都市集落の起源・「漂泊論B」56



縄文社会にはついに大きな集落は存在しなかった。
いったん大きくなりかけた三内丸山遺跡も、けっきょくは途中で解体遺棄されてしまった。
歴史的には、三内丸山遺跡の集落が存在したということよりも、それが解体遺棄されたということの方が重要なのだ。
なぜそうなったかといえば、階級制度がなく、それを維持しようとする機能がはたらいていなかったからだろう。確かなリーダー=支配者など存在せず、たんなる「なりゆき」で縄文時代のレベルにしてはちょいと大きな集落になっていただけのこと。
縄文人には、社会制度を整えて集団を維持し大きくしてゆこうとする意欲はなかった。そして、こんな社会が1万年も続いていたということが、現在まで続く「日本的なもの」の基礎になっている。
つまり縄文人は自我意識が希薄だったし、日本人はいまだにそういう傾向を残している。
縄文人は、山という自然に抱かれて自我が消えてゆくカタルシスを汲み上げながら暮らしていた。彼らの山との関係はとても深かった。そして弥生時代以降に山を下りて暮らすようになっても、日本人はずっと山を眺め山に対する親しみを抱き続けてきた。
日本文化も天皇制も原始神道も、縄文以来の山という自然に対する親しみの上に成り立っている。



弥生時代になって奈良盆地に人が集まってきたのは、そのたおやかな姿をした山なみの景観に魅せられたからだ。その噂が列島中に広がって人が集まってきた。人々は、その景観を前にして「もうここで死んでもいい」という感慨に浸っていった。
人間は、住みやすい土地だからそこに住み着くのではない。「もうここで死んでもいい」と思うから住み着くのだ。そうやって原始人は、地球の隅々まで、どんな住みにくいところにも住み着いていった。
弥生時代奈良盆地は、けっして住みよい場所ではなかった。それでも、たくさんの人が集まってきて、住み着いていった。
奈良盆地は、そのころの日本列島の聖地であり、最初の都市集落が生まれる場所になった。
彼らは、大きな集落をいとなむためのノウハウも意欲もなかった。日本列島の住民はもともとそういう民族であり、ただもう「なりゆき」まかせにいとなまれていった。
そこは、経済的な理由や政治的な理由で生まれてきた集落ではなかった。そのころの日本列島に、政治や経済という問題は存在しなかった。
そういう問題が存在しなかったから、住みにくくてもそこに住み着いていったのだ。
ただただ「もうここで死んでもいい」というカタルシスの感慨があったのであり、そういう感慨が集まった祝祭のダイナミズムが生まれてくる場所だった。
奈良盆地に都市集落が生まれてきた契機は、祝祭のダイナミズムにあった。
もともと人類は、祝祭のダイナミズムで地球の隅々まで拡散していったのだ。
祝祭がなければ人は生きられない。生きてあることは、ひとつのお祭りなのだ。



しかし、政治や経済のノウハウも意欲も持たない人々がそこで大きな集団をいとなんでゆくのは、けっしてかんたんなことではなかっただろう。いろんなぎくしゃくした問題が起こってきたことだろう。
それでもみんなで語り合い、なんとか「なりゆき」でやり過ごしていった。
言い換えれば、「なりゆき」でやり過ごすことにかけては、縄文時代1万年の伝統を持っていた。
最初の祭りは、一か所に集まったその大きな集落で暮らしていれば、男たちはいろんな女の家を訪ね歩くことができたし、女たちにもいろんな男が訪ねてくる楽しみが増えたことにある。
そうして、誰もがその大きな集落の一員である自覚が生まれてきた。その自覚さえ共有していれば、たいていのトラブルはやり過ごすことができる。
その場の誰もが「もうここで死んでもいい」という感慨を共有してゆくこと、この祝祭性が、縄文時代いらい日本列島の住民が培ってきて集団性の流儀だった。
山という自然は、世界は「いまここ」で完結している、という感慨を人に抱かせる。そういう感慨を1万年以上抱いて歴史を歩んできた人々だったのだ。奈良盆地に暮らせば、誰もがすでにそういう感慨になっている。まずそのようにして人と人が親密になっている場所だった。
支配者(リーダー)がいて山に対する信仰をつくってみんなをまとめていったのではない、すでにみんなが山に対する親密な感慨を抱いていたから、その感慨をもとにしてまとまっていった。つまり、リーダーなんかいなくてもまとまってゆける状況がすでにあった。
まとまるために山を信仰していったのではない。すでにまとまっていることの証しとして後世になって山を信仰していった。
そこは、知っているものどうしの集落が大きくなっていったのではない。知らないものどうしが集まってたがいに親密になってゆくダイナミズムがあった。
言い換えれば、知っているものどうしの集団は、それ以上大きくならないで、むしろ閉じようとする力がはたらいている。
知らないものどうしが集まってきたから、大きな集団になってゆくことができた。
日本列島には、知らないものどうしが親密になってゆく文化風土がある。それは、山に対する感慨を共有している歴史を歩んできたからだ。そこから「袖すり合うも他生の縁」ということわざが生まれてきた。
知らないものどうしがどんな政治もなく集団になってゆくことができる文化風土が、縄文時代1万年の歴史ですでにつくられていたのだ。
縄文時代に大きな都市集落はなかったのだから、とうぜん政治意識や階級意識は育たなかった。しかし、知らないものどうしが親密になってゆく文化が洗練していった。
大陸のように、知らないものどうしが腹の探り合いをして駆け引きしたり争ったりしてゆく文化ではない。ただもう無邪気に山という自然に対する感慨を共有してゆく文化だ。
知らないものどうしの集団でも「なりゆき」でなんとかなってゆくトレーニングを1万年続けてきたのだ。
そういう人々だったのだもの、弥生時代に支配者などいなかった。
その代わり、集団が結束していられるための「象徴=形代(かたしろ)」としてのカリスマがいた。おそらく、そのようにして天皇が生まれてきた。



奈良盆地の古い集落は、ほとんどが小高い場所の一角に寄り集まるようにつくられている。
縄文時代の晩期から弥生時代にかけて、湿地帯だったその地の浮島ようになっている狭い台地に人々が住み着いていったのだろう。
そのとき、遠い昔から一緒に暮らしてきた仲間どうしではなかった。彼らは「先祖」を共有していなかったし、そもそも「先祖」という意識がなかった。それぞれ違う場所からそこに集まってきたものたちだった。
日本列島の集団性の基礎は、「出自=先祖」を共有しているという意識ではなく、知らないものどうしが寄り集まってくることの「出会いのときめき」にある。
まあ、海に囲まれた島の単独民族だからかもしれない。「出自=先祖」を共有していることなど当たり前すぎて意味がなかったともいえる。古代以前は、そういうことにアイデンティティを見い出す人々ではなかった。
この国では、「われわれは日本人である」ということにアイデンティティを見い出す意識は薄い。それはわれわれの当たり前すぎる「与件」であり、むしろそのことの鬱陶しさを嘆き、そのことの限界が気になる民族である。
他の民族との軋轢を知らないから、日本人であることにアイデンティティを見い出す意識が育たなかった。だから国歌や国旗に対する親密感が持てず、そんなものを押し付けられると、むしろ鬱陶しさの方が先立ってしまう。
古代以前の日本列島の住民は、「出自=先祖」を共有していることの安心や満足ではなく、知らないものどうしが寄り集まってくる「出会いのときめき」によって集団をいとなんでいった。



奈良盆地の浮島の集落は、「寄り集まってきた」ということの「出会いのときめき」によって成り立っていた。
三輪山のふもとの纏向遺跡は、いまのところ集落跡は見つかっていない。どうやらそこは、周囲の集落から人々が集まってくる祝祭の場であったらしい。彼らは、そのような場をとても大切にした。それを「市(いち)」といった。
「いち」の「ち」は「血」の「ち」、「ほとばしり出るもの」というような意味。「ちぇっ」という言葉=音声は、ほとばしり出る感情の表出である。
「い」は、やまとことばにおいて「強調」の機能として使われている。
「市(いち)」は、人がほとばしり出る場であり、「出会いのときめき」という高揚感がほとばしり出る場である。
ほとばしり出る、すなわち「出現」すること。彼らは、この世界は出現するものだと思っていた。
古事記においても、神は混沌の世界から出現した、と記述されている。この際その神がどのような神であったかということはどうでもよい。なにしろ縄文・弥生時代には、そのような世界をつくった「神」という概念そのものが存在しなかった。
ここで重要なのは彼らがこの世界を「出現するもの」としてイメージしていたということであり、それは、人が寄り集まってくる「出会いのときめき」が豊かに起きている社会だった、ということだ。そういう生活感情の上に成り立っている社会だった。
そういう「祝祭」の上に成り立った社会だった。
その「祝祭」には、何が大切だったのか。
彼らは神がこの世界をつくったとも思っていなかったから、「神のありがたさ」などという意識もなかった。そんなことのために祝祭を催したのではない。ただもう人と出会うことの「ときめき」を体験したかったからだ。神ではなく、ただもう純粋に山という自然との出会いのときめきを体験したからだ。
彼らが共有しているのは、ただもう奈良盆地の山という自然に対する親密な感慨だけだった。
ただもう、山という自然に対する親密な感慨の表出として歌い踊り、そして語り合ったりセックスをしたり物を交換したりしていったのだ。
余談だが、物を交換するといっても、まったく性格の違うものを交換するのだから、「等価」であるという意識など持ちようがない。ただもう「交換する」ということがしたかっただけである。
起源としての「交換」は、祭りの高揚感から生まれてきた。「等価」であると認識したのではない。ただもう「交換」したかっただけなのだ。まあ、ペニスとヴァギナのセックスみたいな行為だったのだ。
人間は、等価ではないものを交換し合う生き物である。だからこそ「貨幣」が生まれてきた。原理的に、貨幣と物が等価であるはずがないではないか。それは、「等価」という「経済」ではなく、価値を消去した「祝祭」なのだ。人類の物々交換は、そのようにしてはじまっているし、それが「交換」ということの本質なのだ。「等価交換」が本質であるのではない。
弥生時代奈良盆地では、人が集まってくる祝祭の場(=市)がとても活発だった。
もともと人が集まってきて生まれた都市集落だったのだ。そしてこの都市集落は、支配者もいない「なりゆき」まかせの「祝祭」でいとなまれていた。



縄文時代弥生時代は、人が集まってくる場をつくるのが好きだった。その祝祭性が、彼らを生かしていた。
弥生人は、農業をはじめても、豊作祈願などしなかった。彼らは、何かをしてくれる「神」という概念を持たなかった。そのようなことをはじめたのは、大和朝廷が生まれて仏教が輸入されたりしてからのことだ。
原始神道には、神に願いごとをするというようなコンセプトはない。ただもう、人が集まってくることの祝祭があっただけだ。
纏向遺跡では大きな社殿がつくられていたそうだが、それはおそらく、誰かが三輪山を背にして歌い踊って見せる舞台だったのだろう。あるいは、そこでみんなして歌い踊った。
一般的に、卑弥呼というと、何かカルト宗教の教祖様のようにイメージされているが、そうではなく、歌や踊りのエキスパートだったのだろう。
卑弥呼が実在したかどうかはともかく、そういうカリスマ的な歌や踊りのエキスパートはいたにちがいない。
魏志倭人伝では「鬼道」とかといって、卑弥呼をあやしげな呪術師のように書いているが、おそらくそのころの日本列島には呪術などというものはなかった。ただただ、歌ったり踊ったりしてよろこんでいるだけのおかしな民族だったのだ。
彼らには、神に何かを願うというような発想はなかった。心配なことは、主に日常の人間関係のトラブルだけであり、みんなが仲良くなれればそれでよかった。
何が欲しいわけでもないが、物事が終わらないことほどやっかいなこともない。人間の根源的な願いは「終わる」ということにある。彼らにはそういう願いがとても切実だったのであり、そこからは豊作祈願の発想は生まれてきようがない。
この世の中には、びっくりするくらい欲の深い人間もいれば、信じられないくらい欲のない人もいる。かんたんに現代人の物差しで古代人を決めつけるべきではない。
おまえらのその俗物根性が人類の普遍だといわれても、納得できない。
彼らは、稲の作柄のことや疫病のことなどはもう、「なりゆき」にまかせるしかないと決めていた。
人間はそんな受動的な存在ではない、という人もいようが、人間はいざとなると思った以上に受動的になってしまえる存在なのである。縄文人弥生人のそういう受動性は、われわれの心の中にも流れている。
それはもう純粋に、山に対する親密な感慨の表出であると同時に、みんながここに集まってきていることを祝う歌や踊りだった。豊作祈願や厄除祈願だったのではない。
人類は「なりゆき」にまかせる心をだんだん失っていった。それはもうしょうがないとしても、とにかく人々がそういう心で生きていた時代はたしかにあったのだ。



とにかく、みんなで仲良くやっていければそれでいいというお気楽な人々だったのだ。しかしだからこそ奈良盆地は、いち早く大きな都市集落になっていった。その方が、階級をつくって権力争いや順位争いをしたりしているような社会よりもずっと効率的なのだ。それに、豊作祈願をしたからといって、豊作になるわけではない。そんなことは、みんなで気持ちよくまじめにはたらくことでしか解決されない。
たとえば、あのバブルの時代に日本企業が世界に対してひとり勝ちしたのは終身雇用制という共産主義的な平等のシステムがあったからだとよくいわれるのだが、それだってまあ、みんなで仲良くやっていければそれでいいというこの国の伝統だったのだろう。
宗教は、原始時代からあったのではない。はじめにあったのは、祝祭であり娯楽なのだ。そういう原始的な祝祭性とお気楽な「なりゆきまかせ」の心の動きをいつまでも引きずっているのが、われわれ日本列島の伝統なのだ。
その、社殿で歌い踊ってくれるカリスマは、みんなで仲良くやってゆくための大切な「形代(かたしろ)」だった。その人さえいてくれればいい、と思った。農作業や暮らしのことは、そのつどみんなでああでもないこうでもないと話し合っていればなんとかなっていった。
そのカリスマが、天皇という存在になっていった。そのカリスマは、政治もしなかったし呪術もしなかった。ただもう奈良盆地の人々が共有している「愛する人」だっただけだ。
階級が生まれ政治が必要になってきたのは、そのずっとあとになってからのことだ。
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