歌と舞の祝祭性・「漂泊論B」57



こんな寒い夜中にふらふら道を歩いていると、この地球上に人間という生き物が生きているということじたい奇跡的なことだなあ、と思えてくる。
僕などはもう老人の部類だからそう楽々と生きていられる体ではないが、もっと体が弱っている病気の人や障害者の人もいる。
それでも人間は生きている。
「健康で文化的な暮らしをする権利」などというが、人間は存在そのものにおいてすでに文化的なのだ。べつにお金や国に保証してもらってはじめて文化的であるのではない。
言い換えれば、お金や国や健康や知識に保証されてぬくぬく生きていても非文化的な人間はいくらでもいる。
文化的とは、どういうことだろうか。
まあ、おしゃれな服を着て美味いものを食うこともひとつの文化ではあろうが、表情やしぐさが魅力的で心にしみるような言葉が吐ける人は、存在そのものがすでに文化的だろう。
文化を享受することと、存在そのものがすでに文化的であることとは違う。
あれこれ文化を享受していても、人間そのものが少しも文化的ではない人がいる。
本を読んだりしてあれこれコピペして賢そうなことをいっても、その人がほんとうに知的な人間であるのかどうかはわからない。
存在そのものが文化的であるとは、生きてあることそれ自体に対する深い知性や豊かな感性を持っているのかどうかということにちがいない。
人間の生きてあるかたちそれじたいが、すでに文化的なのだ。縄文人ネアンデルタール人は、文化的な暮らしを享受する文明は持っていなかったが、存在そのものがすでに文化的だった。
文化としての根源的普遍的な人間の生きてあるかたち、そういうことが知りたくて僕はいま、縄文・弥生時代原始神道のことを考えている。



弥生時代の人々の娯楽=芸能は、「踊り」と「歌=語り」とどちらが主流だったのだろうか。
これは、難しいところだ。
現在でも、歌手の後ろにバックダンサーがいることもあれば、バレエダンサーの後ろにオーケストラがいるという形式もある。
人間の根源的な意識をより深く豊かに揺さぶるのは、歌か踊りか。
しかし、
人間は二本の足で立って歩く生き物で、それ自体がひとつの踊りであるともいえる。したがって、根源的には、踊りが娯楽=芸能の基礎になっているはずだ。
二本の足で立って歩くよりも「言葉」の方が先にあったということは絶対ない。
神道の作法といえば「祝詞(のりと)」を詠い語って奏上することが原点であるかのようなイメージがあるが、おそらくそうではなく、縄文時代から弥生時代にかけての原始神道においては「踊り=舞」こそがその基本的な作法であったのではないだろうか。



神社の社殿のような高床式の建物は、すでに縄文時代から建てられていた。
そこは、おそらく貯蔵倉庫だったのではない。雨や雪の日でもみんなが集まって歌い踊ることのできる場所だったのかもしれない。これが、神社の社殿の起源のかたちではないだろうか。
そこは、呪術を行う場所だったのではない。
縄文・弥生時代原始神道に呪術などなかった。そのころの人々にとっての生の主題は、現代人のように何かを願って何かを得るというようなことではなく、みんなで仲良く生きてゆくこと、すなわち「いまここ」で「もう死んでもいい」という感慨がわいてくるほどのカタルシスを体験することこそが願いだったのだ。
まあ、現在に至るまで日本列島の庶民は、伝統的に「宗教」を第一義として生きるのではなく、「祝祭=娯楽」を生きる存在だった。神に願い祈って生きるのではなく、「なりゆき」を受け入れて「いまここ」を生きるのが日本的な作法なのだ。そういう伝統の原型を考えるなら、縄文・弥生時代に呪術などなかったことになる。
縄文・弥生時代における原始神道の社殿は、神に祈って何かを願うところではなく、ただもう純粋に歌い踊る祝祭の場だった。
人間の文化の基礎に、歌ったり踊ったりすることはあっても、神に祈って何かをお願いするというようなことはない。根源においては、神に祈って何かをお願いすることなど、人間の文化でもなんでもない。しかし現代人はもう、そのような思考や行為のない世界を想像する能力をすでに失ってしまった。
それでも、この国の国民性の底流に「なりゆき」まかせの気分がはたらいているということは、われわれの祖先はかつてそういう世界を生きていたということを意味する。



原始神道は、もとはといえば、縄文社会の山の中で暮らしていた人々の文化であり世界観だった。
したがって、「山に神が棲んでいる」というような発想をするはずがない。山の中は、彼らの「いまここ」の「現実」だった。
とはいえ縄文人にとって、山が暮らしやすい場所であったのではない。山は、彼らにさまざまな恵みをもたらすと同時に、生きることができなくなる災厄もたくさん降りかかってきた。まあそんな状況の中で彼らは、ひとまず山と和解しながら「なりゆき」まかせで生きてゆく方法を選択していた。
いいことがあるも悪いことが起こるのもこの世界の「なりゆき」の問題で、彼らは、山に感謝することも山を恨むということもしなかった。
ただし、山に対する親密な感慨がなければそこでは生きられなかった。
感謝することと親密な感慨を抱くということとはまた別の問題である。感謝するものは、その約束や願いが裏切られたときに恨むということもする。
縄文社会に「感謝」も「恨み」もなかった。われわれはそういう伝統を残している民族だから、お隣の韓国社会の「感謝」や「恨み」をよく理解することができない。



縄文集落のほとんどは、山の斜面や台地に孤立して置かれ、しかも女と子供だけの10戸から20戸程度の小さなものだった。そんな規模では、集落として完結できるはずがない。人と人の関係がすぐに詰まって停滞してしまう。それでもそんな集落が大きくなることもなくそのままの規模で成り立っていたのは、そこに旅をする男たちの小集団が訪ねてきて、たえず出会いと別れのアクセントが加わっていたからだ。
10戸か20戸程度の山の中に孤立した集落が完結し停滞したまま続くはずがない。
その出会いと別れに際して、集団で歌い踊る祭りが生まれた。
小さな集団で、暮らしていれば、あまり自我=自意識は育ってこない。僻地の分校の子供と都会の大人数の学校で競争させられている子供と比べればよくわかる。
僻地の分校の子供たちはもう、党派を組むことなく、みんなで遊ぶしかない。歳の違う子供どうしも、男の子と女の子も、みんなで遊ぶしかない。
で、そのためには、何かひとつみんなで共有しているものがあった方がよい。縄文社会において、それは、「誰もが山に抱かれて暮らしている」という感慨だった。それだけは、歳の違いも男と女の違いもない。その感慨を共有しながら男と女が出会い、祭りが生まれていたのだ。
また、山の稜線を眺めていると、「世界はいまここで完結している」という心地に浸される。
山の中の孤立した小集落で暮らしていれば、自我が育ってこない。日本列島の住民の自我の薄さは、そういう暮らしを続けていた縄文時代1万年の歴史の伝統があるからだろう。



自我が薄いからみんなで歌い踊るということはさかんにしていたにちがいないが、自我が薄ければ、ひとりがみんなの前で歌い踊って見せるという芸はあまり発達しなかったことだろう。
したがって、縄文集落の中に建てられた大きな高床式の建物は、誰かが歌や踊りを披露するための舞台というより、みんなで歌い踊るための場だったことになる。
では、歌と踊りのどちらが、人々が山に対する親密さを共有してゆく体験を豊かにしていただろうか。
まず、歌について考えてみよう。
やまとことばは一音一音にこだわるから、歌も、音階が少なく、あまりメロディアスにはならない。外国人からしたら、能の謡など、ほとんどオンチの歌のように聞こえるにちがいない。
縄文時代からなされていたと考えられる「歌垣」は、みんなで集まって、ひとりずつの男女がそれぞれ即興の歌を交わす遊びである。しかしそれは、あくまでパートナーを決める遊びであって、みんなが同じ心地になってゆく遊びではなかった。
日本列島の歌は、「語り」でもある。平家物語を語る琵琶法師の芸は、その「歌=語り」のひとつの達成であるといえる。
奈良時代には、「ほかいびと」という、山から里に下りてきて「歌=語り」の芸を門付して歩く人々があらわれてきた。その内容は、ほとんどが山の暮らしを紹介するようなものだったらしいのだが、里の人々は、それを知らない世界の情報として楽しんだ。これは、弥生時代以降に多くの人々が山を下りて盆地=里に移住していってから生まれてきた芸であり関係だったのだろう。山に残って暮らす人は、だんだん少数派になっていった。そうして山を眺めながら暮らしている里人は、山のことを知りたがった。彼らにとって山は、すでに「いまここの現実」ではなく、自分たちのルーツとしての「遠いあこがれ」になっていった。
「いまここの現実」として山に抱かれてゆく心地は、「歌=語り」からからは生まれにくい。
日本列島では、「合唱」は発達しなかった。なぜなら原初の「歌=語り」は、基本的に「即興」で奏上されるものだったからだ。誰もが勝手な即興で歌っていても、同じ感慨を共有してゆくという効果は生まれない。
奈良時代の合唱なんて、決まった文言をみんなで読み上げる坊主のお経くらいのものだったのだろう。



縄文時代は、男たちは小集団で旅をし、女子供だけが山の斜面や台地に小さな集落をいとなんでいた。だから、その集落での男と女の出会いは、大切なイベントだった。そうしてそこで即興の「歌=語り」を交わしながらパートナーが決まっていった。これが歌垣である。
つまりその「歌=語り」は、男女が関係として閉じてゆく機能になっていた。
言葉は感慨の表出として発せられても、発せられた後には「意味」を持ってくる。その「意味」に心が閉じ込められ、パートナーが決まってゆく。
縄文・弥生時代にも「わらべ歌」はあったにちがいない。それは、子供が遊びの世界に閉じてゆく機能を持っている。
どこか遠くから子供たちのわらべ歌が聞こえてくれば、大人たちはその歌声が山の自然に溶けてゆくように感じるのだろうが、当の子供たち自身は、それによって遊びの世界に閉じていっているだけだろう。
「歌=語り」は、本質的には心を解き放つ機能にはなっていない。
山に抱かれて暮らしていれば、心は閉じてゆく。閉じてゆくことによって、山の暮らしが成り立っている。しかし、閉じているからこそ、解き放たれる祝祭が必要になる。そのとき、心が山の自然に溶けて消えてゆく体験が解放になる。そういう山の自然に対する親密な感慨を共有しながら、人と人のあいだにも親密な関係が生まれてくる。解放感を共有しながら閉じてゆく、これが山の暮らしの作法である。
山の自然と一対一の関係を結ぶのではない。みんなして山の自然に抱かれてゆく。縄文時代に旅をする男たちが女の集落に訪ねていってお祭り広場になったときも、まずそういう手続きからはじまったはずである。
「歌=語り」によって男女がパートナーになって閉じてゆくその前の段階の、みんなして山の自然に抱かれてゆくという作法があった。そしてそれは、おそらく「歌=語り」の遊びではなかった。



とすれば、そのときまずはじめに、みんなして「踊る」ということをしていたのだろう。
心も体も山に溶けてゆくような踊り。そういうかたちで自然に体が動いてくるような踊りになっていたのだろう。とうぜんそのとき誰もが即興で体を動かしてゆくことになるのだが、それでも山に抱かれて溶けてゆく心地だけは共有されている。
その歴史のはじめに、誰かひとりが歌ったり踊ったりして見せることがあったはずがないし、みんな一緒の音階や言葉で歌ったり一緒の振りで踊ったということも考えられない。
日本列島で生まれてきた踊りは、激しい踊りではなかったはずだ。ただ適当に手を動かし体をくねらせるような踊りだったのだろう。そういう光景を描いた中世の大和絵も残っている。
アフリカの原住民の踊りは自然から飛び立ってゆくが、縄文人のそれは、山という自然に溶けて消えてゆく作法になっていた。
いずれにせよ、踊りの方が原初的で本質的なのだ。だから、能舞台でも、「歌=語り」の狂言よりも能舞の方がメインになっている。狂言は、舞の物語性を補足する役割として発生してきた。
ストリップショーのあいだにはさむコントみたいなものだといえば叱られそうだが、それも日本の芸能の伝統なのだ。
原始神道は「祝詞(のりと)の「歌=語り」からはじまっているのではない。原始神道の祝祭においては、祝詞はあくまで踊りと踊りのあいだの挿入芸だった。
「共同体(国家)」が成立して宗教的な色彩が強くなるにつれ、祝詞の方がメインになっていったのだろう。
原始神道は、宗教ではなかった。そういう意味で僕は、能という芸能を、原始神道復活のルネサンスではなかったのかと考えている。
そのころ共同体(国家)の成熟とともに世の中の芸能が「歌=語り」が主流になってきて、舞いそのものも、大陸的な激しくトリッキーな動きを強調したかたちがもてはやされるようになってきていた。そんな歴史の流れを押し戻そうとして能が生まれてきたのではないだろうか。
能の物語性の基本は、「自然に溶けて消えてゆく」ことにある。たとえば精霊があらわれてまた消えてゆくとか、とにかく「消えてゆく」ことが主題だった。そしてそういうことを「幽玄」といった。これは、新しい発想というよりも、みんなして山という自然に溶けて消えてゆく祝祭であった原始神道の復活なのだ。



能の舞台の後ろには、決まって一本の松の絵が描いてある。べつにそんな決まりがあるわけでもなく、それは、「後ろは山ですよ」というしるしというか、お約束なのだ。その山に、役者の舞も物語も溶けて消えてゆくのだ。
たいていはなんだか貼絵みたいなのっぺりした絵で、松にしたのは徳川家の松平という本姓に敬意を表しただけで、それ以前はべつに松でなくてもよかったらしい。
実際に背後に山があれがそれば一番で、たまに、農村に残っている古い舞台で背後が吹き抜けになっているのがあるらしい。もしかしたら、最初はみんなそうだったのかもしれない。それがやがて貴族や武士の屋敷に舞台がつくられるようになってきたとき、間に合わせで後ろの壁に山を象徴する木を描いた。
しかしそのまま山を描かないで木を描くところがいかにも日本的で、この木は山の「形代(かたしろ)」なのだ。そのまま山を描いてしまえばその絵にイメージが限定されて、かえってほんとうの山をイメージしにくくなる。
後ろは山ですよ、というお約束。
日本列島の舞台は、山を背景にしたものとして発展してきた。
卑弥呼のようなカリスマが登場してきて踊って見せるようになったころの弥生時代後期の社殿も、おそらく背後が吹き抜けで、そこから山を仰ぎ見るようになっていたのだろう。
山が見えていないと、なんとなく落ち着かなかったのだろう。
社殿の柱の向こうに山を眺めれば、何か額縁の中の絵のようになる。そうして、いっそう「世界はいまここで完結している」という感慨が深くなる。
床の間に掛け軸や盆栽を飾るのも、社殿の向こうに山を眺めることの「形代」として習慣化してきたのかもしれない。
それは、山に神がいるとか、そういう問題ではない。純粋に視覚画像の問題であり、日本列島の住民は、社殿の柱越しに山を眺めるのが好きだったのだ。
「世界はいまここで完結している」という実存感覚の問題なのだ。そういう感覚を共有しながら、弥生時代の都市集落がいとなまれていた。


10
社殿の柱の向こうに山が見える。そういう「書き割り」の風景が日本人はどうしようもなく好きなのだ。それは、風景の「形代」である。それは、実際の風景であると同時に実際の風景ではない。
社殿で舞っている巫女のようなカリスマの向こうに、書き割りの山の自然が見える。そのとき、巫女のようなカリスマに対する親密感と山の自然に対する親密感は同じになっている。
その巫女は、山の自然に溶けて消えてゆくように踊っているし、観客の心も山の自然に溶けて消えてゆく感慨に浸っている。
しかし、大和朝廷の支配がはじまるころになると、神社もしだいに宗教施設になっていった。そうして、宗教施設としての社殿(本殿)と舞のための舞台が別々につくられてゆく。
「舞台」という文字自体が、日本列島の芸能の起源が「歌=語り」ではなく「舞」であることを物語っている。
神社の舞のための舞台は、まわりが吹き抜けになっている。そうして社殿(本殿)は、祝詞という「歌=語り」の芸のための宗教施設として閉じられた聖域になっていった。
ともあれ日本列島の舞台の起源は、原始神道の社殿にある。
現在の能の舞台は、屋内につくっても、わざわざ社殿のような屋根を設けている。それはきっと、社殿の向こうに見える書き割りの風景に対する愛着が、日本列島の住民の心にずっと残っているからだろう。それは、神がどうのという問題ではない。
日本列島の芸能の起源は「踊り=舞」にあり、その舞台=社殿は、心も体も山の自然に溶けて消えてゆくカタルシスが生まれる場だった。古代人は、そのように舞い、そのように鑑賞していた。


11
縄文時代にはみんなで踊っているだけで、誰かがみんなの前でそれを披露するというようなことはしなかった。
みんなの前でそれを披露するという芸になってきたのは、弥生時代になってからである。そのときは大きな集団になっていたのだから、人の心にも多少の自意識は育ってくる。そうして、みんなの前で踊る快感を覚えるようになってくるし、みんなも、誰の踊りは特別に鮮やかで色気があるというような鑑賞眼が生まれてくる。こういうことは、あくまで大きな集団になってから起きてきたことだ。
みんながうっとりするような踊りの名手があらわれてきた。
縄文時代の小さな集団なら、みんなで同じ感慨を共有しているという心地になるのはたやすい。しかし弥生時代の大きすぎる集団になれば、みんなで踊っていても、どうしても気持ちはばらついてしまう。
そこでみんなが高揚感を共有してゆくには、みんなが愛するカリスマの芸をみんなで鑑賞するのがいちばんだ。そういう巫女のような存在が、舞の名手としてあらわれてきた。
他の都市国家との緊張関係でみんながひとつになってゆくというのは、もっとあとの時代になってからのことであり、弥生時代奈良盆地周辺で激しい戦闘が起きたという遺跡などないに等しい。
そんな緊張関係なしに、奈良盆地だけで大きな都市集落になっていったのだ。
大和朝廷ができてからの日本書紀古事記では戦闘に継ぐ戦闘で大きくなってきたかのように書いているが、そんなことは嘘だ。そういうことにすれば支配者のリーダーシップの手柄のようになるが、おそらく実際には、民衆どうしの親密な関係で大きくなっていったのだ。奈良盆地は、どこにも増してそういう関係が生まれてくる土地だったのであり、そういう関係の中から「天皇」というカリスマが祀られていったのだ。


12
弥生時代の舞の名手は、おそらく巫女のような存在の若い娘だった。
最初から「芸道」とか「家元」などというものがあったはずがない。
人々は、若い娘の舞に魅せられた。たぶん、初潮がはじまる前後の若い娘だ。
そういう年ごろの娘は、立っている姿そのものが美しい。おばさんの立ち姿とは明らかに違う。
能舞であれ日本舞踊であれ、日本列島の舞の基本的な立ち姿は、「処女の立ち姿」にある。いや、西洋のバレエや社交ダンスだって、「処女の立ち姿」が基本になっているのであり、それが人類普遍の理想的な立ち姿なのだ。まあその立ち方に、世界それぞれの多少の趣味の違いはあるにせよ。
大人の立ち姿は、すでに俗世間の垢に浸食されてしまっている。
それに対して若い娘の立ち姿には俗世間の垢がしみついておらず、存在そのものの「孤立性」を持っている。そしてこういうことは、われわれの誰もがなんとなくわかってしまう。その後ろ姿を見ただけでも、不思議になんとなくわかることができる。
弥生時代のその巫女は、そういう気配を漂わせながら、そこから山の自然に溶けて消えてゆくように舞って見せた。むやみな自意識が張り付いていない処女の自然なしぐさの愛らしさや美しさは、たしかにある。弥生時代の人々は、そういうものに魅せられていった。
しかし処女であれば誰もがそれを表現できるとはかぎらない。たとえば美少女の誇り高く潔癖な孤立性と、そうでない娘のまわりの世界に媚を売っている気配とは、明らかに違う。
それはもう、持って生まれた才能の問題だともいえる。
日本的な舞の美は、処女の立ち姿やしぐさにある。
おそらく弥生時代においては、舞の名手として人々のカリスマになれるかどうかは、娘時代の立ち姿ですでに決定されていた。
芸の世界は、昔も今も、避けがたくそういう残酷な与件を負っている。
そして弥生時代は「芸の修行」などというものがない時代だったから、素質だけが問題にされて、なお残酷だったはずである。


13
縄文時代から弥生時代に移行して集団が大きくなってくれば、どうしても「俗世間」というものが生まれてくる。
そうして人々は、俗世間の垢にまみれた大人の立ち姿とまみれていない処女の立ち姿との違いに気づいていった。
弥生時代とは、「俗世間」という問題があらわれてきた時代だった。人々は、その「けがれ」を意識しながら、「孤立性」をそなえた処女の立ち姿に魅了されていった。
縄文人は、「土のけがれ」というものにものすごくこだわった。だから、家を建て替えるときは必ず元の場所からずらしたし、集落ごと引っ越してしまうということも平気でしていた。
そうして「土のけがれ」に対する意識は、とうぜん「身体のけがれ」の意識にも転化してゆく。そうやってそのけがれをそそごうとして、女たちは「土偶」をつくるようになっていった。
まあ男たちは旅をしていたから、比較的その「けがれ」の意識は希薄だった。
そうして弥生時代になり、男も女も一様に「俗世間の垢」という「けがれ」を意識するようになってきた。
日本列島の「けがれ」の意識は、もともとは他人を差別する意識ではなく、自分の身体や俗世間の垢にまみれて暮らしている自分自身に対する意識だった。したがってそれは、ほんらい、天皇制や部落差別とはなんの関係もない意識なのだ。
ともあれ、そのように「俗世間の垢」が意識される世の中になり、処女の巫女の舞姿が人々を魅了する時代になってきた、ということだ。
まあ最初は、いやがる娘を、大人たちが、あの社殿で踊って見せろとうながしたのかもしれない。
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