感想・2018年8月10日

<平成という時代(1)>
天皇生前退位とともに平成という時代が終わろうとしている。
それは、戦後復興の輝かしい?到達点としてのバブル経済の絶頂期にはじまり、はじまったとたんにその泡がはじけてしまった。
虚勢を張ったカエルの腹が破裂してしまったようなことだったのだろうか。
なんだか、太平洋戦争の敗戦のときと似ている。
東日本大震災での津波の被害や原発事故も、人々に大きなショックと喪失感をもたらした。
とにかくそこで「世界の終わり」が体験された。
とすれば、平成という時代は、「再生」というテーマを抱えて推移してきたのかもしれない。
ある人がこういっていた。
「この世でもっともめでたい出来事は人類滅亡である」と。
そうかもしれない。
しかしそれはそうかんたんに起きそうにもないのだが、それでいて必ず死んでゆく存在である人間はつねにそれを意識して生きているともいえる。
人の心は、「世界の終わり」の喪失感を抱きすくめていったところから華やいでゆく。
太平洋戦争の敗戦のときにしろ、大震災のときにしろ、人々の心は大いに打ちひしがれたが、同時に活き活きと華やいでもいた。人と人が、あれほど率直にときめき合い助け合っていた時代もない。
ただ、バブル経済の崩壊という体験の場合は、それを素直に受け止めることができなくて、人々の心が妙に屈折していった傾向がなくもない。そうやってクレーマーとかストーカーとかヘイトスピーチとかのさまざまな社会病理が噴出してきた。ブラック企業とか非正規雇用の増加とか非婚化とか少子化ということだって、バブルの崩壊をきちんと総括していないことのツケかもしれない。
最近評判になった『シン・ゴジラ』や『君の名は。』という映画は「震災を総括している」などといわれたが、それらのストーリーの「世界の終わりを未然に防ぐ」とか「世界の終わりをなかったことにする」という話では、総括していることにならないし、そういう屈折した総括の仕方をするところに現在の社会の病理が潜んでいるともいえる。
「世界の終わり」の「喪失感」を抱きすくめてゆくことこそ人間性の基礎であり、心はそこから華やいでゆく。そういうことができないところにこそ、現代社会の病理がある。
まあ、平成という時代の政治経済の状況としては、ずいぶんぶざまになってしまったのではないだろうか。
「改善する」などといじましいことをいっていては何もはじまらない。「新しく出直す」ということができないといけない。
社会制度の問題以前に、人々の心がさっぱりと一新されるということにはならないのだろうか。