感想・2018年8月13日

<新しい思想>
初音ミクは、AKBほどの世間やマスコミを大騒がせさせるほどの現象になったことはない。そういう意味で、初音ミクの流行はまだ来ていないともいえるし、来ることはないだろうともいえる。なぜならそれが世間的な流行になるためには、ある超えがたい壁があるからだ。世間とは現実社会のことであり、現代人の心はそこから逸脱して「非現実の世界で遊ぶ」ということがうまくできなくなってしまっている。それこそがこの国の伝統であり人の心の普遍性であるはずなのに、すでに多くの人はその伝統や普遍性を見失い、いたずらに現実社会やこの生や自己意識に執着してしまっている。そういう「幸福志向」や「生命賛歌」が正義としてのさばっている世の中だ。
もちろんわれわれは幸福や生き延びることを願って暮らしているわけだが、それが人類の歴史はじまって以来の願いというわけではない。人の心の底には「もう死んでもいい」とか「いつ死んでもかまわない」という感慨が息づいているのであり、心はそこから華やぎときめいてゆく。「この世に生まれ出てきてしまったことの不幸」というのはたしかにあるわけで、人は、人類滅亡を夢見ながら、そこから心や命のはたらきを活性化させて生きている。
われわれの無意識というか人の心自然においては、けっして「幸福志向」や「生命賛歌」をしているわけではない。
人は、無意識のところで「幸福志向」や「生命賛歌」を超える思想を持っている。
平和で豊かな社会だからだろうか。いや、今や大して豊かでも平和でもないのに、多くの人がそうであった時代の余韻をまさぐり続けている。いったん贅沢を覚えてしまったらもうもとの貧乏には戻れない、バブル直後のころは、そんな「カード破産」というのが大きな話題になった。今もその空気が社会的に広がっているのだろうか。
この生もこの世もあわれではかない、という気分(=喪失感)がなければ、「異次元の世界」の女神である初音ミクと出会うことはできない。日本人ならそういう気分は誰の中にもあるはずだが、現在においては若者たちに色濃くあって、多くの大人たちはすっかり忘れてしまっているというか、その気分を心の奥に封じ込めて生きている。
バブル崩壊以後の世の中は急激に右傾化し、このところ「日本讃美」のテレビ番組や言論が花盛りになっているが、「日本讃美」なんかしないのが日本列島の伝統で、少なくとも民衆は、この世を「憂き世」と思い定めて歴史を歩んできたのだ。
遣隋使を派遣した聖徳太子が「日出ずる国の天子」と宣言したのをはじめとして、権力者ばかりがそういう物言いをしたがってきたのであり、それが民衆社会にも下りてきているのが「民主主義」のこの国の現状であるのかもしれない。
 また、バブル以後に急速に進展してきたもうひとつの現象としてネット社会の広がりということがあるのだけれど、これによって世の中が大きく変わったかというと、期待されたほどでもなく、人々の心は相も変わらず既存のマスコミである新聞やテレビ等によって支配されてしまっている。
 まあこれを「ポピュリズム」といったりするのだが、じっさいにはマスコミも民衆も権力社会の論理に冒されてみずからの思考を失っている状態であり、「ポピュリズムを失っているポピュリズム」なのだ。
 テレビや新聞そのものがいけないのではなく、テレビや新聞が不健康になっているところに問題がある。そしてネット社会においても、新聞やテレビと同じような権力者の論理での物言いが幅を利かせていて、どこにほんとうの「ポピュリズム」としての「民衆の視点」があるのかという状態になっている。
 権力者の論理とはあくまで現世的な政治経済を信奉することにあり、どんな反政府を叫んでもあなたたちだって政治経済を信じている同じ穴のムジナではないか、ともいえる。
あの全共闘運動の挫折は民衆を巻き込むことができなかったことにあり、民衆ほんらいの視点は「そんなものなど知らない」というところにある。そして「異次元の世界に対する遠い憧れ」とともに初音ミクを祀り上げる若者たちはそういうところに立っているわけだが、彼らがネット論壇に登場してくることはほとんどない。彼らだってネット社会の「オタク」の範疇に入るのだろうが、ヘイトスピーチをしたがる「ネトウヨ」と呼ばれる「オタク」たちとは違う。彼らは、誰もが他愛なくときめき合うことができる世界を夢見ているのであり、ネトウヨのような恨みがましい「排除の論理」は持っていない。
 ともあれ現在のネット社会が新聞やテレビなどの媒体を超えることができないのは、新聞やテレビと同じように現実の世界をまさぐっているだけで、現実の世界を揺さぶるような新しい思想や哲学が湧き上がってきていないからだろう。
 その点において、しかし初音ミクの音楽のネット社会は、ささやかながらも現実の世界を超えた世界が構想されているようにも思える。彼らは、もっとも未来的であると同時に、もっともプリミティブな世界観を持っている。誰もが他愛なくときめき合う世界、などといっても、政治経済の現実世界をまさぐり続けるものにとってはただの稚拙な子供じみた世界観でしかないように見えるのだろうが、じつはそれこそがもっとも困難で高度で新しい展望を持った思想であるのかもしれない。