感想・2018年8月8日

<言葉についての覚え書きⅡ>
 承前
 日本列島はユーラシア大陸の東の果てだったし、ヨーロッパは西の果てだ。だから、人類拡散の行き止まりの地としての集団性をはじめとするメンタリティが似ている部分を持っている。ともに、言葉によって人と人の親密な関係を育ててゆこうとする文化が発達している。ともに、みんなで仲良くやってゆくしかない土地だったのだ。
 ただ、ヨーロッパは広い地域が陸続きで往来がさかんだったが、海に囲まれた日本列島は孤立していた。そのためにヨーロッパの言葉は早い段階で「意味伝達」の機能に目覚めてゆき、日本列島ではそういう必要があまりないまま原始的な「感慨表出」の機能を洗練させていった。
また、氷河期の極寒の北ヨーロッパではあまり口を大きく開け閉めしないで早口のしゃべり方が進んでいったが、日本列島では一音一音に意味や感慨を込めてしゃべるようになっていった。
 ヨーロッパではひとつの単語を一音として発声する言葉になっており、そうやって早口になることが可能になっているわけだが、文の構造もいつしゃべりが中断しても意味が通じるかたちなっており、それは、氷河期のヨーロッパがいかに苛酷な環境だったかということと、異民族との対話をつねにしてきた歴史によるのかもしれない。
 まあ発声の仕方としては、西の端であるフランス語がもっとも技巧的に洗練している。呼吸が鼻に抜けるように発声し、あまり口を開け閉めしないですむし、そのほうが早口にも向いている。また、鼻にかかった声は、なんだか相手に甘えているような気配があり、人と人の関係を親密にする効果がある。
いっぽう温暖な気候の孤立した島国である日本列島では、ひとつの単語だけでいくつもの音に分節され、ヨーロッパ人からするといかにももどかしいようなしゃべり方になる。文も、最後まで聞かないとわからない仕組みになっていて、意味が通じることよりも、感慨のニュアンスを共有してゆく機能として洗練してきた。まあ、異民族との語らいがないから、それでよかった。とはいえ裏を返せばそれは、狭いところにひしめき合って暮らしてきたために人と人の関係がややこしくなってしまう土地柄だったということであり、くっつくか別れるか、というような単純な割り切り方ができない。
その点ヨーロッパ人は、ずいぶんドライに割り切ることができる。それが言葉にあらわれているし、その代わり言葉の「意味」に対するこだわりはとても強い。くっつくか別れるか、はっきりさせないと気が済まない。彼らは、人と人の別れに、わりと平気なところがある。「別れの喪失感」を抱きすくめるということをしない。別れの向こう側の自分の知らない世界に思いを馳せるということをしない。それはとても現世的な思考態度で、だから、死後の世界には天国がある、ということにしてしまう。つまり、死後の世界すらも現世の延長にしてしまう。
 死後の世界は「わからない」のであり、とにかく現世ではない世界なのだ。そうやって日本人は、「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということにしてきた。日本人は「わからない」というかたちで死後の世界を思い、ヨーロッパのキリスト教は、「死んだら天国に行く」というかたちで死後の世界を思うことを拒否している。
 日本人にとって死後の世界は、現世の延長ではない、あくまで「異次元の世界」であり、だからこそそれが「遠い憧れ」になる。
「異次元の世界」に対する憧れ……古事記を語り伝えていた古代人にとっての千年の昔は異次元の「神の世」であり、法隆寺薬師寺を建てた大工たちは千年先まで残ることを想定しながら工夫を凝らしていた。
 日本人は、昨日という近い過去のことは水に流して忘れ、明日という近い未来のことも勘定に入れなかった。あくまで「異次元の世界」である千年の昔や千年先の未来のことを思った。それが、「喪失感」を抱きすくめて生きるものたちの思考の流儀だった。


 起源としてのやまとことばには事物の名称や意味はなく、「感慨の表出」としてだけ機能していた。そうして後の時代に、その感慨をあらわした言葉を事物の名称に充てていった。いやこれは世界中どこでもそうであったにちがいなく、もともと言葉は、人と人が「感慨」を共有するための道具として生まれてきた。
 英語であれフランス語であれ、起源においては、ある感慨とともに思わず発してしまう音声だった。もしも人の意志で意味伝達のために計画してつくられていったのなら、今ごろは世界中が同じ言葉になるような発展を遂げているに違いない。
 人類は無意識のうちに言葉が意味伝達の機能だけになってしまうことを拒否しているのであり、それぞれの地域で共有している感慨の伝統を守りたがっているのだ。
 しかし現在の日本人のあいだでは、この生のはかなさを抱きすくめてゆく伝統的な心と、この生の確かさに執着しながら生き延びようとあくせくする近代合理主義的欲望とに分裂しており、そこで人の心も社会も混乱してしまっている。
 言葉の本質的な機能は、「意味伝達」にあるのではない。言葉はその本質において、「意味」をまとっているのではなく、「意味」を超えたところの言葉=音声それ自体の「華やぎ」をまとっているのであり、そうやって人と人は語り合いときめき合っている。 言葉=音声を発することのよろこびがあり、言葉=音声を聞くことのよろこびがある。そこにこそ語り合うことのよろこびがあるわけで、そのとき「意味」は「すでに共有されている」のであり、だから言葉は地域ごとに違っている。
言葉は、「意味」の向こう側の「異次元の世界」に超出してゆく。そこでこそ言葉は華やぎ輝いている。
 人の心はわからない。そのわからないはずの心が言葉=音声に宿っていることを、あるとき人類は気づいたわけで、それが言葉の起源だ。言葉の「異次元性」に気づいた。「意味」に気づいたのではない。現実世界の「意味」を超えた「異次元の世界」に気づいていった。
 語り合うことのもっとも深く豊かな醍醐味は、「意味」を伝達し合い説得し合うことにあるのではない。そんなことで人と人がときめき合えるわけもなく、「意味」以前のそして「意味」を超えた「感慨」を共有してゆくことにある。そうやって人類の言葉は生まれてきた。
 まあ、このことにおいては日本語もフランス語や英語も違いはないわけだが、言葉は原始人の「知能」によって生まれてきたのではなく、心が「異次元の世界」にさまよい出てゆく、その「喪失感」から生まれてきたのだ。
 赤ん坊だって、胎内世界の充足を失ったその「喪失感」を抱きすくめながら言葉を覚えてゆくのだし、赤ん坊こそ、この世でもっとも深く切実に「喪失感」を抱きすくめている存在もないわけで、その他愛ないときめきの水源は「喪失感」にあり、他愛ないときめきとは心が「異次元の世界」に超出してゆくことだ。