感想・2018年8月5日

<細部の華やぎ>
僕は、自分が書いたものを読み返すのがとても苦痛な性分で、電子書籍を出そうと思い立って毎日推敲をしているのだけれど、遅々として進まない、
それに、読み返すと、書き足したいことや書き直したいことがどんどん出てくる。
とりあえず2冊一緒に出すつもりだけれど、八月中に仕上がるかどうか。
老い先短い身だし、古人類学の起源論とか日本文化論とか、書き残しておきたいことはまだまだたくさんあるのだけれど、どうもペースが上がらない。
僕は学者ではないから、何かを研究したいというのではなく、研究のための基礎的なこと考えて誰かに提供したいのです。
誰に?といわれても困るわけで、誰も見向きもしてくれないかもしれないし、運よく知らない誰かが拾い上げてくれるかもしれない。
人と人が語り合うことに対する憧れがある。
現在の僕にはインテリと語り合う機会がまったくなく、語り合ってみたいと思っている。
また、17、8のおバカなギャルと語り合えるようなことも書いてみたい。
僕は、政治経済のことはよくわからない。
人の世の基本は、人と人の語らいだと思っている。
人と人の語らいに華やぎのない社会は不幸だと思う。個人の人生においてもそうかもしれない。
仲間内だけの会話しかない社会や人生は貧しい。
いろんな人がいろんな人と会話できる豊かな社会や人生。そういう場の華やぎをコーディネートするのも「言論」の役割かもしれない。
政治経済のことを語るだけが脳じゃない、とじつは誰もが知っている。
コンビニのおねえちゃんやスーパーのレジのおばちゃんとの事務的な一言二言の会話の中にも華やぎがあるような世の中であればと思う。そういう「細部」が貧相な社会に希望はない。
「細部の華やぎ」を大切にするのが日本文化の伝統でもある。
千年も二千年も日本語を使って会話をしてきた民族が、いきなり英語に変えて、どれほど豊かな会話ができるのだろう。
会話の本質は、「意味を伝える」ことにあるのではない。音声を発することや音声を聞くことのときめきにある。そうやってわれわれは、この島国の歴史風土になじんだ言葉を育ててきた。