人間の自然と人間の理想・「天皇の起源」54


10数万年前のネアンデルタールのころ、人類が「埋葬」という行為をはじめたのは「霊魂」という概念を発見したからだという説もあるが、おそらくそういうことではない。
ただもう、どうしようもなく悲しかったからだろう。人類は歴史とともにだんだん深く悲しむようになってきた。死者との別れの悲しみが極まって、埋葬をはじめた。
死んでもまだ霊魂が残っていてそれをなだめてやるためだとか、霊魂をあの世に送ってやるためだとか、死者の霊魂と対話するためだとか、原始人がそんな作為的でややこしいことを考えるものか。僕だってそんなことは少しもピンとこない。この歳まで生きてくれば何度か葬式に臨んだことはあるし、両親もすでにこの世にいないが、そんなことは考えたこともない。多くの人が嘆き悲しんでいるのを見てきただけだ。
死者はもう帰らない。もう一緒に語り合うことも暮らすこともできない。その事実を前にすればもう、驚きうろたえ、嘆き悲しむしかない。その事実の陰影を深く豊かに感じるようになっていったから埋葬をはじめたのだ。
埋葬は、死者の霊魂との対話としてはじまったのではない。どうしたら死者はもう帰らないという事実と和解できるかということを思いあぐねていたたまれなくなったからだ。
悲しくて、そうかんたんに遠くに捨ててくるということはできない。かといって死体をそのままにしておけば、だんだん腐ってきてひどい匂いがしてくる。
あきらめきれないからそばに置いておきたいが、それはできない。だったらもう、自分たちが暮らしている場所の土の下に埋めるしかない。ネアンデルタールは、自分たちが暮らしている洞窟の土に死体を埋めて葬った。それは、あきらめるまでの猶予を持とうとする行為だった。
人間は、死者はもう帰らないという事実と和解するために葬送儀礼をする。それはもう、現代人だってそうなのだ。死者と対話するとかあの世に送るとかといっても、ようするにそのために見い出されてきた方便にすぎない。そういうことにしないと諦めきれないからだ。
人類は、死者と対話をするために埋葬をはじめたのではない。死者と対話することを諦めるために埋葬をはじめたのだ。
死者と対話するためだなんて、原始人はそんな虫のいいことを考えなかった。現代人は、そんなことを考えながら、それが自分の清らかさのつもりでいるのだろうか。なんだかしらないが、いまどきはそういうたぐいの映画や小説がけっこう流行っている。
死者に線香を手向けるといっても、もともとは死者と対話するためではなく、死者との別れと和解するためだったのだ。
原始人は、ひたすら悲しみ、ひたすらその別れと和解しようとしていった。そのための行為として埋葬がはじまったのであり、現代人よりも原始人の悲しみの方が直截的であるぶんはるかに深かった。
死者と対話するなんて、文明病なのだ。原始的であるというのは、そういうことではない。
まあ、「神」とか「霊魂」とか「天国」とか「極楽浄土」というのは、文明の病理としてのひとつの「理想論」に違いない。人間性の自然が希薄なものほど「理想論」を語りたがる。
「理想の国家(社会)」とか「理想の家族」とか「理想の生き方」とか、やめてくれよと思う。



人間は嘆く生き物である。
人間は、二本の足で立ち上がった瞬間から、嘆きとともに生きる存在になった。それは生きにくさを生きる姿勢であり、人間ほど深く嘆く生き物もいない。
人間は深く豊かに喜ぶではないかといっても、深く豊かに嘆くということが基礎にあるからだ。そこからしか深く豊かな喜びは生まれてこない。
そうやって歴史とともにこの生の陰影が濃くなってきて、埋葬ということをはじめた。知能が発達したということだって、まあそういうことだ。
嘆く生き物だから、「祀り上げる」ということをせずにいられない。そうやって嘆きをなだめながら生きてゆこうとする。
人は、祀り上げる対象を持っていないと生きられない。
日本列島の住民は、ともあれ天皇を祀り上げて歴史を歩んできた。
その天皇をなくせということは、祀り上げる対象を捨てろということだ。
人は、さまざまなものを祀り上げて生きている。ただ、みんなが共有して祀り上げる対象がなければ集団は成り立たない。
サッカー部は、みんなしてサッカーを祀り上げている。まあ、そんなようなこと。
では、資本主義とか共産主義とか市民主義とか、そんな社会のかたちをみんなして祀り上げればいいのか。
西洋人は公共心があるから、そういう社会=国のかたちのイメージでひとまずまとまってゆくことができる。
しかし日本列島の住民にとっての社会=国は、伝統的に嘆くべき対象である「憂き世」なのである。だから、どんな社会=国のかたちであろうと、それをみんなして祀り上げてゆくことはできない。
まあ権力者は、社会=国のかたちを祀り上げている。みんなが権力者のような心になれば、それが成り立つのだろう。それを、「市民主義」という。「市民」とは、権力の亡者の別名である。



西洋社会は、誰もが他者に対する権力を持つことの上に成り立っている。説得することすなわちコミュニケーションとは、他者に対して権力を行使することである。
しかし、日本列島も同じような社会の構造になっているわけではない。われわれは説得することが下手な民族であり、言葉そのものがそのような機能にはなっていない。
誰も他者を説得しない、しかし誰もが他者から学んでゆく。そういう社会なのだ。
説得し説得される(=支配し支配される)という相互関係ではない。自分が語ったことを相手がどのように受け止めるかは、相手の勝手なのだ。自分の口から離れた言葉は、すでにもう自分のものではなく、共有されているものである。それが同じ意味かどうかはわからない。ただもう、その言葉を「共有している」という思いだけがある。
言葉の「姿」を共有しているだけで、「意味」を共有しているのではない。「りんご」という音声はどちらにとっても「りんご」だが、「りんご」の意味が同じとはかぎらない。これが、この国の言葉のルールである。
言葉の意味を限定しない。限定してしまえば説得しやすいが、それでは言葉のニュアンスが広がらない。言葉のニュアンスに広がりを持たせながら、言葉の「姿」だけを共有してゆく。日本列島の住民は、そうやっておしゃべりを交わしている。古代人はそれを「ことだまの咲きはふ」といった。
「ことだま」とは、「言葉の姿」というようなことだ。べつに「言葉の霊魂」とか、そういうことではない。縄文人弥生人は「霊魂」などというものは知らなかった。
日本列島の住民は、「意味」を共有してゆくような「霊魂」などというものを信じていない。他者の霊魂を説得できるなどとは思っていない。
意味を限定してたがいに縛り合う関係になることは鬱陶しい……古代人には、そういう思いがあった。社会とは意味を限定して縛り合う関係になってしまいがちなところであるが、できるかぎりそういう関係になることを回避したいという思いがあった。やまとことばはもともとそういうコンセプトの言葉だったのだが、共同体ができて時代を経るにしたがって意味が限定されてくるようになった。
それでも現代の日本語だって、意味に縛られないというもともとの性格を少なからず残している。それは、意味で縛り合うこの社会=国を「憂き世」と思い、社会=国を祀り上げることはしないというコンセプトである。
したがってこの国の民衆は、資本主義だろうと共産主義だろうと市民主義だろうと、「社会=国のかたち」を祀り上げてゆくようようなメンタリティにはなっていない。
知識人や資本家も含めたリーダー=支配権力者だけが、意味で縛り合う「社会=国のかたち(=国体)」に執着している。彼らは、日本列島の伝統から逸脱した人種なのだ。彼らにはこの国の伝統はわからない。
そもそもこの国の権力は、縄文・弥生時代以来の伝統から逸脱するかたちで発生してきた。
その身分がなんであれ、権力=コミュニケーションに執着するものには、この国の伝統はわからない。われわれ民衆がいかに深く「憂き世」という思いを抱えて生きているかということがわからない。だから「愛国心を持て」だの「国家や国旗を敬え」などと平気で押しつけてくる。
戦後の市民主義や生命賛歌は彼らのあいだに広がっただけで、民衆の中には定着していない。
日本列島の民衆は、「社会=国のかたち」を祀り上げて生きてゆくことができない。「社会=国のかたち」を「憂き世」と思って生きてゆくための形見として天皇を祀り上げてきた。



誰かが「国民国家」などといっている。
国民国家」とは、支配者が外圧のことなど忘れて国民を飢えさせないことだけに心配りしている国家なのだとか。
なんだか国民が支配者に食べさせてもらっているような言い方だが、そうじゃないだろう、この社会は国民が支配者を食べさせているのではないのか。
国民が支配者に食べさせてもらっている時代など、いまだかつて一度もなかった。とくにこの国の歴史においてはいつだって国民自身の連携で食べてきたのであり、江戸時代までの外圧を忘れていられる状況で支配者が身につけてきた習性は国民から搾り取ることだけだった。
彼は「国民国家」が解体の危機に瀕しているというが、この国にそういう意味での「国民国家」など存在したためしがないのだ。
現在のこの国の政府は、国民のためではなく、グローバル大企業のための政策ばかり進めているのだという。そうかもしれない。しかしそれが支配者の本能だろうし、支配者なんていつだってそんなものだ。支配者が悪いというより、選んだ国民が悪い。
しかしそんな支配者を国民が選んだということは、まだ多くの人が飢えていない世の中だからだろうか。
人間は、飢えるかどうかという心配などしない。飢えてから考える。飢えてから人間的な能力が引き出される。だから地球の隅々まで拡散していった。飢えることが文化・文明を発達させたともいえる。
「憂き世」こそ人間のすみかであり、因果なことに人間とはそういう生き物らしい。だから民衆は、支配者に搾取されることや、戦争に駆り出されて命をボロ雑巾のように使い捨てられることを受け入れてしまう。
サラリーマンが、ワーカーホリックになって、血を吐いたり頭が変になるまで働かされてしまうことだって、まあそういうことかもしれない。それはもう、スポーツで猛練習したり、冒険家が死ぬかもしれないと思いながら冒険の旅に出てしまうこととまったく別のことだともいえない。
人間は、避けがたく「憂き世」を生きてしまう。人間のこの習性は、いかんともしがたい。この習性で文化・文明が発達してきた。
支配者なんか、いつの時代もろくな人種ではない。それでも民衆は、支配者を赦してしまう。それは、この生なんかろくなものじゃないと思いながらこの生を受け入れてしまうことと同じだ。人間なんか、そういう生き物なのではないだろうか。
やまとことばは意味で他者を縛ることを避けようとする言葉であり、支配者とは意味の中に民衆を縛り付けようとする人種である。
国民国家」などという概念は言語矛盾だろう。国家などというものは、支配者のものであって、国民のものではない。生き延びたいのなら、支配者など忘れて自分たちで連携してゆくしかない。支配者が国民のことなど考えないのは、この国の支配者の伝統であり本能なのだ。
支配者を当てにするから、つまらない支配者を選んでしまう。
日本列島の住民は、伝統的に国家という単位をみずからのアイデンティティにはしてこなかった。だから、江戸時代まで国歌も国旗もなかったし、いまだにうまくなじめないでいる。
われわれにとって国家は「憂き世」であり、それでもそれを赦して生きてゆくための形見として天皇が存在してきた。



国民国家」などただの幻想であり、絵に書いた餅にすぎない。そんな空想ばかりしているからおかしなことになってしまう。支配者だって、いい国家にしないといけないという。そのイメージがなんであれ、みんながそう考えている。
しかし、いい国家にしないといけないということ自体が倒錯なのだ。誰もがそう考えておかしなことになってしまっている。戦後社会は、誰もがそう考えて動いてきた。現在がおかしな状況になっているとしても、それは戦後市民主義の必然的な帰結なのだろう。
もともと日本列島の民衆には、「いい国家」などというイメージはない。ないのにイメージしようとするからよけいおかしくなってしまうのかもしれない。
「いい国家」を願わないといけないような風潮がある。もともと国家のことなど勘定に入れずに民衆どうしの連携で歴史を歩んできた民族なのに。
国のことなど知ったことではない民衆は、「国のかたち」に執着する支配者と棲み分けて歴史を歩んできた。
国家など、どうでもいい。日本列島の住民は、「いい国家にしなければならない」というスローガンに賛同してゆくメンタリティが希薄である。実務家として有能な政治家は支持されるが、理想の国家論などには、じつはあまり興味がない。それは、政治意識が低いといえばまあそうなのだが、この世界を「憂き世」と思い定めているからだ。
日本列島の民衆の伝統においては、「理想の国家など存在しない」という前提で、その「憂き世」という感慨を共有しながら天皇を祀り上げてきた。それは日本列島の住民の美意識であり、その美意識を共有してゆくことの形見として天皇を祀り上げてきた。それはまあ天皇だけのことではなく、やまとことば(日本語)そのものがそういう機能になっている。
すべてのことは赦されている……人間はどうしてもこの状況を生きてしまう。そして、この状況の上に乗っかろうとするものと、この状況それ自体を生きてしまうものがいる。これが、支配者と民衆の関係だろうか。権力意識が強いものと薄いものの差だろうか。
人類は、あるとき「権力」というものを発見してしまった。西洋社会はその「権力=コミュニケーション」を肯定しながら歴史を歩んできたし、日本列島では、肯定するものと否定するものが棲み分けながら歴史を歩んできた。
まあ、人は誰もが権力の肯定と否定を使い分けながら生きている、というべきだろうか。
そして、日本列島の文化の特殊性は、権力の否定を色濃くそなえていることにある。
理想の国家論を語れば問題のすべてが解決されるわけでもない。誰の中にも、国家という権力を鬱陶しがる思いと、その権力に庇護されたいという思いがある。権力意識の強いものほど権力に庇護されたいという思いも強く、そうやって権力を肯定しながら権力者になってゆくのだろう。
日本列島の民衆は、理想の国家像ではまとまりきれない。そこにこの国の現在の難しさがあるのだろうか。
この国には、「理想の国家像」も「理想の支配者=リーダー像」も「理想の家族像」も「理想の父親像」も「理想の母親像」もない。それは、「神」のない国だからだろうか。
そんな理想なんか語っても空しい。そんな理想を語ることがニヒリズムなのだ。
この国の伝統においては、この生もこの世界も嘆きつつ受け入れてゆくことができる美意識と人間性の自然を問いながら歴史を歩んできた。
国家や家族や人間の生き方の理想を語るなんてただのニヒリズムであり、この国の伝統としての美意識や自然な人間性が貧弱だからだ。
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