「翁」は神の化身か?・神道と天皇(64)

中国には「老師」という言葉があり、日本列島の能では「翁」は神の化身であるという考え方もあり、老人は若者や子供よりも人間として優れた存在であるというようなことをいいたがる人もよくいるわけだが、その一方で日本列島の民衆文化においては「老いては子に従え」という格言もあり、老人のエラそうな物言いほど耳障りなものもない、という気分だってなくはない。
現在、内田樹西部邁の左右の両知識人は、さかんに老人(大人)礼賛と若者蔑視の言説をまき散らしており、まあ良くも悪くもそれが今どきの老齢化社会の秩序と停滞をもたらしているらしい。
たとえば能の「翁」の場合、それを舞うことは最高の名手だけに許されている。能の舞台のドラマツルギー本質は「日常世界と異次元の世界(霊界)との往還」にあり、「翁」はその本質の体現者になっている。たしかに老人はそうした生と死のはざまに立っている存在であり、生と死、すなわち日常と非日常の往還がこの生のいとなみというか醍醐味だといえる。「姥捨て山」だってひとまずそういう場所であり、「神のそばに行ってもらう」ということだろうか。
それにしても「翁」の面は、なぜあのような他愛ない笑顔をしているのだろうか。
「翁」は神の化身であるというのなら、まあそういうことだろう。しかしそれは死のそばにいる存在であるという意味においてであり、老人に生きるための特別な能力があるということではない。その、ただ他愛なく笑っているだけの表情は、ちょっと気味悪いにしても、べつに思慮深さが表現されているわけでもなかろう。
「翁」の面のその表情は、その「他愛なさ」にこそ人間としての尊厳がある、といっているのかもしれない。それは生き延びる能力ではなく、「いつ死んでもかまわない」という勢いで「非日常=死」の世界に超出してゆくことにある。
他愛なさとは、「いつ死んでもかまわない」という勢いのこと。
いちおう仏教文化が定着した中世においては「死の世界=霊界」という合意になっていたわけだが、宗教などと関係なく普遍的に人は「非日常の世界=他界=異次元の世界」を意識している。それはもう、宗教を知らない縄文人だって意識していた。
自分を忘れて他愛なく驚きときめいてゆくことは、心が「非日常の世界=他界=異次元の世界」に超出してゆくことなのだ。

「この生=自分」に執着していたら、他愛なく驚きときときめいてゆくことはできない。それは、この世界に対する「反応」が鈍いということだ。
べつに霊界とか天国ということなど知らなくても、人は避けがたく「非日常の世界=他界=異次元の世界」を意識してしまう存在なのだ。
環境世界の音は、音が発生したところで聞こえている。これはとても不思議なことで、意識がそこで発生していることを意味する。体の外で意識が発生しているのだ。
この生のいとなみは、この生から超出してゆくことにある。
体が動くことは、「今ここ=この生」の外に出てゆくことであり、われわれはそういうことを当たり前のようにしている。
人は生と死のはざまに立って生きている存在であり、「生=日常」にとどまっているだけでは命のはたらきも心のはたらきも停滞してゆく。この生の外(=非日常)に超出してゆくことがこの生のいとなみというか醍醐味であるわけで、われわれはそういう日常と非日常の往還をしながら生きている。
人の無意識は、宗教など知らなくても、すでに「他界=異次元の世界」にむかってはたらいている。
つまり、人の無意識においてはこの生は「けがれ」として認識されている、ということだ。だから、この生の外に超出してゆくというはたらきが起きる。そしてそれはひとつの「他愛なさ」として起きているわけで、「翁」の面があらわしているのは「他愛なさ」であって、世にいう「思慮深さ」でもなんでもない。
舞の美しさということにおいても、そのもっとも高度な表現は自然な気配としての「他愛なさ」にあるのであって、作為性でなんとかなるものではない。自然なただずまいというか姿というか、そういう気配に見るものは感動する。
バリ島の舞などは、処女の舞が最高のものとされている。アフリカにもある。それが世界中で共有されている美意識だともいえる。処女(=思春期の少女)の姿から自然ににじみ出る気配は、どんな高度な作為性も超えている。
能の舞だって、作為性をそぎ落としていった結果として、あのようなかたちになっているのだろう。たとえば、あのすり足にしても、あれが人間のもっとも基本的で自然な歩き方なのだろう。それを身につけると、疲れが少なく、長く歩き続けることができる。「ナンバ(=難場)歩き」などともいう。この国では、それが山道を歩き続けていた縄文時代以来の伝統の身体作法になっている。

思春期の少女は、みずからの生=身体に対する物憂い感慨を抱えている。その生と死のはざまに立っているなやましさやくるおしさが、身のこなしの気配となってあらわれる。この生=身体に対する「けがれ」の意識、と言い換えてもよい。その意識が、思春期の少女にもっとも色濃くあらわれる。霊界との往還などといっても、そういう心の飛躍としての驚いたりときめいたりする「非日常性」は、男よりも女、とりわけ思春期の少女においてもっともラディカルに体験される。そして日本列島の文化は、女たちのそうしたこの世界の森羅万象に憑依してゆく心の動き、すなわちその他界性にリードされてはぐくまれてきた。
四方を荒海に囲まれた日本列島に閉じ込められ、そしてまわりの山々にも閉じ込められていた縄文人は、誰もが思春期の少女のようなくるおしさやなやましさを抱えて生きていた。そうやって女たちは定住し、そうやって男たちは山道を旅していった。
人は、宗教など知らなくても、「異次元の世界」に超出してゆく心の動きというか、「異次元の世界」に対する「遠い憧れ」を持っている。それは、けっして宗教性ではない。ようするにこの生に対する「けがれ」の意識が無意識のところではたらいているということ、そこから驚きときめくという「飛躍(=異次元の世界への超出)」ということが起きる。
まあ、他愛なく驚きときめくという心の飛躍を失ったものが、その代わりとなる心の飛躍として「霊界」だの「天国・極楽浄土」だの「生まれ変わり」だのという世界観=概念に執着してゆく。その世界観=概念は、みずからのトレーニングやまわりの人間関係=環境からの影響によって獲得されてゆく。そうして因果なことに、他愛なくときめくものたちは、その作為的な世界観=概念に洗脳されてしまう。これが偉大な宗教者と民衆との関係であるのだが、じつは偉大な宗教者こそ、みずからの飛躍する心を喪失している病者にほかならない。
ここで大雑把にいってしまうなら、キリストだろうと釈迦だろうとマホメットだろうと空海だろうと親鸞だろうと日蓮だろうと折口信夫だろうと三島由紀夫だろうと、そのような天才たちは、他愛なくときめいてゆくことを失って心を病んでいるものたちなのだ。
「翁」は霊界と現世を結ぶ神の化身であると最初に定義してみせたのは中世の能作者金春禅竹らしいのだが、「翁」の面はなぜあのような他愛ない笑顔になっているのだろうという問題がある。
能においては、僧侶よりも「翁」のほうが高貴な存在であるらしい。
人は、他愛ない微笑みによって死の世界との往還を果たす、生きながら死の世界との往還を果たす。
「翁」は呪術師=僧侶ではない。呪術なんかしないが、すでに存在そのものが死(霊界)の気配を帯びている。「いつ死んでもかまわない」ということ、そうやって他愛なく笑っている。「他愛なさの尊厳」は、縄文時代以来の日本列島の歴史の無意識であると同時に、人類普遍の人間観の伝統でもある。
呪術師の妙な神がかりよりも、「他愛なさ」にこそ、もっともラディカルな「飛躍(=異次元の世界への超出)」がある。その「他愛なさ」こそもっとも崇高で美しいのだ。
というわけで、ここでいいたいことはつまり、能の舞はおそらく処女(思春期の少女)の舞から進化発展してきたのだろうということ。そして天皇の起源の問題もそこにあるのではないかと僕は考えている。