感想・2018年7月29日

<人生の忘れもの>
昨日は台風でちょっと寒いくらいだったが、今日はとても暑い。
これは、たんなる時候のあいさつ。
毎日の日付をタイトルにしているのだが、どうも日記風のことは書けない。社会不適合者には、それはどうにも荷が重い。
このところ、毎日「批評とは何か」ということばかり考えている。
50代半ばまではそんなこととは無縁に生きてきたのに、気がついたらいつの間にか批評に魂を売り渡してしまっていた。
まあ僕の書くものなんか、作家論でも作品論でもないからたんなる「批評もどき」なのだが、それでも命を懸けて書いている。「誰にも負けない」というつもりで書いている。
テキストは、「歴史」と「人間」、そういうことの原理論について考えたい。
それは、吉本隆明氏の影響かもしれない。昔は、夢中になって読んだ。でも、いつの間にか幻滅と反感を抱くようになった。とはいえそれも、吉本氏に対する僕の愛情のかたちだと思っている。
彼は根っからの天才ジャーナリストで、有名になるべくしてなったのだろうと思えるのだが、本人は「俺は原理論においては誰にも負けない」と宣言していて、それが『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』の三部作になっている。
しかし僕は、原理論を書いたその三部作に幻滅した。
ぜんぜん違う、ぜんぜんだめだ、と思った。
ジャーナリスティックなモチーフを扱った『マスイメージ論』や『ハイイメージ論』はおもしろかった。同じころに大人気のベストセラーになった浅田彰の『逃走論』なんかより、ずっとおもしろかった。ただしその下敷きになっている原理論に関しては、まるでステレオタイプで薄っぺらというか、この人の「知の荒野に分け入ってゆく」というのは口先だけだなと思った。とくにその中の「ファッション論」という章では衣装の起源とか本質について語っている部分があるのだが、僕としては大いに不満で、そうじゃないだろう、こうだろう、と思うばかりだった。つまり、「ああ、ファッションというのはこのようにして語るのか」と、その切り口にはおおいに啓発されたのだけれど、しかしそれを自分ならこう考えるということもどんどん頭に浮かんできた。
たぶんこれが、僕にとっての最初の批評体験だったのだろう。
僕にとって批評とは、この生やこの世界について語られていることに対して異議申し立てをしつつ、この生やこの世界についての真実を救い出そうとする試みであるのかもしれない。文明社会に異議申し立てをしつつ文明社会を救出する、というか。
幸せか不幸かということ以前に、「今ここ」に生きてあることはどういうことなのかという思いは誰しも抱くわけで、誰しも抱いているじゃないか、と問いただしたい思いがどうしてもある。
僕は、生きてあることに対して、途方に暮れてしまっている。
何かを救い出したいといっても、僕自身が遭難者であるのかもしれない。