内田樹という迷惑・親族の構造3

ゴリラやオットセイの強いオスがハーレムをつくっているのは、メスに優秀な遺伝子を求める衝動があるからではない。そんな説は、頭の薄っぺらな生物学者が捏造した、たんなるおとぎ話か妄想のたぐいにすぎない。
インテリというのは、自分が優秀な遺伝子を持っているとうぬぼれている人種であり、現代の人間社会にも、そんなふうな思い込みが定着してしまっている。だから、「精子バンク」などという、なにやらわけのわからない商売が存在する。
種族維持の本能、だって?何をくだらないことを言ってやがる。そんなものは、学者という俗物の制度意識がつくり出した、ただの戯言にすぎない。
ゴリラやオットセイの社会はそういう「構造(=成りゆき)」になっている、というだけのことだ。ゴリラやオットセイのメスにとってもそれは「悲劇」に違いないわけで、人間だろうと動物だろうと、女(メス)というのは「悲劇」を受け容れてしまう傾向を持っている。
そういう構造がいかに生物学的に非生産的な形態かということは、彼らがすでに「絶滅危惧種」になっていることによって証明されている。
もしもゴリラが原初の人類のような乱婚社会を形成していたら、彼らに圧倒されて人類の発展などなかっただろう。
自然というのは生き物がちゃんと生き延びられるようなシステムになっている、と考えるのはおかしい。おまえら、考えることが短絡的過ぎるぞ。生き物はすべて死んでゆく・・・・・・すなわち「生き延びられない」のが「自然」なのだ。
ゴリラにとって、それが生き延びるための最善の選択だったのではない。そんなことをやっていたら生き延びる(子孫を増やす)のに不都合なのに、いつの間にかそんな社会の「構造」になってしまったのだ。
生き物に、生き延びようとする衝動などない。そんなスケベ根性を持っているのは、人間ばかりだ。
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夫婦の関係が親密な社会では、親子の関係が疎遠になる。母方の叔父と甥が親密な社会では、父と子の関係が疎遠になる。逆に父と子が親密であれば、母方の叔父と甥の関係は疎遠になる。そのように、親族間の親密か疎遠かの人間関係は、人間性の問題ではなく、社会の「構造」によって決定されている、とレヴィ=ストロースは言っている。
たしかにそうでしょう。ただレヴィ=ストロースは、そういう構造がつくられる原基を、男どうしが「女を交換する」という行為にあると説明している。そこから「親族」という概念がはじまっている、と。
つまり、こうです。
「ほとんどの親族体系において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受け取ったもののあいだに発生した始原の不均衡は、後続する世代においておこなわれる反対給付によって相殺されるしかない」
このような言い方に、僕は、ヨーロッパ的あるいは近代合理主義的思考の限界を感じる。
まず、「女を譲り渡した(=贈与)」という言い方が気に入らない。
そして「反対給付」、と言う。
どうしてそんな現代的貨幣経済的なタームをかんたんに使ってしまうのだろう。そのような言い方をするとき、彼は文明人の物差しで原始人や未開人を眺めている。自分を捨てきれていない。自分を捨てて、彼等の胸に飛び込んでいっていない。彼らを眺めているだけで、ひとまず彼らになりきってしまう、ということができてない。
原始人が「交換」という行為をするとき、「譲り渡す」という意識はない。「譲り渡された」という意識もない。
「交換する」という意識があっただけだ。
それは、「自分の持っているもの」を相手に「譲り渡した」のではない。たがいのあいだにある「空間」を確認し祝福していこうとしたのだ。それは、「自分の持っているもの」ではなく、「空間を祝福するための道具」だった。
人類の歴史は、かつて「所有」という概念を持たない時代があった。
「所有」の意識を持ったから「交換」をはじめたのではない。「交換」をしてゆくうちに、「所有」という概念に目覚めてきたのだ。
サッカー選手がユニフォームを交換し合うように、子供たちがお手玉やあや取りやめんこやコマ回しをするように、大人たちが将棋やチェスやトランプをするように、人間は「交換」することそれ自体に耽溺してゆく傾向を持っている。
このたがいのあいだに横たわる「空間」を祝福してゆこうとする態度こそ、人間性の基礎なのではないだろうか。
彼らは、「交換」というかたちで、たがいのあいだに横たわる「空間=関係」を祝福していったのだ。
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われわれは、一緒に暮らしている相手に対してはだんだん性衝動を持たなくなってゆく。それが、「家族」という空間である。
われわれの性衝動は、家族の外に向かう。家族の外に出て行ったときに体験する「出会いのときめき」によって性衝動が起きる。
原始人や未開人の男だって、一緒に暮らしてきた姉や妹や娘は、性衝動の対象ではない。
猿の社会だってそうだ。若い娘は、いったん集団の外に追い出されることが多い。
人間の男もまた、そうやって、姉や妹や娘を「家族」の外に追い出す。そして姉や妹や娘もまた、家の外に向かって「出会いのときめき」を求めてゆく。これが、ひとまず生き物としての基本的な習性である。
「家族」とは、そういう「運動」が起こる場所なのだ。
そして二つの家族において同時にそういう「運動」が起きれば、とうぜん「女を交換する」というかたちの関係が生まれてくる。
チンパンジーは「家族」を持たないし、人間のような「空間意識」も持っていないから、このような「交換」という現象が起きない。
内田氏の言うように「女に価値があったから」ではない。またレヴィ=ストロースが言うように、「女を譲り渡した」のでもない。
それは、そういう「構造=状況」において必然的に起きた純粋な「交換」という行為なのだ。
そうやって二つの家族(=二人の男)は、たがいのあいだの「空間=関係」を祝福しあった。
原始人の「交換」という行為を、内田氏やレヴィ=ストロースのように、自分たちの「価値」とか「所有」といった俗っぽい物差しで計るべきではない。
「女に価値がある」のでも「譲り渡した」のでもない。あくまで純粋に「交換」したのだ。
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母方の叔父が甥と仲良くするのは、甥の母という女を「父」という男に譲り渡した「貸し」を、父の所有物であるその息子(甥)と仲良くすることで返してもらう(=反対給付)、とレヴィ=ストロースは言っている。
レヴィ=ストロース先生、すくなくとも人類学のレベルにおいては、そんな「貸し借り」の問題じゃないのですよ。
叔父と甥が仲良くするのは、夫婦の関係が親密で父と子の関係が疎遠である社会(構造)においてのみ成り立っていることです。
父と子が親密な社会では、叔父と甥は疎遠になる。だったら叔父は、「母あるいは妻」という女を取られっぱなしだということになる。つまり、「反対給付」を受けていない。
親族において、「親密さ」と「疎遠」の対立的な二項の関係が、ある規則性のもとに存在する、とレヴィ=ストロースは言っているのです。
それはたしかにそうであろうが、しかしそれは、女を交換したことの「貸し借り」の問題ではない。フェミニストは、怒っていいのです。そんな俗っぽい問題ではないのだ。
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なぜそんな「親密さ」と「疎遠」の対立的な関係が生まれてくるのか。
「親密さ」も「疎遠」も、「三角関係」から生まれてくるものです。
親や世の中から禁じられた道ならぬ恋、つまり不倫の恋は、はげしく燃え上がる。そのはげしさは、三角関係の上から生まれている。
「三角関係」は、「親密さ」と「疎遠」の対立的な二項の関係を生み出す。
つまり「親族」とは、「三角関係」を生み出す集団である、ということです。
儒教社会の韓国では、親子のあいだに絶対服従ともいえるほどの親密な関係がつくられており、その反動できょうだいの関係に親密なまどろみが生まれにくい。親との関係ばかりが強調されて、きょうだいどうしが疎遠になってしまう。疎遠になると何が起こるかというと、「兄弟げんか」ではなく、兄と妹、姉と弟の「近親相姦」が多く起きてくることになる。たがいに相手を、「肉親」としてではなく、「男と女」として見てしまうようになる。そうして、「道ならぬ不倫の恋」に落ちる。
親族意識の強い韓国社会では、親族どうしがたがいに排除し合う意識も強い。
「家族」は、閉じてゆく集団である。家族のアイデンティティは、外部の「第三者」を排除してゆくことの上に成り立っている。親密さは第三者を排除することの上に生成している。そういう「家族」が集まって「親族」が形成され、さらに複雑な「三角関係」がつくられてゆく。
レヴィ=ストロースの言う「親密さと疎遠の対立的な二項関係」とは、「三角関係」の問題なのだ。
人類は、「家族」および「親族」を持ったことによって、第三者を排除するという「三角関係」の中に投げ入れられた。
内田氏およびレヴィ=ストロース先生、親族の「構造」とは、この「三角関係」のことだ。「価値」も「所有」も「贈与」も「反対給付」も関係ない。この「三角関係」のアラベスクを「構造」というのだ。あなたたちの思考は、西洋の近代合理主義に色濃く汚染されている。当の西洋人であるレヴィ=ストロース情状酌量の余地もあるが、内田さん、あなたの場合はただの猿真似なんだよ。
イカフライさん、これが、あなたの例の問いかけに対する僕の返信です。