感想・2018年8月4日

<時代>
僕は時代に背を向けて生きてきた人間だから、時代のことはよくわからない。
若いころからよくわからなかった。
時代のことが気にならないというのではない。誰だって時代の負荷を受けているのだから、知らんぷりしたままでは生きられない。
あのころ。マッチから百円ライターに切り替わる時代だった。僕は、友達の中で、いちばん遅く百円ライターを使い始めた。
車が庶民生活に浸透してきている時代だった。
でも、車に乗りたいとか持ちたいと思ったことはなかった。運動神経には自信があったから、車を運転するのが怖いというようなことはなかったが、まあ、あまり便利なことに興味がなかった。ひといちばい怠け者のくせに、不便なことを、いやだいやだと思いながら、ひとまず便利さに飛びつくほどの勤勉さがなかった、ということだろうか。
怠け者だから、追いつめられるまで動こうとしない。いつだって、追いつめられるというかたちで時代とかかわってきた。

社会学者は時代のことをよく知っているし、時代をよりよく生きるすべを提言する。そして庶民もまた、時代について語りたがるし、そのほとんどは社会学者の受け売りだが、社会学者が批判されることも多い。庶民だって、いっぱしの社会学者のつもりになっていたりする。
誰だって、社会や時代の風を受けて生きている。
たしかに「なるほどそうか」と思うことをいう社会学者もいれば、「何いってるんだか」と反論したくなってしまうような思考の薄っぺらな社会学者もいる。
で、おもしろいことにほとんどの社会学者が、反社会的で一匹狼を自認していたりする。
社会や時代になびいてゆくことができるのなら、政治学者になるのだろうか。
左翼であれ右翼であれ、どうして政治というものを信じることができるのだろう。
政治が救うことができるのは政治を信じているものだけで、世の中の貧しいもののほとんどは愚かな怠け者であり、政治を信じていない。
さあ、どうする?
いい人ぶって、政治家でもないくせに政治はかくあらねばならないと叫んでいるオールド左翼のプチインテリの、なんと胡散臭いことか。その思考の、なんと薄っぺらで貧しいことか。
貧しく愚かな怠け者が物質的に豊かになれるチャンスはほとんどない。あとはもう、心を豊かに生きることができるかどうかということだけだ。
貧しく愚かな怠け者は、貧しく愚かな怠け者どうしで助け合う意外に生きるすべはない。ときめき合う、という体験があれば、なんとか生きられる。
たとえば貧しい母子家庭の母親の多くは愚かな怠け者だろう。政治が彼女らを救う日は、いつやってくるのか。彼女らがおばあさんになってからでは遅い。彼女らこそが、もっとも深く人としての「かなしみ」を知っている。
彼女らを救うとは、どういうことなのか?
彼女らが「今ここ」において輝くとは、どういうことなのか?
人として輝いているとは、どういうことだろうか?