感想・2018年8月7日

<言葉についての覚え書き>
まあ、「リンゴ」といえば、ひとまず権力者にとってもインテリにとっても名もない民衆にとっても「リンゴ」であり、言葉は、すべての人々のあいだから「語らいの華やぎ」を生み出す機能を基本的にそなえている。
言葉そのものに対する愛着が共有されていれば、そこに「語らいの華やぎ」が生まれてくる。これは、言葉の「意味」以前の問題です。
同じ言葉で語り合えることのよろこび。
何を伝えるかというような目的で言葉が生まれてきたのではない。
音声を発することのよろこびがあり、音声を聞くことのよろこびがある。そしてその根底には、目の前の他者に対するときめきがある。「語らい」こそが、言葉を言葉たらしめている。
だれかが、ヨーロッパの言語は「音声言語」である、といっていた。冗談じゃない。音声でない言語なんかあるものか。そして日本語こそが、もっとも「音声」に依拠している。
ヨーロッパの言語の「音声」は「意味」に従属している。それに対して日本語の「意味作用」は二次的な機能で、「意味」が「音声」に従属している。だから、「はし」という音声は、「橋」という意味にも「箸」という意味にも「端」という意味にもなることができる。そうやって違う意味になってしまってもかまわない。いちばん大切なのは「はし」という音声である、ということ。それは、音声による「語らい」が大切だということ。
日本語の「語らい」は、「音声」を交わしているのであって、「意味」を交わしているのではない。「意味」は二次的な問題にすぎない。
やまとことばの語らいの華やぎ、古代人はそれを「ことだまの咲きはふ国」といった。
ことだまは音声に宿っている。
オルタナティブ=二者択一、言葉は「差異」の上に成り立っており、言葉は「選択」して発せられる、という。これもたぶん違う。
すべての言葉は、独立して固有に存在している。人が言葉を思い浮かべるとき、その言葉に対する固有の体験を持っていて、その記憶を足掛かりにして思い浮かべている。キリンの姿を思い浮かべながら「首」という。まあそんなようなことで、「首」と「頭」という二つの言葉から選び取っているのではない。
それぞれの言葉は、それぞれ固有の体験をまとっている。
言葉は、記憶の貯蔵庫から選択して取り出すのではなく、そのつどその言葉にまつわる過去の体験を足掛かりにして「思い出す」のだ。
その言葉が思い出されるときの、その言葉固有の神経システムの流れがある。だから言葉はつねに一瞬遅れて思い出されるし、思い出そうとしてもなかなか思い出せないときがある。
言葉は脳に従属して貯め込まれてあるのではなく、脳が言葉に従属している。
言葉の貯蔵庫はこの社会にあるのであって、脳にあるのではない。
言葉は、脳が「選択」して取り出すのではなく、言葉のほうが脳に下りてくる。
われわれの脳は、言葉が下りてくるのを待っている。そのもどかしさ(=一瞬の遅れ)がある。
人と語らえば、言葉がどんどん下りてくる。人に対するときめきのもとに言葉が下りてくる。そのとき言葉は、相手との「関係」のもとに存在している。それを「ことだまの咲きはふ」という。
「ことばの華やぎ」は、言葉の「意味」にではなく、「音声」に宿っている。
コンビニのおねえちゃんやスーパーのレジのおばちゃんとひとことふたこと事務的な言葉を交わすときにだって、「ことばの華やぎ」はある。
文字を書くことだって、それはそれで「語らい」の体験でもある。
「ことばの華やぎ」のある社会であればと思うし、その体験がなければ人は生きられない。