未知の新しい「いまここ」・「天皇の起源」40


日本列島の住民は「神」というファンタジーを持っていない。だからニヒルで現実的かというと、そうともいえない。われわれにとっては現実そのものがファンタジーである。それが無常観であり、神の世界や死後の世界のファンタジーは知らないが、生きてある「いまここ」の世界にかぎりない神秘を感じている。
無常とは未来を思わないことであり、したがってわれわれが出会う「いまここ」は、つねに未知の新しい世界だということになる。
明日が未知だから、明日も生きられる。わかってしまったら生きようという気になれない。
人間は、神秘に引き寄せられてしまう生き物であり、神秘が現実なのだ。
古来より日本列島の住民は、「無常」について書こうとすると、つい詠嘆調(ファンタジック)になる。われわれにとって現実は無常であり、ファンタジーである。
日本列島の歴史は、呪術(オカルト)に呑み込まれてゆく時代の後には必ず「無常観」とともにその垢(穢れ)を洗い流そうとするムーブメントが起きてきた。
日本列島では、呪術(オカルト)がさかんになってきても、究極の呪術(オカルト)である「神」という概念によって解決してゆくというところまで行きつくことはなく、必ず中途で「無常観」が洗い流してしまう。
われわれは神頼みをしても、しんそこ神を信じることのできない民族なのだ。
神の世界や死後の世界を現実のように語られてもよくわからない。
いまどきは「神」だの「スピリチュアル」だのというオカルトな言説が盛んだが、われわれの知らないどこかしらに「無常観」というブレーキがはたらいている。
神が存在することは真実=現実だといいたければいえばいい。たとえそれがそうであっても、日本列島の住民にはそれを信じきれない歴史的な無意識としての「無常観」を持ってしまっている。
たとえ神が存在することが真実=現実であったとしても、この国の無常観の歴史においては、そんなものを信じるのは「穢れ」なのだ。そして、そんなものを信じるのは穢れだ、というかたちで新しい時代が生まれてくる。



いまわれわれは、戦争の反省として、天皇を神だと信じるのは穢れだ、と思っている。
天皇だけではない。ゴッドだろうと神道の神だろうと、ただのお話であって存在する現実だとは思っていない。だから、天皇が神ではないといわれても、それほどショックではなかった。
天皇が神ではないと思うことは、戦後の日本列島の住民の「みそぎ」だった。
マッカーサーは、天皇が神でなくなれば日本人は天皇を祀り上げることをやめるだろうと思ったのかもしれないが、じつは天皇は神ではないと思うことが天皇を祀り上げることだった。
天皇は、神を知らない日本列島の住民の「無常観」の形見として機能してきた。
神など知らないから、天皇が神であってもなくても、どちらでもよい。
われわれは、西洋人が神のことを思うほどには天皇のことを意識しているわけではない。べつに天皇のことなど思わない。ただもう、天皇がこの世のどこかに存在するという事実があればよい。
天皇は存在するだけでよい。
戦前だって、本気で天皇が神だと信じていたわけではない。ただもう天皇が存在するという事実を祀り上げていただけだ。神など知らないから神だと思うことができただけだ。日本列島の住民にとっての天皇は、マッカーサーが信じている神と同じだったのではない。神なんてただの言葉であり物語だと思っている。
われわれは天皇のことを思っているのではない、天皇が存在するという事実を思っている。そして天皇が存在するという事実を思うことは、未来を思わないことであり、「いまここ」だけを思うことだ。
天皇は、全能の神ではない。この世のもっとも無力な人であり、すなわち「未来」を持たない人である。
もっとも無力な人を祀り上げることは、未来を思わないことだ。
日本列島の住民の歴史的な無意識が、天皇をそのような存在にしていった。いつの間にか天皇は、そういう存在になっていた。
日本列島の住民の心の底には、天皇をそういう存在にしてしまうような無常観がはたらいている。
天皇は、日本列島の住民が体ごと「いまここ」に反応してゆくための形見として機能してきた。つまり、すべての「いまここ」を予測しなかったできなかった新しい事態として反応してゆくのが日本列島の無常観の流儀である。



予想外の新しいものを受け入れてゆく能力は、たぶん日本列島の住民がいちばん持っている。節操がないといえばまあそういうことなのだが、この国には世界中の料理店があり、世界中の食べ物をとにかく食べてみようとするのが日本人である。
日本列島の住民は、未来を予測しない。未来はつねに新しい「いまここ」なのだ。
新しい時代は、そのように活性化してゆく。
われわれは、新しい時代を、未知の新しいものとの出会いのときめきとともに生きてゆこうとする。
新しい時代や新しい季節がやってくれば、世界は美しく輝いて見えてくる。
桜の花が咲けば、新しい季節になったことを実感して、人も世界も急に輝いて見えてくる。そんな感慨を、与謝野晶子は「清水を祇園へよぎる桜月夜 今宵逢ふ人みな美しき」と詠った。
東日本大震災の後も、人々はやはり、新しい時代の新しい人との出会いのときめきを生きていたから、外国でよくあるような無政府状態の混乱がほとんど起きなかった。
終戦直後のアメリカ占領軍はそうとうに傍若無人だったらしいが、それでもわれわれはその新しい事態を受け入れていった。それでもその新しい時代は、世界も人も美しく輝いて見えた。
まあ、いいことか悪いことか知らないが、その事態から日本人とアメリカ人の新しい友情が芽生えていったのだろう。そうやってわれわれはごくスムーズにアメリカ文化にあこがれなじんでいったし、アメリカに押し付けられた憲法第九条という理不尽な足かせをこの70年近く律儀に守り通してきた。
憲法第九条がよいか悪いかなど僕にはわからないが、それを70年近くも守り通してきたのは、それなりに人類史における快挙であるのかもしれない。こんな憲法は、世界も人も美しく輝いているという「お花畑の脳みそ」を持っていなければ守れないだろう。



縄文・弥生人は、呪術で未来を予測しながら生きるよりも、つねに未知の新しい「いまここ」として体ごと反応してゆくという流儀で生きていた。そういう流儀でないと生きられない社会だったし、そういう流儀だからそういう社会になっていったともいえる。
日本列島の住民は、未知の新しい「いまここ」を生きようとする。
まあ子供は、誰もが未知の新しい「いまここ」を生きている。日本人は子供だとは、よくいわれることである。
しかし原始人だって世界中がみな、そのような「お花畑の脳みそ」で生きていたのだ。
人類が地球の隅々まで拡散していったことは、つねに未知の新しい体験をしてゆくことであったはずだ。それができなければ人類拡散など起きなかった。
毎日が未知の新しい日々であることは、べつに不幸なことでもあるまい。
中世は希望のない暗い時代で、その諦めから無常観が生まれてきたと考えるべきではない。それでも人々は、「いまここ」をときめきながら生きようとしていた。それは、無邪気で原始的な楽観主義の世界観だった。
一遍上人が率いる踊り念仏の集団など、まさにそうしたコンセプトだった。彼らは未来に希望を見い出していったのではない、「いまここ」をときめきながら踊り狂っていたのだ。
彼らは、そういう無常観という楽観主義で時代を乗り越えていった。
中世のダイナミズムは、未来を思わないことにあった。
平安時代は、未来に対する意識が肥大化して、どんどんオカルト的になり、かえって閉塞感が募っていった時代だった。阿倍清明などの呪術が暗躍し、貴族社会の陰湿な権力争いから非業の死を遂げたものの魂を鎮めようとする御霊信仰がさかんになってきた。
権力者が必死にすがりついたという浄土信仰も、伝統的な無常観にはそぐわないものだった。死んだら極楽浄土にゆけるという仏教的な世界観に対して、神道では死んだら何もない「黄泉の国」に行くといわれており、それは「未来を思わない」という無常観だった。



人の心は、未来を思うことによって閉塞感におちいる。未来を思えば、「死」という行き止まりにぶつかる。そうやって心は閉じ込められ、虚無に呑み込まれてゆく。
平安貴族のこの心のさまは、現代社会の様相にもよく似ている。
いまどきは、老後のこととか自分の葬式のことなどを計画するのが流行していて、若い人からも関心を集め、そういう思考態度がよりよく生きることだと信じられているらしい。
つまり、未来が未知であることを怖れているのだ。そのようにして閉塞感が広がっている。
知性とは、未知を消去することか。そうだともいえるが、未知を消去すれば、さらなる未知があらわれてくる。未知をないものにしてしまうことなどできない。
科学は、生命や宇宙の神秘を解き明かしたか?解いても解いても、さらにその向こうに膨大な未知=神秘が広がっている。人間というのは、どんどん神秘に引きずられてゆく生き物だ。
知性とは未知を生きることであり、未知と出会う能力のことだともいえる。
自分の未来をすでにわかっているものにしてしまおうなんて、ひとつのニヒリズム虚無主義)である。そうやって現代人は虚無の闇に呑み込まれている。それは、平安朝の権力者が必死に極楽浄土という未来を願ったのと同じである。
ニヒリズムとは「私は知っている」という態度のことである。彼らは何もかも既知のことにして、自分は正しく幸せに清らかに生きているという満足に浸ろうとしている。
現代人はどうしてそんな思考態度になってしまったのか。
バブル景気の時代は、美しいものも正しいことも、すべてカネが決定してくれていた。カネを持っていることは、そのまま美しいものも正しいことも所有していることであり、「すでに知っている」ことだった。カネによって、世界は既視感に覆われていた。
現代人は、「すでに知っている」という自覚を持っていないと落ち着かない。それが、戦後の高度経済成長がたどりついた境地である。
あのホリエモンは、「この世のすべてのものはカネで買える」といった。カネがあれば「この世のすべてのことはすでに知っている」という境地になれるらしい。そういうニヒリズムという既視感が現代社会を覆っている。
現代人は知識自慢で、自分の未来すらも知識の範疇のものにしてしまおうとする。
知識自慢だって、一種のニヒリズムだ。それは、知らないと思われるのを怖がっているということであり、知らないことと向き合い考える能力が希薄になっているということだ。
未来を思わないでそのつど未知の新しいものにときめいてゆくのが日本列島の伝統的な作法だったとすれば、現代人はそういう伝統を喪失しているということだろうか。
しかしそれでも日本人は日本人であり、一方ではすでに伝統に帰ろうとするムーブメントも起きてきている。
新しい時代は、未来のことなど思っていたら生きられない。そのつどそのつど、未知の新しい出会いのときめきとして体験してゆくしかないわけで、もともと人間はそういう存在であるのではないだろうか。
日本人は、「旬のもの」とか「初もの」が好きだ。それは、未知の新しい「いまここ」に体ごと反応してゆく無常観なのだ。



現在は、ルネサンスの時代の前夜なのだろうか。誰もが自分の老後や葬式の心配をし、神だのスピリチュアルだのと騒ぐ言説がはびこっているのは、平安時代のオカルトブームとそっくりである。
「私は神のことを知っている」だの「私はスピリチュアルのことを知っている」だのと、どうして自慢げにいうのだろう。そんな振る舞いの胡散臭さを、人々はどうして感じないのだろう。誰もが既視感覚で生きようとしている世の中だからだろうか。しかしそれが真実であろうとなかろうと、そんなことをすでに知っているつもりになるのは、この国の伝統においては「穢れ」なのである。
この国には、オカルトになりきれない世界観の伝統がある。明日のことを思うことすらオカルトであり穢れだという気分がどこかしらにある。そういう気分で、なかなか戦争をやめられなかった。
だから戦後はその反省をして未来を思うようにしたのだろうか。しかしその伝統がないから、思い方が稚拙で節操がない。付け焼刃の未来意識で、あれこれ混乱してしまっている。「これからは何何の時代だ」と予言されると、かんたんにその気になってしまう。西洋人の方が未来意識は強いが、日本人ほどかんたんにはそんな挑発に動かされない。
戦後は、「よりよい未来のために」というスローガンが有効に機能してきた。それはもう、国家のレベルでも会社のレベルでも家庭のレベルでも個人の人生においてもそうだった。
もしかしたらこれは、日本列島の歴史においては特異なことだったのかもしれない。
極東裁判の戦犯たちが口をそろえて「戦争遂行はどうしようもないなりゆきだった」といっていたのは、じつは明治以来ずっと「なりゆき」まかせで国づくりをしてきたことを物語っているのではないだろうか。
「いまここ」で何ができるか……それこそが明治以来の権力者も含めた日本列島の住民のテーマだったのであって、未来のヴィジョンなんか、きっとあいまいだった。
まあ、大昔からずっとそうやって歴史を歩んできたのだ。
そして、先のことを考えないで「いまここ」に体ごと反応してゆくという能力を豊かに持っていたから、たちまち欧米文化に追いついてゆくことができたのだろう。
大陸の中国も朝鮮もインドもいつまでたってももたもたしていたのに、この国は猛烈な勢いで欧米文化を吸収していった。未来のことなど考えなかった。ただもう「いまここ」に体ごと反応していった。
たぶんこの国の現在は、そういうダイナミズムを失っている。
身の丈に合わない未来意識やオカルト趣味を持ってしまったからだろう。それは、文化の衰弱であり退廃であり穢れである。
自分の老後や葬式をプラニングしたがるのは、それだけ不安だからだろう。何も考えなければ不安になることもないが、どうしても考えてしまい、不安になってしまう。「いまここ」に対する反応が希薄だから、意識が未来に向かってしまう。経済活動はそれの方がいいのだろうが、文化的には貧困になってしまう。そういうことが、プライベートな場での大人たちの顔つきや会話にあらわれている。
未来のことが心配で心配でしょうがない。それも戦後社会を生きるわれわれの運命かもしれないが、それは日本列島の伝統でも、人間の本性でもない。



いまどきは「教育現場の崩壊」などといって、どんなふうにして子供や若者を育て教育してゆけばいいのかという問題がよく議論されている。
未来のよりよい社会の実現に向けて成熟した市民意識を植え付けてやるのが学校教育である、などという。
こういう戦後の市民主義の理屈は、よくわからない。
そんな正義の理屈で子供たちの心をつかむことができるのか。
社会のために人間(個人)が存在するのではない。支配欲の強い人間ほど、そういう思考をしたがる。そういうことにしておけば、人間を支配しやすい。
誰もが人間(個人)として生きている。そのための社会だろう。何が「成熟した市民」か。いまどきの大人たちは、教育とは人間を支配しやすい存在にしてしまうためのものだと考えている。
子供に好かれない大人ばかりの世の中だから、そういうかたちでしか子供や若者と関係を結べないのだ。
何はともあれ、子供たちに慕われる教師を育てることが先決だろう。大人が子供や若者から慕われるのに必要なものは、そんな正義ではなく、生身の人間的な魅力であるにちがいない。
子供どうしの関係だって、健康だとはいえまい。
それは、教育のコンセプトの問題ではない。大人たちが人間的な魅力を持っているかどうかという問題に尽きるのではないだろうか。それがなければ、何も始まらない。
「未来のよりよい社会のため」とか「世のため人のため」などといって教育しようなんて、厚かましい話だ。そんなことは子どもにとってはどうでもいいことで、そんなことは社会に出てから覚えることだ。そういう素養を持っていれば自然に身についてゆく。
子供とは「いまここ」を生きる存在であり、子供にとっての「いまここ」とは何かという問題がある。それは、友達と仲良くできるかということであり、先生は魅力的かということだろう。その前提がなければ何も始まらない。



学校とは、知りたいことを知るところだろう。「個人の利益を求めさせたらいけない、世のため人のためを考える人間に育てないといけない」だなんて、よけいなお世話だ。個人の利益を求めたら、なぜいけない?「知る」という行為は、個人の利益としてもたらされるのだ。
学校とは、子供の知りたいという欲求を叶えるところではないのか。世のため人のためになる人間になりたくて「知りたい」と思うのではない。それはもう、人間としての実存の問題であり、子供とは、つねに新しい未知の問題と出会い続けている存在なのだ。
社会の都合のいいように子供を育てるなんて、戦後の市民主義のいちばんいやらしい部分だ。
明治時代のエリートたちの多くは、世のため人のために学んでいたのではない。江戸時代の鎖国社会から解放されて、やみがたい知的好奇心が胸にあふれていたのだ。いや、幕末の私塾に通っていたものたちだってほとんどはそうだったのだし、そういう純粋でやみがたい知的好奇心を持ったものが抜きん出ていったのだ。
「世のため人のため」などという不純な動機で学問的な成果が達成されるわけでもないにちがいない。
日本列島の住民は「憂き世」という感慨を共有しながら歴史を歩みはじめたのであり、そういう伝統はいまでも誰の中にも息づいている。その感慨は、「よりよい社会をつくるために」とか「世のため人のため」などというコンセプトにそぐわない。
なぜ子供たちを支配しようとするのか。なぜ子供たちを支配しやすい存在にしてしまおうとするのか。
日本列島の無常観は、「よりよい社会」などイメージしない。「いまここ」のこの世界に体ごと反応してゆくだけである。社会(=憂き世)は、すでに存在するものであってつくるものではないと思っている。
何が「世のため人のため」か。何が「市民社会の成熟」か。いまどきの大人たちは伝統の重みを知らないから、そういうことを言い出す。
日本列島の住民は人にときめいているのであって、社会にときめいているのではない、どんないい社会が来ようと、社会になんかときめかない。いつだって社会は「憂き世」なのだ。
「憂き世」と自覚しているからこそ、豊かに他愛なく人にときめいてゆく。われわれは、そういう人と人の関係を取り戻せるだろうか。たぶん、学校教育はそこからはじまるし、それがすべてだともいえる。
子供を、自分たちの都合のいいようにつくろうとするな。子供は、勝手に学んでゆく。そのことが信じられなくて、何が学校教育か。
子供は「いまここ」のこの世界に体ごと反応してゆく。おまえらの都合で、よけいな未来意識や市民意識など植え付けようとするな。
子供たちの学力が低下しているのだとか。そんな状況で抜きんでたエリートを養成するためには「世のため人のため」という成熟した市民意識を持たせないといけないんだってさ。
まあ、想像力が貧困な凡庸な人間にかぎってそういうことを言い出す。
やみがたい知的好奇心を持った子供が抜きん出てゆくだけのことさ。つまり、未知の新しい「いまここ」に体ごと反応してゆくということ。
支配欲と裏返しの「世のため人のためという成熟した市民意識」で学力を挙げたってたかが知れているということが証明されているのが現在ではないのか。現代の大人たちは、利己的なようでいて、みんなそういう市民意識を持っている。そういう市民意識を持って正義の側に立っていないと社会のうまい汁は吸えない、とわかっている。
言い換えれば「世のため人のためという成熟した市民意識」とは一種のエゴイズムなのだ。ニヒリズムだともいえる。現代人は、何も知らない生まれたばかりの子供のような心で「いまここ」に体ごと反応してゆくという態度を失っている。
「世のため人のため」などということをいっていたらろくな人間は育たないし、抜きん出た学力を持った子供もあらわれてこない。
世のため人のために生きたら偉いのか。冗談じゃない。彼らは偉いと思われたいだけなのだ。他人なんか、自分が偉いと思われるためのただの道具だというくらいにしか考えていない。
彼らは、人間の純粋で自然な衝動に対する想像力がない。子供と向き合うということは、そこに向かって想像力をはたらかせるということだ。社会なんか滅びてもかまわないという心意気でそれを問うてゆくことだ。
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