感想・2018年9月12日

小林秀雄本居宣長』>
小林秀雄は今でももっとも好きな批評家だが、その作品論や作家論を書きたいとは思わない。こちらの勝手な解釈であれ、彼がたどり着いたところから歩きだしたいと思っている。
この本を読んで、本居宣長がいかに本質的で稀有な学者であるかということがよくわかったし、小林秀雄の思考の深さや鮮やかさも十分に堪能できた。
それでも、つまずいた部分がなかったわけではない。
本居宣長は「<嘆き>というやまとことばの語源は<長く息をする=ながいき>にある」といい、小林も同意しているのだが、このことに関しては大いに不満だ。
そんなはずがない。
「嘆き」という言葉の基本的なかたちは、「嘆く」という動詞にある。文にするときの都合で「嘆き」という体言が生まれてきただけのこと。「ながいき」から「なげく」という動詞が生まれてきたはずがないし、そもそも語源の時代に「ながいき」という言葉が流通していたとは考えられない。
言葉は、事物の説明として生み出されたのではない。
まあ昔も今も、語源について考えるときのインテリは、すぐ平気でこのような安直なこじつけをしてくる。
人類の言葉が生まれてくる契機は、その発せられた音声にこめられた感慨のニュアンスに気づいてゆく体験にあった。起源としての言葉はすべて、事物の説明ではなく、感慨のニュアンスをあらわしていただけであり、ことにやまとことばは、そういう原始的な機能を色濃く残しながら洗練発達してきた。
したがって「なげく」の語源は、嘆くという行為のさまをあらわしていたのではなく、その心のさまをそのままあらわしていたに決まっている。
「なげく=なげき」の「く=き」はたんなる付け足しの「語尾」だとして、その言葉=音声がまとっている心のさまは「なげ=なけ」にある。
語源の時代の人々は、どのような感慨を込めて「なげ=なけ」と発声したのか。それこそが問われないといけない。
「なげ」の「げ」は、「け」の強調。まあ、それほどに深く切実な感慨がこめられた発声だった。さかしらな「事物の説明」を意図して生まれてきた言葉ではない。したがって「なけなし」の「なけ」にも「投げる」の「なげ」にも共通の感慨のニュアンスがある。その原初の感慨のニュアンスをもとにして、それらの言葉が生まれてきた。
すべてのやまとことばの「語源=本質」には、「感慨の表出」のニュアンスが潜んでいる。
「なげ=なけ」の「な」は、「慣れる」「なじむ」「なつく」「成る」の「な」で、「愛着」「憧れ」「憑依」「出現・実現」の語義。
「け」は「蹴る」「ケッとふてくされる」の「け」、「分裂」「異変」「奇怪」「異次元性」の語義。だから「もののけ」の「け」にもなる。
「なけなし」とは、「失うことをけんめいに防ぎ大切にしている」ことで、そういう愛着と哀惜感がこめられている。
「投げる」は、希望・愛着を放棄・放出することで、今でもそういう意味で使われることもあり、それを「なげやり」という。
「なげく」の「なげ」だって、希望・愛着を喪失している状態をあらわしている。語源的には、「投げる」ことは「嘆く」ことでもある。「嘆く」ことは、心が「日常の平安(=な)」から「異次元の世界に飛躍・超出してゆく」ことで、そうやって人は「泣く」のだし、「あいつには困ったものだ」とか「嫌な奴だ」とか、そうした悪口とともに「嘆き」を共有してゆくときに話はもっとも盛り上がる。それもまた、ひとつの「日常」から解き放たれて「異次元の世界」に飛躍・超出してゆく体験なのだろう。
「なげく」という言葉は、心が日常の平安を喪失して異次元の世界に飛躍・超出してゆくこと、その「喪失感を抱きすくめてゆく心の動き」を表しているのであり、べつに所帯やつれした古女房の「ため息=長嘆息」から生まれてきたわけではない。そういう「ながいき」は、屈折した近代意識のひとつにすぎないのであって、古代人はそんなにも辛いならオイオイ泣いてさっぱり忘れていたのだ。
本居宣長のこうしたインテリ特有の強引なこじつけの語源解釈は『古事記伝』のいたるところに散見され、できることならそれらをぜんぶ修正したいと思ったりもする。
ともあれ「なげく」は死に対する親密な感慨から生まれてきた言葉であり、つまるところ「世界の終わり=人類滅亡のめでたさを抱きすくめてゆく感慨」をあらわしている。
本居宣長が「なげき」は「ながいき」だというのなら、「なげく」は「泣く」から派生して言葉だといいたくなってしまう。泣く行為の心のさまを「なげく」という、と。
ともあれ本居宣長は「なげき」こそが日本文化の伝統(=やまとごころ)の本質であるといっているわけで、それはきっとそうだろうな、とうなずける。「なげき」を水源として心は華やいでゆく。
「世界の終わり」の「なげき」をはらんでいない生に進化はない。
原初の人類は「なげき」とともに二本の足で立ち上がった。立ち上がろうとしたのではない。「なげき」を生きたことの「結果」として気がついたら立ち上がっていた。
キリンは、首の長さが足りない「なげき」を生きたことの「結果」として首が長くなっていったのであって、長くなろうとしたのでも、長いものだけが生き残っていったのでもない。その進化の過程においては、長くないことの嘆きを生きるものたちがつねに種の中心にいた。なぜなら生殖は、「なげき」を水源としてもっともダイナミックに起こってくるのだから。
というわけで「なげき」がなくなって、長くなる進化が止まった。
生きものの進化は、「なげき」を生きることによって起きてきた。
われわれ現代人は、いつも「よりよい社会をつくるためにどうすればいいか」ということばかり議論しているのだが、そんな計画よりも、深く嘆くということなしに進化などないのだし、心はそこから華やいでくる。
あの水平線の向こうには「常世の国」がある、などと思うべきではない。「何もない」と絶望し断念するところから心が華やいでくる。人の心の根源は、水平線の向こうに「世界の終わり」があると思うそのことにこそ遠い憧れを抱いているのであり、それこそが「原初の記憶」なのだ。
まあ現代社会においては、不平不満や怒りはさまざまに起きているが、「世界の終わりの喪失感を抱きすくめてゆく」という「なげき」や「かなしみ」をちゃんと共有しているだろうか。あの大震災のときは、一瞬そういうかたちの社会になったし、太平洋戦争の敗戦のときもそうだった。そうやって人と人が助け合う社会が生まれてくる。
「今ここに生きてあるというそのことが世界の終わりなのだ」ということ、その「なげき」を生きることがこの国の伝統である「無常感」なのではないだろうか。