「翁」という他界・「天皇の起源」41


何も知らない生まれたばかりの子供のような心で新しい「いまここ」に体ごと反応してゆけばいいだけだ、というのが中世の無常観だった。そしてそれが直立二足歩行以来の人類の伝統であり自然であり、究極の知性のかたちでもある。
それは、未知それ自体を生き未知と出会うことであり、生きてある「いまここ」を味わいつくすことである。
その無常観が平安朝のオカルトの時代を終わらせたのだが、それは日本列島の歴史がはじまった縄文・弥生時代の清新なダイナミズムに遡行することだった。
時代を乗り越える力は、未来を予測しない態度にある。
未来を予測してもその通りにならないのが新しい時代である。予測しないで未知の新しい「いまここ」に体ごと反応してゆくという、そんな原始的なイノセントとダイナミズムが現在の若者のあいだから生まれつつあるだろうか。
まあ、僕にはよくわからない。しかしそこからしか新しい時代ははじまらないということはいえそうな気がする。
未来のよりよい社会をめざす、などというようなことをいっていても新しい時代はやってこない。そんな発想をしても大人たちの既得権益を温存させるだけだ。未来などわからないのが新しい時代なのだ。その「わからない」という事態を生きることができるイノセントとダイナミズムが新しい時代を切り拓く。
新しい時代に、大人の経験知など通用しない。
大人の経験知が役立つのは、新しい事態が起きない停滞している時代である。つまり、そうやって大人の既得権益が守られている。
現在は、そういう時代であるのか、ないのか。



貴族社会のオカルト信仰が衰退して「無常観」が起こってきたことに中世の新しさがあったわけで、それは大人の経験知など通用しない時代だったはずである。
能には「翁舞」というのがある。
中世の「翁=老人」とは、どのような存在だったのだろうか。
平安時代には「養老伝説」などというものが流行った。それは「大人=老人の知恵」を大切にしようという教訓話であるのだが、そうやって貴族をはじめとする大人たちが既得権益を守ろうとしている時代だった。したがって、その延長として中世の「翁」のイメージがあると考えるべきではない。
たとえば、中世以来の「姥捨て伝説」は、「養老伝説」の延長上にあるのか?
そうではあるまい。なにしろそれは、年寄りを山に捨ててくるという話なのだから。
べつにそんなことをほんとうにしていたとも思えないが、子を産めなくて家に居づらくなった女とか連れ合いを亡くした老人などが村はずれの山の中に掘立小屋を建ててひとりで住むというようなことが流行り出した時代だった。
つまり、そういう「隠遁生活」に対するあこがれと連動して「姥捨て伝説」が生まれてきたのではないだろうか。
「大人¬=老人の知恵」なんか振り捨てて漂泊している存在こそ「翁」だったのだ。
現在の老人だって、ひとまず共同体の動きから離脱している漂泊者ではないか。そういう「翁」が持っている「姿」の美しさとはどこにあったのかということこそ、中世の「翁舞」の主題だったのではないだろうか。



「翁」については折口信夫の「翁の発生」という有名なテキストがあるが、これがまた自分の博学を見せびらかし羅列するだけの鬱陶しい文章で、あの時代のほんとうの「翁」の姿がいっこうに見えてこない。
まあ、翁とは神の似姿である、と折口はいいたいのだろうか。そんなようなことが書いてあった。
しかし僕は、そうは思わない。
中世の人々が簡単に神や仏のことを忘れてしまったとは思わないが、中世は、神や仏のイメージに翻弄される人間そのものの姿をもっと率直に見直そうというムーブメントが起きてきた時代だったのではないだろうか。
猿楽能の舞に関していえば、その動きの「意味」ではなく、もっと率直に動きそのものの「姿」の美しさを表現しようとする流れになってきたのではないだろうか。
なぜ翁舞が生まれてきたかといえば、猿楽の原型としての曲芸の無駄な動きをそぎ落としてゆこうとする流れになってきたからだろう。
曲芸は、ひとつのオカルトである。猿楽は、そのような芸として平安時代に生まれてきた。
猿楽の先輩格である田楽は語り芸が中心で、それに対して猿楽は身体芸であることが売り物だった。
ひとまず田楽にも舞の要素は備わっていたが、語り芸が中心だったということは、呪術的であったことを意味する。呪術的であることによって、平安時代の世相に受け入れられていた。
それに対して猿楽は、いち早く呪術から決別していった。そしてそのような流れから能の神髄としての翁舞が育ってきた。



世阿弥が「萎れたるこそ花なり」といったように、翁舞とは、よけいな動きをそぎ落とす形式だったのだろう。
折口信夫は、猿楽は呪術的要素や神事的要素すなわちそうしたオカルト的宗教的な要素とともに能へと発展していったと考えているらしいが、たぶんそうじゃない。それらの要素をそぎ落としていったのだ。そうして純粋に舞の姿の美しさを追求していった。だから、語り芸としての狂言が分化していったのだろう。呪術的要素や神事的要素は狂言が担っていった。
観客はそこで、呪術的要素や神事的要素を味わって猿楽能に拍手をしていたのではない。純粋に舞や謡や囃子の美しさを鑑賞していた。
猿楽は、呪術的宗教的な御利益よりも、純粋な娯楽芸能へと傾斜していった。だから、田楽が農村に根をおろしていたのに対して、猿楽は都市部で歓迎されていった。
能の翁舞は、国宝級の名人が披露する、とっておきの演目のひとつになっているのだとか。それが神の似姿だからか?折口信夫はそういうのだが、たぶんそうじゃない。そんな安直で卑しい発想をするものではない。
日本列島の住民は、縄文・弥生時代からすでに、純粋に舞う姿そのものに対する美意識を持っていた。翁舞は、もっともシンプルでもっとも高度な動きの表現として生まれ育ってきたのだろう。
それが神社やお寺で催されていたものであるとしても、まず美しい「姿」を持っていなければ民衆は感動しない。猿楽能のライバルである田楽は、旧来の神や仏のありがたさで説得しようとする方法論にこだわって衰退していったのだ。
中世において、なぜそのような明暗が生まれていったかという対比はあるはずだ。折口信夫は、両者は似たようなものでともに呪術的宗教的効果を競い合っていたというのだが、だったら猿楽と田楽というような別々の呼び方はしないし、最終的に両者は合流してひとつになっただけだろう。



能は、怨霊とか怨念というものを鎮めるための呪術的宗教的な効果を意図した構成ではなく、むしろそれらを止揚し昇華してゆくカタルシスを表現している。つまり呪術や宗教それ自体ではなく、呪術や宗教に翻弄されている「人間」を表現していったのだ。そこに、猿楽能の新しさがあった。
猿楽能は、「もどき」という曲芸やものまね芸として出発した。だからこそ、ひたすら神や仏に視線が行っていた田楽よりも、身近な人間そのものに対する視線を獲得してゆくことができた。
もちろん中世の猿楽能の集団は神社や寺に所属していたのだが、神や仏のありがたさよりも、神や仏とかかわる人間そのものを表現していった。
また、神や仏のありがたさを説く教訓的な演目の多くは淘汰されていった。おそらくそれでは田楽に対抗できなかったし、そのような演目に民衆がついてこない時代になりつつあった。
神や仏をうやまう「大人¬¬=老人の知恵」という既得権益が崩れていった時代だった。
とはいえ平安時代にはあれだけオカルト的なってしまったのだから、人々はもう、神や仏や死後の世界のイメージから離れることはできなかった。中世の宗教者は「あの世=他界」と交信できる存在だった。だから猿楽能でもそういう行為は表現されているが、呪術的宗教的な解決はつねに微妙にぼかされている。その劇的な効果は、未来の解決に向かうカタルシスではなく、「いまここ」のあいまいさそれ自体を「幽玄の美」として昇華してゆくことにあった。
つまり人々は、未来の解決を求めるのではなく、「いまここ」の「未知=他界」と向き合う態度で生きようとしていた。
能が「他界=死後の世界」をモチーフにしているといっても、平安時代の未来的な浄土信仰の延長ではない。彼らにとっては「他界=死後の世界」すらも「いまここ」の世界だったのであり、その「他界としてのいまここ」との交信を描いているのだ。
そのとき生者と死者は、この世界と他界の境界で向き合っている。その、この世界でもなく他界でもない「境界」において「幽玄の美」が生まれる。
猿楽能は、折口信夫がいうような「平安時代の呪術や神事の延長」として育ってきたのではない。むしろ、そういうことから決別する世界観があった。たとえ死後の世界が語られていても、平安時代のような迷信深い世界観ではなかった。



中世の一部の老人は、村の生産活動に参加できなくなれば、村はずれの山の中に小さな掘立小屋を建てて住み、ときどき村に下りてきて乞食をしてまわるというような暮しをはじめた。家を出てきた女も、娼婦になって里からやってくる男の相手をした。
中世の村(共同体)には、そういう「他界」があった。しかしこれは、縄文時代以来の伝統的な習俗だったのであり、大和朝廷律令制の強化のためにいったん中断させられていただけなのだ。
「翁」といっても、村の一員としての老人ではなく、そのような村はずれの山の中に住む員数外の老人がイメージされていた。まあそれは神に近い存在だといえばそうなのだが、つまり「他界性」を持った存在だったということだ。
中世は、「他界性」が強く意識されていった時代だった。能における「死後の世界」もそのひとつで、それだけ共同体に対する「憂き世」という感慨が極まった時代で、隠遁というドロップアウトが流行した。
つまり、一部の老人にとっては、既得権益にすがって共同体の一員であることよりも、ドロップアウトしてゆくことの方があこがれになっていた。
日本列島の住民は、「他界」を、天国や極楽浄土や海の向こうとしてではなく、「いまここ」のものとしてイメージしてきた。
縄文人の多くは山間地に小さな集落つくって暮らしていた。それは女子供だけの集落であり、彼らにとっては山の向こうはすでに「他界」であり、その「他界」からやってくる旅する男たちの集団を迎え入れ交流してゆく暮らしをしていた。そのようにして彼らにとっての「他界」は「いまここ」にあった。
そんな暮らしから、新しい一日一日が未知の「他界」であるという日本的な無常観の伝統が生まれてきた。
「他界との交信」は能の物語の重要なコンセプトのひとつだが、それはもう縄文以来の伝統の習俗だったのであり、日本列島におけるその「他界」は「いまここ」の中に設定されている。
日本列島土着の「他界」というイメージは、遠い「神仏の国」としてではなく、「いまここ」の身体的実存的な感覚の上に成り立っており、中世は、そういう伝統がよみがえった時代だった。「翁舞」は、そこのところが問われなければならない。



翁とは「無用」の存在であり、それが翁の「他界性」だった。そしてそういう「他界性」を「いまここ」のものとしてイメージしてゆくのが猿楽能だった。
猿楽能の翁舞は、純粋に舞としてその「姿」の美しさ極めようとしたところから生まれてきたのであって、神性を表現しようとしていったのではない。平安時代の人々はその神性に怖れたりありがたがったりしたかもしれないが、中世はもうそんな意識ではなかった。
老人は無駄な動きはしない。昔は、とても美しい歩き方をする老人がいた。野良仕事とか家事などとは無縁の世界で生きてきた老人は、腰などは曲がっていない。死ぬまで旅をしていたという西行松尾芭蕉はそういう歩き方をしていたのかもしれない。彼らは、社会的には「無用の人」だった。だからこそ、翁舞の基礎となるような美しい歩き方を持っていた。たとえば、あまり足を上げずに、滑るように、ひっそりと林を吹き抜けてゆく風のように歩くことができた。
たとえ乞食であろうと、昔の「無用の人」の老人は美しい歩き方を持っていた。それが、猿楽能における翁舞の基礎になった。まあいまどきは美しい歩き方を持っている老人などほとんどいないが。
猿楽能は、しだいに呪術や神事としての要素をそぎ落としてゆき、純粋に歌い踊り演じる娯楽芸能としての魅力をそなえていった。
翁は、折口信夫がいうように「神の似姿」として演じられたのではない。それに折口は、神は海の向こうからやってくる(=まれびと)などといって、日本列島の伝統的な「他界」のイメージを「いまここ」ではないところに置き、しかも日本列島の芸能は呪術・神事として発生し育ってきたと考えているわけで、そのような歴史認識をわれわれは納得できない。



「いまここ」に「他界」を見るのが日本列島の無常観である。というか、「いまここ」を強く意識すれば、「いまここ」の外はすべて「他界」になる。
山間地で暮らした縄文人は、まわりのたおやかな姿をした山なみに対する親しみと深い森に対する怖れが相まって「いまここ」を深く意識する人々だったし、そのぶん山の向こうに対してはことさら「他界」という意識になっていった。そうして旅する男たちが山の向こうの「他界」からやってくるのを待ち焦がれていた。また、山の向こうに旅立ってゆく男たちを切ない思いで見送っていた。
日本列島の伝統としての「他界との交信」は「いまここ」にない神とか未来との関係ではなく、もっと現実的な「いまここ」を豊かにする体験だった。
そういう他界性の象徴として、旅人よりももっと身近な存在である「翁」がイメージされていった。
翁を、腰の曲がったよぼよぼの老人と思うべきではない。中世のころは五十歳を過ぎればもう晩年だったのであり、腰が曲がってくるころにはすでに寿命が尽きていた。
中世の老人は歩きまわっていた。そして、医療が発達した現在と違ってあんがいあっさりと死んでいった。
あっさりと死んでゆくから、翁になれば死を覚悟し、死後の世界と交信した。現在のように「まだ死にたくない」と悪あがきしている時間の余裕なんかなかった。
翁の他界性は、ひっそりと林を吹き抜けてゆく風のように美しく歩く「姿」にある。
翁舞を問うことは日本列島の美意識と他界意識を問うことであり、さしあたり折口信夫がいうような「海の向こうから幸せを運んできてくれる神(¬=まれびと)」というようなことはどうでもいい。彼が説く日本列島の伝統としての美意識と他界意識は、あまりにも俗っぽくて品がない。それが真実ならそれでもいいのだが、そんな美意識や他界意識は彼の個人的な人格の卑しさの範疇でしかない。
「翁」とは「他界」の象徴的存在であるが、その「他界」は「海の向こう」でも「極楽浄土」でもなく「いまここ」の現実の中にあるということの象徴として「翁」がイメージされていたのであり、それが中世の無常観だった。
煎じつめていえば、田楽が「神のありがたさ」を表現しようとしていたのに対して、猿楽能は、純粋な身体表現としての「姿」の美しさをめざしていた。
美しい翁舞のことを「神さびる」などというのだが、それは、翁自身が神に変身しているというのではなく、翁の「姿」に「神の気配が宿っている」というようなことであり、「神の気配=他界性」が宿っているということだ。
「さびる」とは、鉄の表面に赤い錆(さび)が付着してくることと同じだ。その姿が「他界性」を帯びてくることを「神さびる」といったのであって、日本列島の住民は神という存在のなんたるかなどよく知らないのだ。



日本列島の芸能は、もともと縄文・弥生時代には純粋な娯楽として生まれ育ってきたのであり、中世の猿楽能はその伝統に回帰するものだった。
猿楽能のイノベーションは、呪術・神事になりかけた日本列島の芸能を、純粋な娯楽芸術として復興し自立させたことにある。
日本列島の無常観は、オカルトを洗い流す。
日本列島の伝統的な「他界」のイメージは、折口信夫がいうような「海の向こうの神の国」とか「極楽浄土」とか、そういうものではなかった。もっと身近な「いまここ」の身体的実存的感覚の問題なのだ。
日本列島の無常観にとって「いまここ」の外は「他界」であり、「いまここ」の中に「他界」を見るのが無常観である。村はずれに「他界」の存在である翁や娼婦や乞食が住んでいて、それもひっくるめて「村=いまここ」になっていた。
折口信夫が「海の向こう」などという遠いところを「他界」として設定したのはたんなる日本的な想像力の貧困で、そんなイメージは日本列島の伝統ではない。
明治生まれの彼が「神」という言葉を使うときは天皇を意識していたはずだが、天皇の祖先は「海の向こう」からやってきた人ではない。高天原からやってきたのでもない。奈良盆地の村はずれの山の中に住んでいたのだ。そしてそこは、「いまここ」であると同時に、決定的な「他界」でもあった。
日本列島の住民にとって天皇は、もっとも身近な存在であると同時にもっとも遠いあこがれでもある。そうやって天皇に寄生し甘える人もいれば、ただそこにいてくれるだけでいいとその「他界性」を思う人もいる。
折口信夫は、天皇に寄生し甘えていたから、天皇の「他界性」をそんな遠いところに設定しないといけなかったのだろう。
天皇の「いまここの他界性」を見ることができないから、天皇に寄生し甘えてゆくし、天皇を神にしたがる。
天皇は、神でなくても、遠いところからやってこなくても、人間として「いまここ」にいながらにして「他界」の存在なのだ。
日本列島の無常観は、生きてある「いまここ」の現実に「他界」を見ている。それが「もののあはれ」であり「はかなし」の美意識である。
天皇は日本列島の美意識から生まれてきた。そして日本列島の歴史は、神の歴史ではない。
無常観で神を打ち消し忘れてきた歴史なのだ。神を思っては忘れ、思っては忘れしてきたのだ。
なぜなら「神」は、もともと日本列島にはない概念だったからだ。なかったからこそ、天皇という存在が祀り上げられていった。
日本列島の住民は、政治的にも宗教的にも、とてもナイーブな民族である。日本的な政治とか日本的な宗教の伝統などというものはないと考えた方がよい。それらがこの国の運営にどれほど大きな位置を占めてきたとしても、それらは大陸からのたんなる借りものであり、稚拙でナイーブなだけである。
もしもこの国のあり方にいささかのアドバンテージがあるとすれば、独自の美意識の洗練があったということだけかもしれない。その美意識が天皇を生み出した。
ここでは、その、天皇を生み出した美意識の洗練はどのようにしてはぐくまれてきたかと問うているわけで、天皇が美意識をつくってきたと主張したいのではない。
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