感想・2018年7月13日

<嘆く>


僕は社会不適合者でおまけに若くないから、外に出るとものすごく疲れる。暑さのせいもあって、もう疲れ果てる。夕飯を食べると、すぐ眠くなってしまう。ひきこもりと一緒、そうして夜中に起きだしてごそごそしはじめる。
それはともかくとして、
……
人類史の進化発展は、「生き延びようとする欲望」によってではなく、生きてあることの「嘆き」をジャンピングボードにして心が「異次元の世界」に飛躍・超出してゆくことの、その「ときめき」や「ひらめき」とともに起きてきた……まあこのことは小林秀雄の『本居宣長』を読んで学んだことでもあるわけですが、そこで小林は、「<嘆き>というやまとことばの語源は<長く息をする=ながいき>にある」という本居宣長の説を高く評価していました。しかし、このことに関しては大いに不満です。
そんなはずがないですよ。
「嘆き」という言葉の基本的なかたちは、「嘆く」という動詞にある。文にするときの都合で「嘆き」という体言が生まれてきただけのこと。「ながいき」から「嘆く」という動詞が生まれてきたはずがないし、そもそも語源の時代に「ながいき」という言葉が流通していたとは考えられない。
語源の時代の人々は、嘆くことを「ながいき」といっていたのか?本居宣長はそうだといっていることになります。
言葉というのは、そのような「説明的な意図」以て設計し生み出されるものでしょうか。このような「はじめに<構造>ありき」という考え方はきわめて西洋的で、本居宣長が嫌った「さかしら」な「漢心(からごころ)」のはずであり、蓮実重彦的な「表層批評」です。
まあ昔も今も、語源について考えるときのインテリは、すぐ平気でこのような安直なこじつけをしてくる。彼らは、「表層」の「構造」を考えるだけで、「本質=深層」をちゃんと問うていない。
「なげき」が「ながいき」から生まれてきただなんて、ただのこじつけですよ。いう方もいう方だけど、感心している小林秀雄だってどうかしている。
言葉が生まれてくる契機は、そのようなところにあるのではない。もっと直接的な発せられた音声そのもののニュアンスとともに生まれてくる。
「なげく=なげき」というなら、まず「く=き」はたんなる付け足しの「語尾」だとして、その言葉=音声がまとっている本質的なニュアンスの姿は「なげ=なけ」にある。
語源の時代の人々は、どのような感慨を込めて「なげ=なけ」と発声したのか。それこそが問われないといけない。
「なげ」の「げ」は、「け」の強調です。まあ、それほどに深く切実な感慨がこめられた発声だった。「さかしら」な「説明的な意図」で生まれてきた言葉ではない。
やまとことばはことに「感慨」の表出として生まれてきた言葉です。したがって「なけなし」の「なけ」にも「投げる」の「なげ」にも共通の感慨のニュアンスがある。その原初の感慨のニュアンスをもとにして、それらの言葉が生まれてきた。
すべてのやまとことばの「語源=本質」には、「感慨の表出」のニュアンスが潜んでいる。


「なげ=なけ」の「な」は、「慣れる」「なじむ」「なつく」「成る」の「な」で、「愛着」「憑依」「出現・実現」の語義。
「け」は「蹴る」「ケッとふてくされる」の「け」、「分裂」「異変」「奇怪」「異次元性」の語義。だから「もののけ」の「け」にもなる。
「なけなし」とは、「出てゆくことをけんめいに防ぎ大切にしている」ことで、そういう哀惜感がこめられている。
「投げる」は、希望・愛着を放棄・放出することで、今でもそういう意味で使われることも少なくない。
「なげく」の「なげ」だって、希望・愛着を喪失している状態をあらわしている。語源的には、「投げる」ことは「嘆く」ことでもある。「嘆く」ことは、心が「日常の平安(=な)」から「異次元の世界に飛躍・超出してゆく」ことで、そうやって人は「泣く」のだし、「あいつには困ったものだ」とか「嫌な奴だ」とか、そうした悪口とともに「嘆き」を共有してゆくときに話はもっとも盛り上がる。それもまた、ひとつの「日常」から解き放たれて「異次元の世界」に飛躍・超出してゆく体験なのでしょう。
つまるところ「嘆く」とは、日常の平安を喪失して「異次元の世界に飛躍・超出してゆくその「喪失感」を表しているのであり、べつに所帯やつれした古女房の「ため息=長嘆息」から生まれてきたわけではない。そういう「ながいき」は、近代社会のやや屈折した近代意識のひとつであり、心が異次元の世界の超出してゆくことができないで、現世に閉じ込められてしまっている。生き延びることが正義の近代の病理。古代人はそんなにも辛いなら「もう死んでもいい」という勢いでオイオイ泣いたのです。
何が「ながいき」か、笑わせるんじゃないよ、という話です。
基本的に古代の「なげき」は「オイオイ泣く」ことだったのであって、「長く息をする」ことだったのではない。
「オイオイ泣く」ことの描写は、古事記にたくさん出てくるじゃないですか、本居さん。