人生なんかどうでもいい・かなしみとときめきの文化人類学12


人類史のはじめのころ、複数の集団からはぐれてしまったものどうしが、集団の外のある場所で出会い、ときめき合い、そこで新しい集団がつくられていった。
そこに生きのびるための新しい情報があったというわけでも、そこが住みよい土地であったのでもありません。
ただもう集団からはぐれてふらふらっとそこに来てしまっただけで、そこで生まれたのはときめき合う関係であり、セックスの関係があっただけでしょう。しかしそれこそが新しい集団をつくってゆくエネルギーになった。
人類は猿の生態から離れて一年中発情している存在になったわけだが、なぜそうなったかということは、はっきりとした人類学の結論は出ていません。
人類学者たちは、あまり興味がないらしい。なぜなら彼らにとってそれは二次的な問題であり、人類の歴史を動かしてきたのは生きのびるための食糧確保の問題だと考えているからです。
しかし、そうじゃないのですよね。原初の人類はそんな問題は後回しにして、あくまで人と人がときめき合いセックスしてゆく関係をつくり上げてゆくことを優先してきたのであり、四足歩行の猿が二本の足で立ち上がることは必然的にそういう生態を生み出す契機を持っているのです。
現代の社会でも、生きるための衣食住のものよりも、そんなことには何の関係もないきらきら光る金銀宝石のほうが価値があるのです。衣食住に関係ないからこそ貴重な価値になる。それはたぶん、それが人間の死との和解というか死に対する親密さを象徴するものだからです。
そして人間にとってのセックスの衝動も、死に対する親密さとともに活発になってきた。



原初の人類は、生きのびることなんかそっちのけで立ち上がっていった。それは、きわめて不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢です。そのとき人類は、猿としての生きのびる能力を喪失した。しかし、それでもかまわなかった。そんなことよりも、「今ここ」でときめき合う関係がつくれればそれでよかった。
その密集しすぎた群れにおいては、たがいの身体がぶつかり合うというわずらわしさ鬱陶しさがたえず付きまとっており、個体間の関係も険悪になり、誰もがヒステリーを起こしそうになっていった。彼らは、その鬱陶しい関係の圧力から押されるようにして立ち上がっていった。
二本の足で立ち上がれば、四本足でいるときよりもそれぞれの個体が占める空間のスペースが狭くてすみ、それぞれの身体のあいだに「空間=すきま」が生まれてゆく。
それで、ひとまずほっとした。
たがいにいがみ合わなくてもすむようになっていった。
しかしその姿勢は、猿としての身体能力を失い、攻撃されたらひとたまりもないのだから、たがいに攻撃の意思を捨て、ときめき合ってゆかないと成り立たなかった。
その不安定な姿勢は、たがいに向き合い相手の身体が心理的な壁になっていることによって安定した。
そのときから人類は、そういう関係になってゆく生態を持つ猿として歴史を歩みはじめた。



それは、猿であったときの群れとしての全体的な秩序を失い、それぞれがたがいに孤立した個体になりながら向き合いときめき合ってゆく、というコンセプトの姿勢だった。
人間は、避けがたく孤立した個体になってしまう心模様を持っていている。それはもう二本の足で立ち上がったときからそうだったのであり、そうやってしらずしらず集団からはぐれてしまう生態を持つようになっていった。
というわけで人間は、喪失感の上に成り立った心を抱えこんでいる存在です。
だから心はすぐ集団からはぐれてしまうが、だからこそ他愛なくときめいてゆくようにもなった。
そういう人間的なありようが、1年中発情している猿にしていったのでしょう。
「人間は観念でセックスする」といっている人がいるが、そうじゃない。人間のセックスは、猿よりももっと他愛なく動物的であるとと同時に、猿よりもはるかに高度に心理的なのです。
観念で勃起できるのなら、この世に勃起不全に悩む男なんかいません。それは、自分の意志とは関係なく思わず勃起してしまう現象です。しかしその思わず勃起してしまうことにも、人間的な喪失感や「かなし」の感慨がともなっている。人間は、大人になるとともに社会の制度性に身を浸しながらそういう感慨が薄れてきて、勃起がままならなくなってくるのです。
そのとき、集団からはぐれて途方に暮れ、疲れ果てていたから、他愛なくときめき勃起していったのです。人間は、そういう心模様を恒常的に抱えている存在になったから、一年中発情している存在になっていったのです。
二本の足で立つという姿勢を常態化していれば、どうしてもそのようになっていってしまう。



集団からはぐれてしまったものたちが集団の外のある場所で出会ってときめき合いセックスをしていったのが、人類拡散のはじまりです。
そのとき、すぐにセックスに及んだでしょうか。
猿の世界では、そうなります。年に一度か二度のことだし、ボスがセックスの権利を占有している予定調和の行為だし、メスは受け入れ可能であることを示す赤く充血した性器を外にさらしているし、まれにボス以外のオスにやらせることがあるとしても、いつだっていきなり後ろからずぶりと当然のようにしているだけです。
しかし人間の場合は、一年中のことだし、誰と誰がすると決まっているわけではなく出会ったときのなりゆきで起こることだったし、女の性器は猿のようなあからさまなしるしはなく、しかも尻の奥に隠れてしまっている。
とうぜん、いきなりというわけにはいきません。おそらく、鳥の求愛ダンスと同じような前段階の行為があったはずです。
後ろからしたのか前からしたのかは知らないが、とにかく女にその格好になってもらわないとできない。そのためには、女に「やらせてあげる」という気になってもらう必要がある。とにかく人間の女の性器は、猿と違っていつでも受け入れ可能な状態になっているわけではないのだし。
新しい土地にやってきた人間の男も、そのとき求愛ダンスをしたのでしょうか。まあ、そのような表現をしたのでしょう。それで女も「やらせてあげる」という気になる。で、やがてダンスをしながら音声を発するようになってゆき、それが歌になっていった。
人類の踊りや歌の文化は、そのようにはじまっているのかもしれない。
いずれにせよ、原始人のセックスだって、人間的な共感の上に成り立っていたはずです。女のほうは、やりたくてうずうずしている存在ではなかったが、それでも「やらせてあげる」という気になってゆくときめきはあった。
そのとき、女に「やらせてあげる」という気にさせる男の気配や振る舞いとはどのようなものだったのでしょうか。まあ、必死のようすにほだされて、ということもあったでしょう。必死になるのは、途方に暮れて疲れ果てているからです。そして、女のほうにもまた、はぐれてしまったという途方に暮れた思いがあった。そういう共感で、「やらせてあげる」という気になっていったのでしょう。
これが、人間のセックスの基本のかたちです。べつに観念でするわけでも、猿のような安直な行為でもない。ほんとにただもう他愛なくときめきあってするのだが、その底には、人間であること生きてあることに対する深い喪失感が流れている。



人類の歴史をつくってきたのは、生きのびるための食糧確保の問題ではなく、心が華やいでゆく体験にある。それは、セックスの問題であり、人と人の関係の問題です。
拡散してゆく人類集団には、つねに喪失感と他愛ないときめきが共有されていた。
人間のセックスには、前戯がある。それは、女の性器が濡れて受け入れ態勢になるところに追い込むという行為なのだろうが、いいかえればそれは、女はセックスをしたがっている存在ではないということを意味する。性器が隠れているということ自体、セックスをしたがっていないかたちです。
たとえしたがっていても、男にとって女は、セックスをしたがっていない存在なのです。だからこそ、けんめいに追いかける。
したがっていない相手としようとするのだから、男の発情はより切実になる。女もしたがっているのなら、男のしたい気持ちも半分ですみます。人類史において男が一年中発情している存在になっていったのは、女がしたがっている存在ではなかったからです。したがっているわけではないが、けっきょく根負けして「やらせてあげる」ことになる。それはもう、すべての雌雄の生き物の基本的な生態であるはずです。
女は身体に意識が強くまとわりついているから、男のようにかんたんに我を忘れて発情するということはない。その、身体にまとわりついた意識を引きはがしてやるのが前戯だが、その代わりいったん忘れてゆけば、男よりももっと深く「非日常」の世界に入ってゆく。そうして男はそのあとを追いかけてゆく。
これだって、身体という日常の喪失体験です。その喪失体験がカタルシスになる。
人間は、喪失体験にカタルシスを覚える存在です。
我を忘れて夢中になってゆく、という喪失体験。
猿は、外敵などの世界から身を守ろうとする意識をつねにどこかに持っている。だから直立二足歩行を常態にしないのだが、人間は、そういう意識をすっかり忘れて何かに夢中になってゆく。その生態が、人類の知性や感性を発展進化させた。



人間の知性や感性は、喪失感の上に成り立っている。
喪失することがカタルシスだから、いつのまにかはぐれてしまう。はぐれてしまうことにはカタルシスがともなっている。
セックスの快感は、はぐれてしまうことです。たがいに抱き合い、たがいに自分の身体を忘れて相手の身体ばかり感じている。自分の身体を忘れることは、生きてあるという自覚からはぐれてしまうことです。はぐれてしまった存在として、けんめいに相手の身体にしがみついている。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは猿であることや生きてあることからはぐれてしまうことだったのであり、その喪失感に浸りながらけんめいに相手の身体を感じ追いかけてゆくという体験だったのです。
他者の身体とぶつかり合うことの鬱陶しさは、自分の身体にまとわりついた意識を引き剥がせないことの鬱陶しさにあります。そして生き物にとっての身体が動くことは、身体の物性から解放される体験です。そのとき身体は、ただの「空間の輪郭」になっている。身体の鬱陶しさは、身体が物体であることにある。
身体の物性など忘れて自由に身体を動かしたい……その願いで人類は二本の足で立ち上がっていった。たとえそれが猿としての身体能力を喪失し生きる能力を喪失することであっても、自分の身体の物性を忘れていられることにはそれ以上の深いカタルシスがあった。自分の体をを自由に動かせるなら、生きる能力をなくしてしまってもかまわなかった。
そうやって人の心は、生きてあるという現実=日常からはぐれてゆく。
セックスは、生きてある現実=日常からはぐれてゆく体験です。だから人間は、セックスが好きなのでしょう。原初の人類がセックスをすることは、二本の足で立ち上がることそのままの体験だった。人類が一年中発情している猿になってゆくことはもう、二本の足で立ち上がったときからすでに宿命づけられているなりゆきだったのかもしれない。そのとき人類は、生きてあるという現実=日常からはぐれてゆくカタルシスを知ってしまった。



憂き世のしがらみの中に置かれてあれば、心も体も自由に動けない。それでも現代人は、憂き世という現実=日常に耽溺してゆく。今や、働くお父さんだろうと主婦だろうと塾通いをする子供だろうと、みんなが現実=日常に耽溺し、それが人間の幸せで人間性の本質だと合意されている。
そういう意識やライフスタイルがいいのか悪いのかはわからないが、それが人間性の本質=自然だということはいえない。
心も体も自由に動けなくなってきている、という事態はたしかにあるのでしょう。近ごろでは「閉塞感」などという言葉が合唱されている。
有能なキャリアウーマンが肩こりに悩まされるとか、また働き盛りの男が勃起不全に陥るとか、いろいろと体が自由に動かなくなってきている現象はある。
そして、人々の思考力や想像力や直観力のはたらきが豊かになってきているともいえない。まあ脳をマニュアルどおりにはたらかせることはさかんな世の中だが、現実=日常に耽溺していれば、自由を失ってそういうはたらき方しかしなくなる。
生きてあること(現実=日常)からはぐれてしまうのが人間性です。そこでこそ人間的な知性や感性が自由にいきいきとはたらくし、そうやって人間の男のペニスは勃起している。



昔の日本人が「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」といっていたのは、生きてあることからはぐれてしまう感慨だった。そうやって彼らの心は華やいでいった。そう感じることにカタルシスがあったからこそ、どんどんそう感じるようになっていったのでしょう。それは、日常生活に不自由していない宮廷の女たちから生まれてきた感慨です。人間が日常生活に不自由しない暮らしになれば現実=日常に耽溺するようになってゆくとはかぎらない。現在の日常生活に不自由していない女たちが現実=日常に耽溺してゆくことと、平安時代の宮廷の女たちが「あはれ」とも「はかなし」とも嘆きながら生きてあることからはぐれていったことと、いったいどちらに人間性の真実があるのでしょうか。
西洋だって、現代の女たちは昔の宮廷の貴族の女と同じ生活に不自由しない暮らしをしているが、昔の貴族の女たちは、明日のことも生活のこともどうでもいい気分で生きていた。
生活に不自由しないのなら、なおさら生活のことなどどうでもよくなってしまう。それが、人間の自然でしょう。現在の若者たちだって、生活に不自由しないで育ってきたからこそ、食い物はコンビニ弁当、着るものはユニクロでけっこうという。そうやってもう、衣食住などというものには耽溺していない。
現代人は「生活=現実=日常」に耽溺し、豊かな暮らしをしながら、しかし心はなぜか痩せ細っていっているようにも見える。
いまどきは成功した女の「人生自慢」や「幸せ自慢」の本の出版が花盛りだが、ボードレールは「人生などというものは召使の女にくれてやれ」といった。つまりそれは召使の女の思想なのです。
人は、人生にゆきはぐれて人間であることの真実と出会う。人の心は、どうしても生きてあることからはぐれて「世界の終わり」を見てしまう。それはもう、原始人だろうと現代人だろうと同じなのでしょう。心は、そこから華やいでゆく。
人間はもう、二本の足で立ち上がったときからずっとそうやって歴史を歩んできた。
きらきら光るものは、「世界の終わり」を象徴している。
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