にある」といった。
つまりハイデッガーは、「言葉は自分という存在の中にあるのではなく、自分の外で自分を取り囲むようにして生成している」といい、吉本は「言葉は自分の中にある、存在こそが言葉の家である」といっていることになる。
どちらが正しいのか?
言葉は脳の中に記憶として蓄えられてあるのか?そうじゃない。言葉は自分のまわりの社会で生成しているものであり、脳はそのつどそれをキャッチして思い浮かべているだけである。つまり言葉は、「記憶」されてあるのではなく、そのつど「思い出す」のであり、神経回路の流れによって「思い出す」ということが起きる。
脳は「記憶」する装置ではなく「思い出す」装置なのだ。
現代社会では、インテリであろうとなかろうと、社会生活をいとなむ上で「知識=記憶」として蓄えておくべきことがたくさんあるし、蓄えてひけらかしたがるものも少なからずいて、誰もが脳の神経回路を酷使している。酷使し、やがて壊れてゆく。それが、アルツハイマーだろう。
脳は、「記憶」する装置ではない。生きものの脳に「記憶=言葉」など埋め込まれていない。
ボケ老人は記憶を失うのではない。神経回路の損傷によって「思い出す」ことができなくなっているのだ。
彼らの神経回路は、耐性疲労を起こしている。言葉や社会で生きるためのノウハウを蓄積するだけでなく、たえず「自分」とか「生きる」ということに神経回路を駆動させて、休まる暇がない。
では、どうすれば神経回路は耐性疲労を起こさないですむか。
神経回路のクリーニング=メンテナンスは、「忘れる」ということにある。「自分」や「この生」を忘れて、世界や他者の輝きにときめいてゆくこと、それが「忘れる」という体験になる。他愛なさ、すなわち頭をからっぽにすること。大科学者や大哲学者だってそういう部分は持っているわけで、言い換えれば彼らは、そういう部分がなければその複雑で高度な神経回路が持たないことを本能的無意識的に知っている。
中途半端な知ったかぶりや自意識過剰のものたちから順番にボケてゆく。善良で賢明な「市民」であることがはたして健康なことであるのかどうか、それはわからない。
むやみな「生命賛歌」などやめておいた方がいい。それは文明社会のたんなる制度的な観念であり、「人間とは何か」とか「生命とは何か」ということの真実は、そういうところにあるのではない。
「存在」すなわち「私=自己」の内側は、「からっぽ」なのだ。「私の人格」も「私の心」も「私の言葉」も「私の命」も、すべて「私」の「外」にある。それらは、「外」なる「環境世界」において生成している。
生きものの生のかたちは「環境世界」によって決定されている。つまり、「環境世界」に対して神経回路が「反応」しながら生のかたちになってゆく。
ミツバチやアリなどの昆虫の生態はとても戦略的に考えて成り立っているように見えるが、じつはそういう神経回路になっているというだけのことで、神経回路が環境に「反応」して動いているだけなのだ。
ものすごく大げさにいえば、「私の人格」も「私の心」も「私の言葉」私の「命」も宇宙現象のひとつであり、そのことに人もミツバチも変わりはない。
吉本隆明のようにそれらのものが「私=自己」の「内」にあると思い込んでいるのは、ただのナルシズムであり、近代の制度的な自我意識にすぎない。
「私=自己」の「内」に何もないことはもう、人文学的な倫理思想というより、最新の脳科学においてそうであり、論理的客観的にそうなのだ。
すべての存在は、「内存在」である。これを、実存哲学ではよく「世界=内存在」などという概念で説明されている。
すべての「存在」には「質量」があり、「輪郭」がある。「質量・輪郭」があるということは、その「外部」があるということを意味する。この宇宙だって「内存在」でしかない。そしてそれは、その「外部」に「神」が存在するということを意味するのではない。「神」だって「存在」であるかぎり、「質量・輪郭」があり、「内存在」でしかない。
この世のもっとも大きな「世界=内存在」が宇宙だとしたら、最小の「内存在」は「私=自己」であり、「私=自己」の「内部」は「ない」かといえば、「ない」という「非存在」の世界があるのかもしれない。
少なくとも人の心は「ない=非存在」の世界を思い描いていて、それが「ゼロ」という概念になっている。
そして、身体の「外部」だって「空間」という「非存在」の世界であり、「空間」は「空気」という「存在=物質」のことではない。
「ない=ゼロ」の世界。
「空間」には「輪郭」がない。あるいは「存在の輪郭」は「空間の内側の輪郭」である、ともいえる。そして言葉は個人の口から音声として発せられることによって機能しているのだから「空間=世界の内側の輪郭」であるともいえるし、社会ごとに違って社会として閉じられているから「輪郭」を持った「家」だということになる。
ともあれこんな思考はたんなる言葉の上でのことであり、世界はすべて言葉である、ともいえる。人は、言葉によって世界をとらえようとする。
つまり、あんまり自意識過剰になってもしょうがないし、「人間」も「私」も、それほどご立派な存在ではないということ。