都市集落の発生・「漂泊論B」55



都市とは、人が集まってくる場所のことである。
弥生時代は、大きな集団で暮らしたことのない人々が大きな集団で暮らすようになっていった時代であるが、それは一か所に人が集まってくるということが起きたからであって、もともとあった集落が人口爆発とともに大きくなっていったのではない。
そのころの人々に、大きな集落をつくって運営してゆこうというような意欲はなかった。
いつのまにか大きな集落が生まれていたのだ。そして彼らには、大きな集落をいとなむノウハウも意欲もなかった。
縄文時代の小さな集落がそのままだんだん大きくなっていったのではない。彼らは、小さな集落を大きくしてゆくという意識を持たない人々だった。だから縄文時代は、いつまでたっても共同体(国家)を持つことなく1万年も続いた。
山で暮らしていた人々が盆地という新しい場所に集まってきて、気がついたら大きな集落になっていたのだ。
縄文時代のあいだに少しずつそういう共同体の意識になっていって共同体が生まれてきたのではない。
そういう意識になってゆかないのが縄文時代だったのだ。
そのころ、地球気候の寒冷乾燥化によって山間地に住めなくなり、そのかわりに平地の湿地帯が干上がって住めるようになってきた……ということがなければ、そういう時代の変化は起きなかった。
彼らは、共同体をいとなんでゆくための制度も意識も持っていなかった。
しかし「なりゆきまかせ」が縄文以来の日本列島の伝統であり、「なりゆきまかせ」でこの新しい事態の中に入っていった。
日本列島の住民は、新しい状況をつくろうとする意欲は希薄だが、新しい状況をあんがい素直に受け入れてゆく。
「なりゆきまかせ」ということは、作為性が希薄だということである。
共同体(都市集落)をつくろうという意識になっていって共同体(都市集落)が生まれてきたのではない。
気がついたらそこに共同体(都市集落)があった。
だから、そのとき、そこまで導いてきたリーダーがいたわけではない。
ひとりが命令を下してみんながそれにしたがう、という習慣はなかった。その集団の運営は、そのつど寄り集まって語り合い、なんとなくの「なりゆき」で話が決まっていった。
われわれは、リーダーが統率するという文化の伝統を持っていない民族なのだ。そういう文化を持っていたら、「なりゆき」の文化にはならない。
誰かが決めるのではなく、全体の「なりゆき」でなんとなく決まってゆく……おそらくそのようにして弥生時代の集団のいとなみがはじまった。
みんなでああでもないこうでもないと語り合っていれば、いずれ話は落ち着くところに落ち着く。そんなことをしていたら話は永久に決まらない、などとは、誰も思わなかった。いずれ落ち着くところに落ち着く文化だったのだ。
縄文以来の「終わる」という文化。「永遠」を思わない文化だったのだ。誰もが「終わり」を意識しているから、必ず落ち着くところに落ち着いてゆく。納得しようとしまいと、「終わる」ことはもっとめでたいのだ。
正しい結論を得ることよりも、話を終わらせることの方がもっとめでたいのだ。
何が正しいかなんてわからない。正しいと思っていても、あとになって間違っていたと気づくこともある。いいかげんに決めたことでも、それが正解だったとほっとすることもある。悪い結果になっても、「しょうがない」とあきらめればいいだけのことだ。
日本列島の村の寄り合いなんか、ずっとこの流儀でやってきたのだ。
今でもそうなら、弥生時代はもっとそんなふうだったことだろう。そのようにして日本列島の集団の運営の歴史がはじまった。



リーダーなんかいなかった。烏合の衆の集まりからはじまったのだ。しかしそれでもなんとなく決まってゆくところに、日本的な話し合いの妙がある。それは、誰もが「終わり」の意識を持っているからだ。
おそらく、集団をどのように導くかというような建設的な話は何もなかった。「なりゆき」の文化なのだから、そんな話が生まれてくるはずがない。ただもう、そのつど起こってくるやっかいなことをどう処理するかという話し合いばかりだった。
そこには、みんなの話をまとめるのが上手なものはいたかもしれないが、みんなの代わりに決断を下すリーダーはいなかった。
だから、伝統的に日本列島のリーダーは責任を取らない。イギリスの「ジョンブル魂」などという文化とは根底が違うのだ。べつにイギリスがえらいわけでもないし、イギリスが正解だともかぎらない。
まあ、責任を取らなくてもいいから、自分の考えを下に押し付けることもするな、ということはあるかもしれない、天皇のように。
弥生時代は、リーダーがいないところからはじまった。
縄文時代にも階層はあったというような歴史解釈もあるがそんなことは嘘で、階層があれば、とっくに共同体があらわれている。
したがって弥生時代のはじめにも、階層などというものはなかった。その代わり、天皇のようなカリスマが生まれていった。そのカリスマがいれば、「なりゆき」の話し合いでも落ち着くところに落ち着いていった。そのカリスマは、「終わる」ということの象徴だった。
「終わり」の意識さえ持っていれば、話は落ち着くところに落ち着いていった。
階層などなくても集団を運営できる「形代(かたしろ)=身がわり」として、天皇のようなカリスマが生まれてきた。
そのカリスマのもとでは、みんな平等だった。みんな平等だからこそ、後世には「天皇だけは神だ」という合意が生まれてくることになる。
そのカリスマは、リーダーではなかった。リーダーなどいなくても「なりゆき」で集団を運営するための「形代=身がわり」的な存在だった。
われわれは、リーダーよりもカリスマの方が好きな民族なのだ。いや、人間なんか、つまるところ普遍的にそういう存在であるのかもしれない。



左翼的な知識人のあいだでは「天皇制は差別の元凶である」などとよくいわれるのだが、本質的には天皇はそのように機能している存在ではない。天皇は神だということは、われわれはみなただの人間にすぎないということであり、もともとは階層などなくても集団を運営できるための存在として、人々から祀り上げられていったのだ。
天皇は、「王」ではない。弥生時代に権力者などいなかった。権力者がいない平等で「なりゆき」まかせの社会の「いけにえ」として、天皇というカリスマが祀り上げられていったのだ。
日本列島は、祀り上げる社会である。
縄文時代は、山という自然を祀り上げた。ここからはじまっている。
なぜ「まつる」というのだろう。
「ま」は「まったり」の「ま」、「充足」の語義。「つ」は「着く」の「つ」、「到達」「接着」の語義。「まつ」とは、充足にたどり着くこと。「待つ」は、充足にたどり着こうとしている状態である。
そしてこの場合の「充足」とは「終わることの充足」である。終わりの充足にたどり着こうとしていることを「まつる」という。
だから、着物の裾を縫うことを「まつる」という。
「まつる」というやまとことばに込められた感慨とは、終わりの充足が胸に満ちてくること、すなわち「もう死んでもいい」というカタルシス(浄化作用)を汲み上げること、これが語源であろう。
われわれはふだんの暮らしで、何が欲しいとかあれよりもこれがいいとかあれはいやだとか、まあさまざまによけいな気持ちをはたらかせ続けている。そういうわずらわしい心の動き(生活感情)を全部「終わり」にして「もう死んでもいい」というカタルシスを汲み上げてゆくことを「まつる」という。
弥生時代における天皇のような存在であったカリスマとは、階層意識とか差別感情などが起こってくることを「どうでもいい」という思いにさせてくれる存在だったのであり、そういう存在がいたということは階層意識も差別感情もなかった、ということを意味している。



天皇は、その存在の本質においては「差別の温床」ではない。差別がないことの形代として生まれてきた存在なのだ。
弥生時代のはじめにおいて、人々が一か所に集まってくるという動きが起きたが、その時点ではまだ「階層」などというものは存在しなかった。日本列島の住民はそこから集団を運営するということをはじめ、そういう癖がついてしまったから、いまだに「なりゆき」を生きる民族であるほかないのだ。
もともと天皇制は、階層意識や差別感情を生み出さないシステムとして機能していた。民衆自身が勝手に階層や差別を生み出しておいて、その元凶を天皇に負わせようとするなんてお門違いもいいところである。
天皇は、あれがいいとか悪いというようなことはいわない。そんな天皇をほったらかしにしてあれがいいとか悪いと騒ぎ立てている民衆自身が勝手に階層や差別を生み出してきた。
まあ天皇はそうした民衆の差別感情をも許している存在ではあるが、天皇自身が差別をしているのではない。
したがって、天皇制を廃止しても差別がなくなるわけではない。
たとえば、何が正義か悪かとか、幸せな人生か不幸な人生かとか、清潔か不潔かとか、死んだら天国に行くとか地獄に堕ちるとか、そんな儒教的あるいは近代合理主義的思考こそが差別の温床になっているのであって、べつに天皇の責任でもなんでもない。
外国に差別がないわけではあるまい。外国の方がもっとひどいという側面もある。もしも天皇制をなくしたら、無原則の「なりゆき」の国民性で、外国よりももっとひどい差別を平気でするようになるかもしれない。
けっきょく、自分が無傷で清潔な正義の側にいる存在だと思っているところから差別が生まれてくるのだろうし、それは天皇の責任ではない。
ともあれ、弥生時代は「階層・階級」のないところから集団のいとなみをはじめた……これが「日本的なもの」の原点であり、このことを確認しておきたい。
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<付記>
今回の選挙で「自分が無傷で清潔な正義の側にいる存在だと思っている」戦後市民主義の政党である民主党社民党未来の党が惨敗したのは、そうした戦後市民主義そのものに国民が幻滅したからだろう。原発反対を標榜しても、それだけで誰もが踊るということにはならない。
かといっても、極右の維新の会も勝てなかった。維新の会や石原慎太郎がしゃしゃり出てきてくれたおかげで、自民党がなんだか第三極の中道政党のようなイメージになり、それで得をしたのだろう。
だから、阿倍さんも、自分の右翼思想が支持されたなどと思わない方がいい。
われわれはやっぱり、国家も国歌も国旗も、いまいち好きにはなれない民族であり、オリンピックの表彰台に国旗が上がるのはよろこべても、個人の家や学校や役所に国旗が上がっているのはなんだか気味悪いのだ。
われわれは、戦時中の国粋主義も、戦後の市民主義も、信じない。
君が代」だなんて、何を世迷いごとをいっているのだろう。この国はわれわれのものであって、天皇のものではない。そして、天皇はわれわれのものであって、われわれが天皇のものであるのではない。そのようにしてこの国の天皇弥生時代末期の奈良盆地で生まれてきた。
誰もが天皇を好きだといっても、国家や国歌や国旗が好きなわけではない。正しかろうと清潔だろうと、権力者そのものが好きじゃないのだ。好きなのは、天皇ひとりでじゅうぶんなのだ。
われわれは、べつに自民党を支持したわけではない。自民党も、支持された、といい気にならない方がいい。いい権力だろうと悪い権力だろうと、われわれはいつだって「しょうがない」と思って受け入れてきただけである。
「支持政党なし」の層が増え続けているのは、新しい風潮なのではない。それこそがこの国の伝統であり、われわれはもともとそういう民族なのだ。
この国の伝統においては、政党を支持するということ自体が錯乱なのだ。
現在の日本列島の住民は、国粋主義者にも戦後市民主義の信奉者にもなれない。この国は、どこに行こうとしているのだろうか。
まあ、なるようになる。
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