「いまここ」に体ごと反応するということ・「天皇の起源」39


共同体(国家)の発生以前には、この世界を支配する「神」という概念などなかった。原始社会の人々に、「支配」という意識は希薄だった。そういう階層的な人と人の関係は存在しなかった。
そんな関係になるような大きな集団が存在しなかったというのではない。メソポタミアからヨーロッパにかけての地域では、共同体(国家)の発生の数千年前から、すでに1万人近い都市集落がいとなまれていた。これはもう考古学の発掘証拠としてあることだが、それでもその集落が共同体(国家)にならなかったのは人と人のあいだに「支配」という関係意識が存在しなかったからであり、したがってそこには「神」という概念も「呪術」も存在しなかった。
人類の歴史は、そうやってまあ原始的に大きな集落をいとなんでいる段階があった。
メソポタミア都市国家が生まれたのを七千年前とするなら、この段階は九千年前か八千年前ということになる。ずいぶん遠い昔だ。
それに対して日本列島の最初の共同体(国家)である大和朝廷が生まれたのを古墳時代の千五百年前ころだとするなら、それ以前の弥生時代奈良盆地にすでに一万人以上の集落ができていたらしいが、そこには「支配」という関係も「神」という概念も「呪術」も存在しなかったはずである。
約二千年前ころの話で、まあ、メソポタミアに比べたら、つい最近である。
日本列島は「支配」も「神」も「呪術」も存在しないかたちの歴史を長く歩んできたから、とうぜん伝統的な文化やメンタリティも大陸と同じように見ることはできない。



日本列島の原始社会に呪術など存在しなかったし、人々は、呪術を必要とするほどよりよい暮らしをしようとあくせくしていたのではない。
日本列島の伝統文化の特質は、未来を思わないで「いまここ」を受け入れ「いまここ」に豊かに反応してゆくことにある。そしてその基礎は、共同体(国家)が存在しなかった縄文・弥生時代につくられた。つまり、呪術など存在しない社会で、あくせくしないで生きていたからそういう文化になっていったのだ。
もしもよりよい未来を欲しがる「呪術」が縄文・弥生時代から機能していたら、「無常観」や「わび・さび」などという伝統は生まれてきていない。
日本列島の呪術は、大陸文化の影響を受けながら奈良・平安時代になって本格化してきた。それでもそのあとの中世には未来を思わない無常感が広がっていったのは、縄文・弥生時代の呪術が存在しない文化の伝統を持っていたからだろう。
「無常観」は、日本列島の歴史の通奏低音になっている。それは、呪術という未来意識を持たない社会の世界観・生命観である。



どうして歴史家はみな、縄文・弥生時代は呪術がさかんに行われていたと決めつけるのだろう。
現代人には、人間は未来やいまここにはないものをイメージする生き物である、というような合意がある。ほとんどの歴史家が、それによって人類の知能が進化してきたといっている。
どうしてこんな愚劣なことを当然のように考えているのだろう。
現代人がそういう傾向があるからといって、原始人もそうだったとはかぎらない。彼らは、そんな思考が人間の本性だとじつに安直に決め付けてしまっているのだが、そんな言い方ばかりするから文化人類学の本なんか読む気がしない、といっている人もいる。
人間は時代とともにだんだんそのような思考をするようになってきたのだが、少なくとも日本列島ではそのような思考になりきれない傾向も残してきた。それが、無常観である。
無常観は、縄文時代からあって、中世になってとくに強く意識されるようになってきた。それは、ほんらいなら、時代とともにだんだん薄くなってゆくはずの世界観なのに、その流れに逆行するよう湧き起こってきた。
中世の無常観は、いわば呪術に対する拒否反応であり、外来文化である呪術に染まりすぎたことに対する反省として、縄文・弥生以来の伝統を取り戻そうとするひとつのルネサンスだった。
呪術は、時代の衰退期にブームになる。日本列島の最初のブームは平安時代に起こり、そんな貴族社会を否定する無常観とともに死をもいとわない武士の勢力が勃興してきた。
二度目のブームは江戸時代にやってきて、このときもひどく迷信深い社会になってしまったことの反動として明治維新という近代化が起きた。
そうして現在もまた、カルト宗教とかスピリチュアルとかがさかんな時代の衰退期になっているのかもしれない。
日本列島の伝統においては、呪術を否定するように新しい時代が生まれてくる。なぜならそれは大和朝廷成立以降の外来の文化にすぎないのであり、それを否定して伝統に戻ろうとするように新しい時代が生まれてくる。
新しい時代は、かつて体験したことのない事態が起きているのだから未来の予測がつかない。予測がつかない事態を生きるダイナミズムが起きているのが新しい時代であり、そうなれば呪術など役に立たないし当てにできない。そうして人々は、新しく到来する「いまここ」に体ごと反応してゆく。



弥生時代は、新しい時代だってはずである。人々は、かつて体験したことのない、大きな集落をつくって集団で農業をいとなんでゆくということをはじめた。
たとえば、雨が降らないからといって雨乞いばかりしていたら、技術の進歩などない。雨が降らないときのためにどのように水を確保しておくかということは工夫されていったはずである。そういう工夫は、雨乞いの呪術などしていないから生まれてくる。
呪術にたよっていなかったから水田耕作が発達したのだ。
日本列島で水田耕作が発達していったのは、その初期の段階の人々が呪術などにたよらずひたすら現実を受け入れひたすら現実的な技術を追求することに熱中していったからだ。
もしも弥生時代のそのときに呪術にたよる社会であったのなら、こんなにも手間暇がかかりあれこれの技術が必要な水田耕作が根付くことはなかったはずである。
呪術にたよっている時代は必ず滅びるというのは、日本列島の歴史の法則である。
しかし弥生時代は、どんどん水田耕作の技術が発達して、現在まで続く稲作文化の基礎ができあがってゆく時代だったのだ。
弥生時代の集落の環濠や前方後円墳の周濠は、おそらく灌漑用のため池の役割を果たしていた。呪術をするよりも、そんな土木工事がさかんになっていった時代だった。
弥生時代晩期のものといわれている箸墓古墳は長さ278メートルという巨大なものだが、周濠という灌漑用のため池を掘った土をそこに盛り上げたものであるにちがいなく、奈良盆地の人々を総動員した大掛かりな工事であったらしい。
しかし、大きな集落をいとなむようになってまだ数百年しかたっていない若い時代に、それが「王の権力を誇示するため」とか、そんな無用な飾り物をつくる余裕なんかなかったはずだし、王という権力者も存在しなかったはずである。
おそらくそれは農業用の工事だったのであり、ただ、結果的に何かのモニュメントとして祀り上げていっただけだろう。
箸墓古墳は当時のカリスマの巫女の墓だった、という説が有力らしいが、奈良盆地の巨大前方後円墳は伝統的にお祭り広場として使われ、江戸時代までは入ってはいけない場所ではなく、そこに茶店なども置かれていた。いちおう天皇の墓だということになっていたが、最初から天皇家の財産でもなんでもなかった。民衆が自発的につくり、民衆の財産だったのだ。
もしも天皇家が、我が家の財産だから入らないでくれというのなら、それはお門違いというものである。



呪術ばかりしていたら、歴史のイノベーションは起きてこない。
弥生時代に水田耕作や土木技術が発達したということは、呪術にたよるようなことばかりしていたわけではないことを意味する。
呪術などなかったからイノベーションが起きたのだ。人々は、新しい時代のいろんな新しいことに対処していった。
どんどん新しい事態が起きてきた時代だった。その新しいことに対処できたのは、「いまここ」しかないという無常観だった。
日本列島の無常観は、ただの無気力なあきらめや虚無感のことではない。「いまここ」に体ごと反応してゆくという、この生のダイナミズムをもたらす世界観なのだ。
弥生時代初期の奈良盆地はほとんどが湿地帯で人の住める場所はほんの少しだったから、人口はとても少なかったはずである。多くの人は、まわりの山々にそれぞれ小さな集落をつくって暮らしていた。そうして気候の寒冷乾燥化とともにしだいに土地が干上がってゆくにつれてそこに下りてゆき、干拓したりしながら徐々に集団で農業をすることを覚えていった。
まあ最初は、人口がゼロの土地だったといってもいいくらいである。それが、たったの数百年で日本列島のいちばん大きな都市集落になり、古墳時代に入って大和朝廷という国家組織をつくっていった。
こんな歴史は、大陸には例がない。世界初の都市国家が生まれたメソポタミア地方はもともと人がたくさん集まっているところだったし、それでもその都市集落が国家になってゆくまでには2千年以上かかっている。
弥生時代奈良盆地は、当時の日本列島でもっともダイナミックに人口が増えていった場所だった。
ということはつまり、集団の状況がつねに新しく変わってゆく場所だった、ということだ。
人間は、新しい変化を予測することはできない。できるのは既成のパターンが当てはまる場合だけである。
新しい変化は、「いまここ」で体ごと反応してゆく以外に対処するすべがない。大和朝廷は、そのようにして生まれてきた
大和朝廷は、計画してつくっていった国家組織ではない。計画などできないドラスティックな変化の中で行き当たりばったりに集団がふくらんでいった結果として生まれてきた。
人々はつねに「いまここ」に体ごと反応していった。そのようにして日本列島の無常観の伝統の基礎がつくられていった。



日本列島の無常観とは、「いまここ」に体ごと反応してゆく作法である。
それは、縄文時代からそうだった。そのとき、山の中の多くの集落は女子供だけしか住んでおらず、そこに旅をする男たちの集団がかわるがわる訪ねていった。そのようにして彼らの社会性が成り立っていて、山の中の小さな集落で身動きとれない暮らしをしていても、500キロ先の土地の情報がたちまち伝わってきた。
その集落では、男たちの来訪は予測できなかった。つねにそのつどの「いまここ」の出会いのときめきがあっただけである。
縄文人だって、その一万年の歴史を「いまここ」に体ごと反応して暮らしていた。そういう未来を思わない暮らしをしていたからこそ、弥生時代のドラスティックな変化の中を生きることができた。
縄文社会は一万年のあいだ大きな変化はなかったが、呪術に支配され停滞した暮らしをしていたのではない。人々は未来を思わないでひたすら「いまここ」のときめきを生きていた。
日本列島の歴史のほとんどは、「いまここ」を生きる無常観の作法で流れてきた。
無常観を生きた縄文・弥生時代に呪術などなかった。
したがって弥生時代の巫女は呪術師ではなかった。人々に必要なものは、「いまここ」を生きるための娯楽芸能だった。
弥生時代の巫女は、人々の前で歌い踊って人々の心を癒す存在だった。
呪術が生まれてくるような社会ではなかったのだ。
「呪術」とか「神事」などということは、日本列島の伝統ではない。もういいかげんにそんな言葉で縄文時代弥生時代を考えるのはやめようではないか。人々は、「呪術」も「神事」も知らないまま、ひたすら「いまここ」に体ごと反応し、「いまここ」を祀り上げて暮らしていた。そういう暮らしから、天皇が生まれてきたのだ。
天皇は、「呪術」や「神事」の執行者として生まれてきたのではない。人々の「いまここ」に体ごと反応してゆく暮らしの形見として祀り上げられていったのだ。
共同体の制度としての「呪術」や「神事」と、「祀り上げる」という人間のプリミティブな生態とはまた別のことである。人間は二本の足で立った瞬間から「いまここ」を祀り上げずにいられない存在になった。そこのところを「呪術」や「神事」と混同するべきではない。
「娯楽・芸能」と「呪術・神事」は兄弟姉妹の関係にあるが、同じではない。前者は「いまここ」の心を癒し、後者は「未来」を予測しかなえるための行為である。日本列島の伝統である無常観は、後者のコンセプトとそぐわない。だからこの国では、後者のコンセプトがさかんになってくると時代は衰退してゆく。必ずそれを反省して伝統に帰ろうとする動きがが生まれてくる。



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