お国自慢してもしょうがない・「天皇の起源」55


呪術は縄文時代からあったとか、原始神道は呪術だったとか、そんなふうに考えている歴史家は多い。
では、神道のもっとも大切な行為のひとつである「穢れ」をそそいで「清める」ということは「呪術」であるといえるか。
「清める」とは「祀り上げる」行為である。「祀り上げる」とは「清める」ということだ。
風呂に入ったり手を洗ったりすることを「呪術」だというものはおるまい。縄文人は、そういう行為の延長として、死者の骨を洗ったり土を清めるということをしていた。しかしそれは、未来の何を得ようとするのでもなく、あくまで「いまここ」の「穢れ」をそそぐためであり、「いまここ」を「祀り上げる=清める」ための行為である。
人類の葬送儀礼の原始的なかたちは呪術ではなかったし、原始時代に呪術などというものはなかった。
現在の未開の民を見れば原始時代がわかるというものではない、彼らだって現代人なのだ。人類の観念のかたちは、あっという間に地球の隅々まで蔓延してしまう。現在の未開の民だってわれわれ文明人と同じ観念のかたちを共有している。「神」とか「霊魂」とか「迷信」とか「呪術」というような現代的文明的な観念のかたちを。
呪術とは「未来」や「いまここにないもの」を思う意識である。
人間は「未来」という時間を知ってしまった存在であるが、同時にそれは「未来」を思うことの畏れを知ってしまったということであり、そのぶん「いまここ」に対する意識がより切実になったということでもある。
世の歴史家の多くは、人間の未来予測の能力が猿をはじめとする他の動物に対するアドバンテージのように考えているが、おそらくそれは違う。
たしかに人間は未来予測の能力が発達している。しかしそれは、「未来やいまここにないものののことはわからない」ということを猿よりももっと深く知っているということでもある。そのようにして、猿よりももっと深く「いまここ」を思う存在になった。
人類は、未来予測の能力を持ったことによって、視覚とか聴覚とか嗅覚などの「いまここ」に対する知覚能力を大幅に失った。しかも、二本の足で立ち上がることによって「いまここ」とかかわる身体能力も大きく後退した。
人類は、そういう失った能力を補おうとして、けんめいに「いまここ」を思う存在になっていった。「いまここ」をけんめいに思わないと生きられない存在になった。
人間は、「未来やいまここにないものはわからない」ということを知ってしまった存在なのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、いままで見えていなかったさまざなものが見えてくる体験であり、それは「未来」や「いまここにないもの」を発見することであると同時に、「未来やいまここにないものはわからない」と深く気づいてゆく体験でもあった。
二本の足で立ち上がってそこに見えなったものを見つけることは、その向こうに見えていないものがあると気づく体験でもある。
その「わからない」という「嘆き」を深く持ってしまったことこそが、人類の知能を発達させた。
何もかもわかっているような物言いをする人間にかぎって、じつは頭が悪い。知性とは、「わからない」という「嘆き」を生きることだ。
現代社会は、未来やいまここにないものを知る「呪術」が発達している。それを「文明」という。そうやって何もかもわかっているようなことをいう人間をあふれさせている。そういう知性の貧弱な人間を。
呪術の能力なら、文明人はアフリカやアマゾンの未開の民に負けない。そういう差別意識で、縄文社会は呪術の上に成り立っていたという。縄文人は貧弱な呪術で生きていた、といいたいのだろう。まったく、その鈍感さはいったいなんなのだと思う。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、「わからない」という「嘆き」を生きる存在になった。そうしてけんめいに「いまここ」を思う存在になっていった。
けんめいに「いまここ」を思うことこそ人間性の基礎なのだ。その思いの切実さが人類の知能を発達させた。けんめいに思わないと「いまここ」とうまくかかわれない存在になったのだ。



「いまここ」に体ごと反応してゆくこと……そこにこそ原始人の生態や心模様に推参してゆくカギがある。
ネアンデルタール縄文人や、原始人の生態を問おうとするなら、彼らの思いの「いまここ」に対する切実さこそ問うべきであって、縄文社会は呪術の上に成り立っていたとか、もうそんな薄っぺらな歴史解釈などお願いだからやめてくれと思う。
いまどきの歴史家は、なんでこんなにも頭が悪いのだろう?
僕自身も含めて現代人は、なんでこんなにも頭が悪いのだろう?
知能が発達したといっても、現代人の脳細胞のはたらきが原始人のそれよりも優れているとは決していえない。
縄文社会は呪術の上に成り立っていただなんて、彼らの知性に対する冒涜である。人間の知性に対する冒涜である。
人間ほど「いまここ」を切実に思っている存在もない。
現代社会は未来を予測する呪術が発達した社会であるが、それでも未来の社会は人々の「いまここ」を思う切実さや行為の結果としてやってくる。思い通りの未来になるわけではないし、未来のために「いまここ」を生きているのではない。「いまここ」がこの生のすべてだという思いは誰の中にもある。それが人間の情熱になり、せずにいられないことになる。
好きでしょうがないからプロポーズをする。それだけのこと。
ネアンデルタールの時代は、ひとりで寝るのは寒くてしょうがなかったから、セックスばかりして子供がたくさん生まれる社会になっていた。べつに、それが群れとして生き延びる戦略だったからでもなんでもない。
親と一緒に暮らしているなんて鬱陶しくてたまらないから、ひとまずプロポーズを受け入れる。
結婚したらいい人生が待っていると思うからではない。そんなことは、結婚してみないとわからない。結婚してみないとわからないから、ひとまず結婚してみようと思う。
人間は、わかっていることなどしようとは思わない。わからないからこそしてみようと思う。
歳を取ったら体が衰えて頭もボケてゆくだけである。それでも生きてゆけるのは、とりあえずそんなことなど忘れて「いまここ」を生きているからだ。
誰もが未来には必ず死ぬ。それでも生きていられるのは、死ぬことを勘定に入れているからではなく、死ぬことなど忘れているからだ。死ぬことなどわからないからだ。
人間は「わからない」ということを深く思い知る存在であり、「わからない」という「嘆き」が人間を生かしている。
目の前のわからないことはなんとしてもわかりたいと思うし、「いまここ」にはない見えないものはひとまず「ない」ものと思い定めて生きている。それが人間ではないだろうか。
それが、あるときから、「いまここ」にないものまでわかろうとする欲望が肥大化してきて戦争とか支配とか迷信とか呪術などののややこしい人間社会の問題が起きてきた。それは、「いまここ」にはない山の向こうの異民族との軋轢が大きくなってきたからだ。
それまでの人類は、「いまここ」には見えない山の向こうは「ない」ものと思い定めて生きていた。目の前の見える範囲を世界と思い定めて生きていた。古代人だって、この世界は数頭の巨大な象の背に支えられた円盤の上に成り立っている、というような絵を描いているくらいだから、そこから原始人の思い描く世界のスケールがどのようなものであったかはだいたい想像がつくだろう。それは、狭い世界しか知らなかったという以前に、「未来」や「いまここにないもの」を思わない習性で生きていたということを意味する。
われわれ現代人にだって、水平線の向こうは「何もない」と思う感覚は残っている。人はそのようにして海を眺めながら失恋の傷を癒しあきらめてゆく。演歌の失恋の旅は、圧倒的に海に向かう旅が多い。
人間は目の前のわからないものは徹底的に探究し、目の前にはないものは忘れたりあきらめたりしてゆく。原始人は、未来を思わないで「いまここ」に体ごと反応してゆく作法で暮らしていた。そしてそれは、日本列島の伝統の無常観でもある。



縄文人は、水平線の向こうは「何もない」と思い定めて生きていた。そういう社会からは、制度的な欲望(観念)の産物としての「神」も「霊魂」も「呪術」も「戦争」も「共同体」も「支配」も生まれてくるはずがない。
未来も目の前にないものもむやみに思わない……日本列島にはなぜ原始的な心性が色濃く残っているのか。
世界は、7千年前のメソポタミア文明の発生のころから、すでに「異民族との軋轢」の歴史を歩み始めている。そこから「神」や「霊魂」や「呪術」や「戦争」や「共同体」や「支配」という制度的な欲望(観念)が肥大化していった。その観念性は、人伝い集落伝いに、やがてはアフリカやアマゾンの奥地まで伝わっていった。
しかし海に囲まれた日本列島にそれらの観念性が伝わってきたのは、大和朝廷ができるころの2千年前以降のことだった。そのあいだ日本列島では、ひたすら原始的な心性を洗練させながら文化を紡いできたわけで、日本列島にそれらの観念性が上陸してきたころには、すでに日本的な心性や文化の基礎ができ上がっていた。
日本列島はイギリスなどとは違って大陸から遠いし、世界有数の海の難所に囲まれている。イギリスなど、ドーバー海峡をはさんで大陸とはほとんど目と鼻の先である。そのイギリスでさえ大陸とは少々異質のメンタリティと文化を持っているというのなら、日本列島はもっと異質のはずである。
イギリスがローマ帝国支配下にあったころ、日本列島はまだ孤立した島国のままだった。
日本列島が実質的に外圧にさらされたのは幕末以降のことだろうが、そのときはすでに西洋人も一目置くほかないようなメンタリティと文化をそなえていた。
西洋人は、目の前のわからないものはけんめいにわかろうとする民族である。だから彼らは、この国を侵略して支配下に置いてしまうよりも、少し離れて観察してみようと思ったのかもしれない。彼らは、この国の文化やメンタリティを壊してしまうことをためらった。つまり、この国に上陸して戦争という破壊行為をすることをためらった。
西洋人は、自分たちが一目置く文化は、けっして壊そうとしない。
「神」や「霊魂」や「呪術」や「戦争」や「共同体」や「支配」という制度的な欲望(観念)なら、西洋がいちばん発達している。そんなことなら、インドや中国にも負けない自信が彼らにはあったにちがいない。しかし、それらの観念性が希薄なままそれなりの洗練に達しているこの国の文化は、彼らの好奇心をおおいに刺激した。そしてそれを壊してしまうことをためらった。
幕末から約100年後のアメリカですら、天皇を抹殺してしまうことをためらった。
ただの駆け引きや意気込みだけでこの国を守れると思うべきではない。まあ、運がよかっただけなのだ。向こうが「壊してしまってもいい」と思ったら、きっと壊されていただろう。



この国の特殊な文化がこの国を守ってきた、ということはあるかもしれない。世界中のどこの国だって、「神」や「霊魂」や「呪術」や「戦争」や「共同体」や「支配」という制度的な欲望(観念)の病理をどのように克服してゆけばいいのかという課題は背負っているのであり、たぶん西洋人は無意識のうちに、この国でそのような観念性が希薄なまま歴史を歩むという人類史の実験がなされてきたことに気づいている。
そういう観念性の長い歴史を歩んできた西洋人は、すでにそのことの病理に気づいている。だから、近代に入ってから「神は死んだ」という主張が繰り返し語られている。
そしてそのような観念性の歴史を持たないこの国の住民がいまさらのようにそのような観念性の獲得を目指したのが戦後の左翼市民主義だったのかもしれない。
市民主義は賞味期限が切れかかっているのだろうか。市民主義は、この国の伝統になじまない。
かといって天皇に寄生する右翼の思考がこの国の伝統を正確に射当てているとも思えない。
具体的なことをいえば、僕は、天皇が男であっても女であってもどちらでもよいと思っている。天皇天皇であればそれでいいのだ。われわれはいつも天皇のこと思って生きているわけではないし、天皇にすがって生きているわけでもない。ただ、天皇を祀り上げて歴史を歩んできたという風土があるというだけのこと。ここでは、その風土について考えている。権力者は天皇にすがって生きてきたが、民衆にとっての天皇はそんな存在ではなかった。民衆は、天皇がどんな存在であらねばならないかということなど考えない。天皇天皇であればそれでよい。
一緒に暮らす女がどんな女であらねばならないこということなど考えてもしょうがない。女が女であればそれでよい。まあ、誰の心の底にもそんな感慨が横たわっているのではないだろうか。それが、基本的な男と女の関係ではないだろうか。
寒くてしょうがないから男と女が抱き合って寝ていたネアンデルタールに、相手がどんな女であれねばならないとかどんな男でならねばならないとか、そんなことはあまり考えなかっただろう。男が男であればそれでよかったし、女が女であればそれでよかった。それが男と女の関係の基本であり究極でもある。それが、人と人の関係の基本であると同時に究極でもある。「あなた」が「あなた」であればそれでいい。
この生なんかろくなものじゃないが、それでも人はその生をひとまず受け入れている。この生はこの生であればそれでよい、それが人間のこの生に対する感慨の基本であり究極のかたちでもあるのではないだろうか。そういう感慨の形見としてこの国の民衆は、天皇天皇であればそれでよい、と思っている。
権力者や右翼は天皇にしがみついて天皇をいじくりまわしているが、民衆にとっての天皇はそういう存在ではない。人と人の関係の「他界性」、「わたし」は「あなた」を支配することはできないし、「あなた」がどんな人間であるべきかと望むことはできない。「あなた」が「あなた」であればそれでいい、という関係性、そういう関係性=他界性の形見として天皇が存在する。



天皇がこの世のもっとも清浄な存在の象徴=形見であるとすれば、それは、天皇がどんな存在であるべきかということは誰も思うことができない、ということでもある。この世のもっとも清浄な存在は、存在すると同時に存在しない、存在しないと同時に存在する。まあ、色即是空、空即是色、といってもいいのだが、日本列島の住民の伝統的なこの生やこの世界に対する感慨の形見として天皇が存在してきた。
民衆は、天皇がどんな存在であればと願うことはしない。天皇はすでに存在している。ただもう、天皇天皇であればそれでよい。
清浄な存在は空気のような存在だから、うまくイメージすることができない。うまくイメージすることができない対象が清浄な存在なのだ。そういう対象として天皇が存在している。相手がどういう存在であるべきかと要求する心を持たないための形見として。
つまり、「あなた」が「あなた」であればそれでいい、という人と人の関係の基本であると同時に究極でもあるかたちの形見として天皇が存在している。
天皇が男であろうと女であろうと、どうでもいい。まあ天皇家には天皇家の伝統的なしきたりがあるのだろうが、そんなことはわれわれ民衆の関知することではない。
どうでもいいから、歴史的にもともと女であったはずの天皇が男になっていったのだ。男でなければならないのは権力者の都合であったのだが、それでも民衆にとっては、天皇天皇であればそれでよかった。
民衆のそういう気持ちは、権力者にはわからない。
男系天皇であることこそ人間性の普遍だという人は多いが、そんなことはどうでもいいということこそ人間性の普遍なのだ。「あなた」が「あなた」であればそれでいい。
そんなことなど、なりゆきでどっちでもいいではないか。まあ、天皇家で決めてくれればそれでいい。民衆はそれを粛々と受け入れる。権力亡者の右翼ばかりが、ああでもないこうでもないと騒いでいる。
日本列島の民衆の、そんなことはどうでもいいと受け入れ祀り上げてきた伝統こそ、「神」や「霊魂」や「呪術」や「戦争」や「共同体」や「支配」という制度的な欲望(観念)の歴史を歩んできた西洋人が「ミステリアス」だとも「クール」だとも思うゆえんなのだろう。
「どうでもいい」ということ、それは「神という規範」を持たない民の心の動きである。
どうして権力者や右翼は、天皇はかくあらなばならない、というような「規範」を持つのだらろう。そうやって西洋人と同じ観念の土俵に立って「どうだ、天皇は素晴らしいだろう」と自慢しても、おそらく鼻でせせら笑われるだけだ。
天皇は素晴らしくなくてもいい、天皇天皇であればそれでいいのだ。
民衆は、天皇に対して何も望まない。ただもう、天皇が存在することを思い感じているだけだ。
人は、この世に「あなた」が存在することを思い感じながら生きている。そのことの形見として天皇が存在しているのだが、ふだんは天皇よりも「あなた」のことを思いながら生きている。
天皇は、思う対象であると同時に、思うことのできない対象でもある。
いつも天皇のことを思っているなんて、「あなた」に対する思いを喪失したニヒリズムである。意識は二つのことを同時に思うことはできない。意識はつねに何かについての意識である。
天皇のことは、目の前にあらわれたときに、そのありがたさを思えばよい。
何度でもいう。天皇は、「私」が「あなた」のことを思うための形見なのだ。そういう人間存在の根源とかかわって天皇が存在している。
国のかたちがどうのなんて、民衆にとってはどうでもいいことなのだ。「どうでもいい」ことの形見として天皇が存在している。
「清浄」とは「どうでもいい」ということだ。



権力者や右翼が、天皇が存在するこの国のかたちをどんなに自慢しても、西洋人は鼻でせせら笑っている。国のかたちを自慢する心(=観念)なんか、彼らにとっては「ミステリアス」でも「クール」でもなんでもない。
そんな自慢なんか、中国人や韓国人だって持っている。同じ土俵に立って「俺の国の方が素晴らしい」などといってもせんないことだ。
国の自慢なんかしないところが、日本列島の伝統なのだ。「憂き世」こそ日本列島の住民の棲家なのだ。
権力者や右翼が天皇を思う心の動きは、民衆のそれと決定的に乖離している。彼らに「日本人」を代表されても困るし、それはこの国に天皇が存在することの真実ではない。
日本列島の住民は、国よりも「あなた」が存在することを思い感じながら生きている。そのための形見として天皇が存在してきた。そういうことは、彼らにはわからないだろう。
この国の現在が右傾化してきていることの原因のひとつとして、戦後の市民主義によって誰もが「権力」に目覚めてきたという皮肉があるのかもしれない。市民主義とは、市民が権力を持つという思想である。その市民意識=権力意識が、場合によっては天皇に寄生するという心の動きになってゆく。
日本列島の住民は、伝統的に、権力に目覚めると天皇に寄生してゆくという習性を持っている。そうやって彼らは、天皇がいるこの国は素晴らしい、と自慢している。でも外国人は、その態度を見て鼻でせせら笑っている。
どんなに自慢しても、あなたたちは鼻でせせら笑われているのだ。
お国自慢の観念なんか西洋人にとっては珍しくもなんともないし、彼らはすでにそんな態度を卒業しようと模索し始めている。それは、右翼がいうように人類みな兄弟になることでも、左翼がいうように人類がみな「市民」になることではない。「あなた」は「あなた」であればそれでいい、と棲み分けてゆくことが模索されている時代なのではないだろうか。
天皇の素晴らしさなど自慢してもしょうがない。そんなことをいっているから、「大東亜共栄圏」というような思考になってしまう。
人間存在の根源=普遍のかたちを彼らの前に提出して見せないといけない。
この国は素晴らしいと自慢するよりも、世界中に向かってあなたたちだってそうではないかといえなければならない。
人間なら誰だって心の底に「人間の自然」を共有しているはずだ。
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