俗世間の発生と舞の家・「漂泊論B」58



日本的な舞の起源は、この世界の孤立した存在として山の自然に溶けて消えてゆく作法にあった。
そういう「孤立性」を共有しながら原初の集団が成り立っていた。
原始神道の巫女に処女の娘が選ばれたということは、そういう身体の「孤立性」が問題にされたのであって、根源的にはセックスの経験がどうのという問題ではない。
弥生時代の「処女」という概念は、おそらく「初潮がまだ始まっていない」という意味であって、セックスの経験のことをいったのではない。処女=おとめ、これを万葉仮名で「未通女」と書いたりする。この「未通」とは、男のペニスが通過したかどうかということではなく、「血の道」がまだ通っていない、というようなニュアンスだったのだろう。原初の乱交社会では、セックスの経験を問うような価値観の意識はなかった。
そのとき「処女」は、身体の「孤立性」のメタファーだった。
人間存在の根源は、身体の「孤立性」の上に成り立っている。その「孤立性」を共有しながらわれわれは集団をつくっている。集団の中に置かれてあるからこそ、身体の「孤立性」がより確かにひりひりと感じられ、それがカタルシス(浄化作用)になる。
人間は集団を大きくしようとする衝動を持っている存在であるのではない。縄文時代が一万年も続いたことは、そういうことを証明している。しかし同時に人間は、集団が大きくなってゆくことを受け入れる存在でもある。なぜなら、そこから身体の「孤立性」を実感するカタルシスを体験するからだ。そのようにして、弥生時代がはじまっていった。
その「孤立性」を体現する存在として処女の巫女という舞の名手が生まれてきて、それがやがて「天皇」という存在があらわれてくる基盤になっていった。



天皇は、古代の奈良盆地の人々の結束を保証する存在であると同時に、身体の「孤立性」をもっとも確かに体現している存在でもあった。だから後世には、人間ではない存在の「神」になっていった。
天皇尊いお方である、というとき、われわれは、天皇が体現している身体の「孤立性」をイメージしている。
人間は身体の「孤立性」を生きる存在だから、天皇がいつの間にか「神」になってしまったのだ。
そして共同体を持たない縄文時代一万年の歴史を生きてきた人々は、世界でもことに身体の「孤立性」を意識している存在だった。
弥生時代は大陸の影響の上に成り立っている時代だった、と一般的には大雑把に規定されてしまっているが、その時代から天皇という特異で日本的な存在が生まれてきたということは、ただ大陸の影響というだけではすまないのである。
人々の意識は、あくまで縄文以来1万年の歴史の上に動いていた。



初期の天皇家は、おそらく「舞の家」だった。
弥生時代の舞の名手の巫女が、やがて大人の女になって子を産み、その子がまた舞の名手になり、ということが繰り返されてゆくうちに「天皇家=舞の家」が生まれてきたのだろう。
もともと日本列島は女系家族だったのだから、自然な流れだったにちがいない。
最初は、いくつかの集落のネットワークによる数百人くらいの集団だったのかもしれない。
彼らは、みんなが集まってくるお祭り広場を持っていた。そこに神社の社殿のような建物を舞台として建て、舞の名手である巫女が舞って見せる習俗が生まれていった。
弥生時代の初期は、みんなで働いて自給自足で暮らしていた。しかし「天皇家=舞の家」だけは、みんなで暮らしの面倒を見て、働かせなかった。
働かないで贅沢して暮らしている家から舞の名手の娘が育ってくることをやがて気づいていった。その家を贅沢して暮らさせることが、人々の働く張り合いになっていった。
つまり、その家のものたちに「俗世間の垢」をしみつかせてはいけないのだ。
言い換えれば、大きな集団になってきて、人々が「俗世間の垢」がしみつく「けがれ」を自覚しはじめた時代だった。
そのようにして「俗世間の垢=けがれ」がしみついていない存在に魅了される心が生まれてきた。そういう存在がこの世にいることが、人々の生を支えていた。
だから、その舞の名手の巫女は、精進潔斎してけがれをそそいでから舞台に上がることにしていた。そのようにして、巫女や神官の白い衣装が生まれてきた。
日本列島の住民は、とても「けがれ」を意識する。それは、縄文時代一万年の山の暮らしから生まれ育ってきたものであり、そこから盆地に下りてきていきなり大きな集団の暮らしをはじめたから、とまどいつつさらに強く「けがれ」を意識していった。
人々の「けがれ」をそそぐ問題(=みそぎ)として、天皇制が生まれてきた。
天皇は、支配者として生まれてきたのではない。人々の「みそぎ」の「形代(かたしろ)」として、人々に祀り上げられていった存在なのだ。



弥生時代初期の奈良盆地は、ほとんどが湿地帯だった。だからそこは、もともとたくさんの人が住んでいる地域ではなかった。しかし弥生時代になって気候が乾燥寒冷化して、その湿地帯がしだいに干上がっていった。そうして、あちこちに浮島のような台地が生まれてきた。で、奈良盆地の周辺からたくさんの人がやってきて、その台地に、それぞれ寄り集まるように小さな集落をつくっていた。
いきなり一か所に大集落が形成されていったのではない。
しかし小集落は縄文以来の伝統であり、そういう条件の方がかえってなじみやすかったのだろう。
そしてそれぞれの小集落は完結できないから、集落どうしのネットワークをつくってゆくことになる。ひとつの集落内では、男女の婚姻関係も農業をするための土木工事も成り立たない。
とくに稲作の水田をつくってゆくことは、湿地を干拓したり水路を引いたりと、それなりに大掛かりな土木工事になるし、集落間の連携も必要になってくる。
そのようにして、いくつかの小集落が、ひとつの集団としてのネットワークを形成していった。
しかし小集落は完結していないのだから、支配者もいない。彼らは、支配者のいない小集落で暮らしながら、集落どうしのネットワークをつくっていった。
したがってそのネットワークの上に立つ支配者もいなかった。彼らは、支配者が存在しない「なりゆきまかせ」の連携しか知らなかった。
ただ、みんなで祀り上げる「舞の家」があっただけである。
ふだんの暮らしの基盤はあくまで支配者のいない小集落にあり、誰も、支配者が支配する社会をイメージすることはできなかった。
支配者のいなかった縄文時代1万年の伝統が、そうかんたんに帳消しになるはずがない。彼らは、支配者が生まれてくるような社会意識を持っていなかった。日本列島の住民がそこから支配と被支配の関係の共同体(国家)のもとでの暮らしに移行してゆくには、それなりに短くはないトレーニングの期間はあったはずである。それが、弥生時代ではないだろうか。
そういう制度的な関係を知らないものたちのところにいきなり支配者がやってきて統治することは不可能なのである。支配される側にも支配されることの作法と醍醐味を知っていなければ成り立たない。
かつて南北アメリカの新大陸に移住していったヨーロッパの白人たちが、そこで原住民に対してどれほど残虐な殺戮のかぎりをつくしたことか。それは、支配することが不可能な相手だったからだ。
そんなもの、殺すよりも支配してこき使った方がいいに決まっているのだが、そう思うようにはいかなかった。



そのとき奈良盆地弥生人は、支配することの醍醐味も支配されることの醍醐味も知らなかった。
異民族との緊張関係に置かれていれば、自然に集団は結束してゆく。そういう閉じようとする力がはたらく。支配するとは集団を閉じさせることであり、支配される側にも閉じてゆくことの安堵や充足がある。そのようにして、集団を閉じようとするはたらきとして支配と被支配の関係や階級が生まれてくるのだろう。
集団どうしの緊張関係から、階級が生まれてくる。農業をして生産力が上がれば持つものと持たざるものという階級が生まれてくるとか、そんな単純なことではない。
弥生時代初期の奈良盆地の、その浮島のような台地の小集落には、まわりが湿地帯という緩衝地帯になっていて、他の小集落との緊張関係はなかった。むしろ自分たちの小集落だけでは完結できず、他の小集落と連携してゆく必要があった。閉じて完結していたら、連携なんかできない。だからその小集落には、支配者も階級も存在しなかった。
彼らは、小集落の停滞感と完結できないもどかしさから、小集落どうしが連携する大きな集団のダイナミズムと混乱の中に飛び込んでいった。
そうして、その小集落の暮らしの「けがれ」をそそいでゆく「みそぎ」のカタルシスに目覚めていった。
支配と被支配という関係を知らない彼らが連携して大きな集団をいとなんでゆくいとなみを支えていたのは、「みそぎ」のカタルシスだった。このことを、バカにしちゃいけない。人間が二本の足で立っていることはひとつの「けがれ」であり、そこから歩いてゆくことは、いわば「みそぎ」の行為なのだ。
「みそぎ」のカタルシスこそ、人間の生のいとなみの普遍であり根源なのだ。
弥生時代奈良盆地の小集落どうしがネットワークをつくりながらしだいに大きな都市集落を形成していった過程は、まさに原初の人類が二本の足で立ち上がって歩いていった過程と同じであり、それは「みそぎ」のカタルシスを汲み上げてゆくいとなみだった。
で、そこから天皇家の起源となる「舞の家」を「みそぎの形代」として祀り上げていった。



日本列島に天皇という存在が生まれてきたということは、弥生時代奈良盆地に支配者などいなかったことを意味する。支配者がいなかったから、支配者がいなくても大きな集団をやりくりしてゆくための天皇のような存在を祀り上げてゆく必要があったのだ。
ただ、最初のわずかな数の集落の集まりがやがてその倍になり3倍になりというふうにふくらんでゆけば、とうぜん「舞の家」も複数になってくる。そうしてその複数の「舞の家」が一か所に集まってひとつの集落を形成するようになり、そこからひとりのカリスマが生まれてくるというかたちになっていった。
この集落は働かない集団だから、全体からは隔離された存在の集落になってゆく。いわば、神の集落なのだ。そうして神どうしの近親相姦で純化してゆく。神以外のものと婚姻関係を結んだものは、神の集落から出てゆく。現在でも、つい最近までは、皇族は平民とは結婚しない習わしになっていた。
原始神道の、巫女は神と契りを交わす存在であるというのも、このような習俗から生まれてきたのだろう。
贅沢させて、純粋培養で舞の名手の巫女を育てていったのだ。
天皇は、支配者としてあらわれてきたのではない。支配者などいない社会からあらわれてきたのだ。



日本列島の住民には、天皇は「別世界」の住人であるという意識が抜きがたくある。この国の歴代の支配者たちがどうしても天皇になれなかったのは、そういう意識が壁となって立ちはだかっているのかもしれない。
支配者=王は、民衆と同じ「俗世間」の住人である。天皇になることは、支配者であることを放棄することなのだ。
天皇は、「俗世間」ではない「別世界」の住人である。われわれと天皇は、支配と被支配の関係で分かたれてあるのではない。その起源である弥生時代においては生産活動をするかしないかの関係であり、天皇とは俗世間の垢にまみれていない存在だった。
弥生時代とは、「俗世間」が発見されていった時代だった。縄文時代の1万年には「俗世間」が存在しなかった。そういう人々が、弥生時代になって、俗世間すなわち共同体(国家)、すなわち「くに」を見い出していった。
やまとことばの「くに」は、俗世間の垢にまみれることの鬱陶しさから生まれてきた言葉である。
日本列島の住民は、俗世間の垢にまみれることの「けがれ」をとても意識している民族であり、その意識が天皇制を現在まで生き残らせてきた。
俗世間に垢にまみれないで育つことがアドバンテージになる場合があるとすれば、それは芸事の世界だろう。そしてそんな育ち方をすれば政治的には無能になってしまうに決まっている。



まあ、弥生時代奈良盆地の人々の誰もが政治的には無能だったのだろう。
日本人が政治の世界を知ったのは、大和朝廷ができて大陸から帰化人が入ってきてからのことではないだろうか。
しかし大和朝廷がいつごろからできたかということも、じつはわかっていない。弥生時代後期の纏向遺跡大和朝廷だという人もいれば、仏教や文字を輸入した6世紀ころからだといっている歴史家もいる。つまり、そのころになって日本列島でも本格的に政治が意識されるようになってきた。
僕は、3世紀ころまでの弥生時代奈良盆地に政治などというものはなかったと考えている。彼らは、ただもうお祭り好きのお気楽な人々だったのだ。
しかし、天皇家の起源である「舞の家」はあった。
天皇家は、政治的な存在である「支配者」として奈良盆地に登場してきたのではない。ただの「舞の家」であり「舞の神?の家」だったのだ。
政治的には無能の血筋なのだ。しかし、俗世間の垢がしみついていない「神?のような存在」の血筋でもある。
俗にいう、支配者として朝鮮半島からやってきたとか九州からやってきたとか、「もうそんな話はやめてくれよ」と思う。
「政治」や「支配」のことなど、どうでもいいのだ。
弥生時代は「俗世間」が意識されていった時代だった。その俗世間の垢にまみれることの「けがれ」をどう克服してゆくかということこそ、弥生時代奈良盆地の人々にとってのもっとも切実な問題だった。



共同体を持たない縄文時代1万年の歴史を生きてきたのだから、奈良盆地都市国家の集団の中に置かれることは、どうしてもしんどい思いがともなう。
彼らは、湿地の中の浮島の台地につくられた小集落の生活を基礎に持っていたから、他の集落との関係はけっしてかんたんではなかった。と同時に、自分たちだけでは完結できないから、他の集落と連携しようとする意欲も旺盛だった。
それは、縄文時代の山の小集落の女たちが旅をする男たちの集団を歓待していった関係の延長でもあった。そのようにして他の集落との連携を育てていった。
西洋では、まず「都市」という集団があってそこで完結し、他の都市とは隔絶して歴史を歩んできた。
それに対して奈良盆地は、まず完結できない村とか字(あざ)という小集落をつくり、小集落どうしの連携で暮らしを成り立たせてゆく流儀だった。
西洋の都市や中国の長安の都には城壁があったが、奈良盆地大和朝廷には城壁をつくるという発想はなかった。まわりの山が城壁だったのではない。集落どうしが連携してゆくことが流儀の社会だったからだ。
それは、第一義的には、食糧生産のための経済的な連携でもなければ、集団大きくしてゆこうとする政治的な連携でもなかった。
あくまで祝祭の場を持つための連携であり、誰もがそういう場を持たずにいられないような「けがれ」の意識を抱えていた。
「けがれ」をそそいで「みそぎ」を体験する「祝祭=娯楽」の場を連携してつくってゆくこと、それがあってはじめて政治的経済的な連携を持つことができた。
「みそぎ」とはつまり、生き物としての身体の「孤立性」を取り戻すこと。だから、処女の巫女の舞姿がその「形代」になったのだ。
彼らは、なんとしてもその舞姿を残していこうと思った。そうして「舞の家」が生まれてきた。
弥生時代奈良盆地は、「祝祭=娯楽」の上に成り立っている社会だった。そうでなければ天皇という存在が生まれてくるはずがないし、それは、支配者も階級も存在しない社会だったということを意味する。
身分の違いがぜんぶ無効になってしまう場を「祭り」という。祭りが第一義の社会に身分が存在するはずがない。
ただ、そんな社会の「みそぎ」の「形代」として神?が棲む「舞の家」があっただけだ。


10
それでも奈良盆地は、日本列島においては他の地域を圧倒する規模の都市集落にふくれ上がっていった。
そこは、まわりからたえず人が集まってくる場所であったし、小集落どうしの連携も盛んだった。
つまり、支配者がいて階級があって集団として完結しているような地域ではなかった。そうやって完結しないといけないような外部との緊張関係などなかった。だから、どんどん人が集まって来てふくらんでいった。
しかもみんなが連携してゆかないと暮らしが成り立たない土地柄だったから、よそ者も溶け込みやすかった。
奈良時代奈良盆地の人々は、山から下りてきた「ほかいびと」から山の話を聞くのが大好きだった。「ほかいびと」とは、「よそ者」というような意味である。
それはもう奈良盆地の伝統で、弥生時代だって、よそからやってきた人々のよその土地の話を聞くのが大好きだったのだろう。
古事記は、奈良盆地語り部の伝承の話であるが、驚くほど詳細に日本中の地名が記述されている。それは、兵士が遠征していって知り得るレベルをはるかに超えている。その土地からやってきた人の話からでなければ知ることができない詳しさなのだ。
弥生時代奈良盆地は、共同体(国家)として閉じてゆくための支配者も階級も外部との緊張関係も存在しなかった。
ただもう、野放図にふくらんでいった。そうして、日本列島でいちばん大きな都市国家になっていった。
支配者も階級も存在しない方が集団のダイナミズムが生まれる。弥生時代奈良盆地は、支配者が政治的に大きくしていった都市集落ではなかった。支配者などいなかったから大きくなっていったのだ。
ただもう「舞の家」という「みそぎ」の「形代」を祀り上げながら。
奈良盆地に比べて九州や中国地方は、弥生時代になると大陸との関係がいち早く生じ、政治的な気風が芽生えてきた。そうして集落どうしの緊張関係が生まれ、奈良盆地のような規模まで発展することはなかった。
まあそのころ日本列島にやってきた帰化人などほんの少数のはずだが、それでもひとまず先進文化だから、かんたんに影響を受けてしまう。
それに対して弥生時代奈良盆地は地理的に帰化人がやってくることはほとんどなく、大陸の直接的な影響を受けないまま、あくまで縄文時代の延長としての日本的な精神風土が形成されていた。
そうしていつの間にか日本列島でいちばん大きな都市集落になっていて、それから帰化人がやって来て「政治」を吹き込むようになってきたのだ。で、吹き込まれたらすぐそれになびいて、たちまち文字や仏教を受け入れていったのも、いかにも日本的だった。
まあ、「舞の家」などといっても誰も信じてくれないだろうが、天皇制の起源を政治の問題として語る言説など、僕はぜんぶ信じない。
古事記日本書紀大和朝廷の起源を政治集団や戦闘集団として語っているのは、ほんとうの起源を隠蔽するためだったのだろう、と僕は推測している。
弥生時代奈良盆地における都市集落の出現は、政治の問題ではない。「俗世間」の発見と「みそぎ」のカタルシス(浄化作用)という、きわめて日本的な問題なのだ。日本列島の精神風土の源流の問題なのだ。
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