処女(思春期の少女)の舞・神道と天皇(65)

人類はなぜ「処女(思春期の少女)の舞」に感動するのだろうか。
思春期の少女ならではの独特の姿(=たたずまい)があり、それはとうぜん身のこなしにもあらわれる。何かよくわからないが、まあそういうことなのだ。世界中にその時期の少女の舞を尊重する習俗がある。
人類史において、処女が尊重されるのと思春期の少女が尊重されるのとどちらが先かといえば、おそらく後者が先だろう。原始時代に処女の価値なんかなかったはずだ。
また、処女にとってのセックスは、苦痛以外の何ものでもない。
しかしだからこそ思春期の少女は、そうした「自己処罰」としてのセックスに興味を持ちはじめる。彼女らは、月経とか丸みを帯びてくる体型とか、変化・成長をはじめた自分の体に対する鬱陶しさを少なからず抱えている。そうして、それとともに立ち姿とか身のこなしが、その時期特有の気配を帯びてくる。
「自分」とは何か、という問題はなかなかややこしくて一筋縄ではいかないわけだが、ひとまず「自分とは意識である」とするなら、「自分の身体」は、「自分」ではなく「自分」の外の「対象世界」にほかならない。
思春期の少女は、「自分」と「身体」を切り離すというのか、彼女らにとって身体を動かすことは、とても億劫なことであると同時に、ひとつの「みそぎ」でもある。身体を忘れてしまう(=消してしまう)ようなかたちで身体を動かすことができるのなら、それが深いカタルシスになる。
彼女らは、舞うことのカタルシスを誰よりもよく知っている。セックスだろうと舞うことだろうと究極的には身体を消す行為であり、セックスは男の体の圧力を受けながらみずからの身体を忘れて(消して)ゆくわけだが、舞はその手続きなしに体験できる。したがって処女(思春期の少女)にとっては、舞のほうがよりなじみやすいのかもしれない。
舞という名の自己処罰、まあ生きものにとっての身体を動かすことは、ひとつに自己処罰だともいえる。それはエネルギーを消費して死に近づいてゆくことだし、二本の足で立っている人類にとっては、その姿勢の不安定(=生きにくさ)を生きることにほかならない。寝転んでじっとしていれば安定した生にまどろんでいられるものを、それでも歩いてゆこうとする。
思春期の少女は、寝転んでじっとしていることの「まどろみ」と「けがれの自覚」の中を漂っている。であれば、その停滞から飛び立って舞ってゆくことは、この生の外の「他界」に超出してゆくことになる。

人は普遍的に、処女(思春期の少女)の舞に、ひとつの「他界性」を見出している。そうやって感動しているわけで、美とはひとつの「他界性」であるともいえる。
能の舞は、そういう処女(思春期の少女)の舞の「他界性」を抽象化し純粋培養しながら抽出していったところから生まれてきた。まあ時代の共同幻想に合わせてそのドラマツルギーは「霊界との往還」というかたちをとっているわけだが、その本質的なコンセプトは、この生のけがれをそそいでこの生の外に超出してゆこうとする人間性の自然に訴えかけるところにある。
そしてそれは最終的に男だけが舞う芸能になっていったわけだが、もとはといえば、おそらく処女(思春期の少女)すなわち「巫女」の舞に学びながら洗練発達してきたのだ。
「霊界」がどうのということは本質的な問題ではない。「異次元の世界との往還」ということは人が生きている「今ここ」において起きていることであり、生きるいとなみとしての意識が発生するとか体を動かすというそのことがすでに「異次元の世界」に超出してゆく現象にほかならないのだし、処女(思春期の少女)たちはそのことを誰よりもよく知っている。まあ、そういうことの鮮やかさにときめく感受性がないのなら能を鑑賞する資格なんかないわけで、中世においては、百姓の女子供でもそのことにときめいていた。もともとは、猿楽という農民の祭りの行事だったのだ。
処女(思春期の少女)こそ、もっとも深くラディカルに人間性の自然と向き合って生きている。
というわけでここではどうしても、「起源としての天皇はカリスマ的な舞の名手としての巫女だった」という仮説を立てざるを得なくなってくる。
古代および古代以前に天皇が神だったのは、共同体の支配者として君臨していたからではない。
人は、青い空を見上げるような心地で、この生の外の「異次元の世界」に対する「遠い憧れ」を抱いている。そういうこの生の「けがれ」を自覚している存在であり、その「けがれ」をそそいで「みそぎ」を果たしてゆくことが生きるいとなみになっている。生きることは、ひとつの自己処罰であり、この生の外に超出してゆくことなのだ。われわれは、そういうことを、ひとつの「美」として処女(思春期の少女)から学ぶことができる。
日本列島の天皇は、「美」すなわち「人間性の真実あるいは尊厳」の体現者として現れ育ってきた。べつに共同体の支配者として君臨していたのではない。支配者はつねにべつにいたのが日本列島の歴史で、聖徳太子の昔から支配者はつねに天皇が支配しているかのように偽装してきたのだ。
ただの俗物でしかない支配者のいうことなんか鬱陶しいばかりだけれど、この世のもっとも崇高な美の体現者である天皇がいうのならもう、従うしかない。
現実の天皇がほんとうにそれを体現しているのかどうかということは、さしあたってどうでもいい。この世にそういう美が存在すると信じてしまう「遠い憧れ」は、誰の心にも息づいている。日本人は、その「遠い憧れ」を天皇に仮託していった。天皇が実際にそういう存在かどうかということは問わない。ひとまずそういう存在であるとして一方的に祀り上げていった。

奈良盆地で祭りをしていた弥生人たちは、処女(思春期の少女)の舞が持つ「異次元的な気配」に魅せられていった。まあ、そのようにして「巫女」という存在が生まれてきたわけだが、しかしそれは「呪術師」として登場してきたということを意味するのではない。人は、宗教とは関係なく、青い空を仰ぐときのように、根源というか人間性の自然において「異次元の世界」に対する「遠い憧れ」を抱いている。そしてそんな巫女が年月とともにカリスマ性を増しながら、やがて天皇(=おほきみ)と呼ばれる存在になっていった。
起源としての天皇弥生時代奈良盆地の人々の暮らしから自然発生してきたのだと考えるなら、ひとまずそういうかたちが想像される。
僕は、明治以降というか、あるいは江戸時代の水戸学や国学以来の思想としての国家神道などというものは信じていない。日本列島の歴史と天皇という存在の本質を率直に問うてゆけばもう、そこから考えはじめるしかないと思える。
天皇は、大和朝廷の成立以前から奈良盆地に存在していたと考えて、なぜいけないのか。おそらく最初は、共同体ともいえないような混沌とした集団だった。共同体ではないのだから、階級とか支配者というようなものは存在しなかった。それはもう世界中の都市集落の歴史がそのようにしてはじまっているわけだが、日本列島は縄文時代が長く続いたから、大陸からは数千年遅れた2千年前ころの弥生時代から起きてきた。
もちろん古事記には、神武天皇が支配者として奈良盆地にやってきたと書いてあるわけだが、それは8世紀のもので、すでに国家が出来上がってから後付けでつくられた話にすぎない。世界中どこでも共同体は、集団の秩序のためのそういう起源伝説をつくりたがる。多くの歴史家はそこに史実の痕跡を見つけようとするが、まるごとつくり話である可能性がないとは誰にも言えない。
古代および古代以前の奈良盆地が侵略したりされたりの歴史を繰り返していたのなら、大和町はちゃんとした城砦を持っているはずだが、そんな考古学の証拠はない。平安京京都御所だって、塀に囲まれているだけの無防備なつくりになっていて、それがやまと朝廷の伝統になっている。
だいたい天皇が支配者として登場してきた存在であるのなら、とっくに新しい支配勢力から殺されている。
天皇の本質は、「支配者」であることにあるのではない。
天皇は、奈良盆地の民衆による祭りの賑わいのシンボルとして生まれ育ってきた……そう考えてなぜいけないのか?そして、人間性の自然に沿って考えるなら最初にそういう存在になる可能性がもっとも高いのは思春期の少女であるのだし、天皇という存在が2000年後の現在まで続いているのは、何かしら人間性の自然に訴えかけてくるものがあるからだろう。

支配者なんか誰であってもかまわないのだけれど、日本列島の歴史風土のよりどころとなる天皇という存在は、誰でもというわけにはいかなかったらしい。その資格の本質的な意義は、支配者であることではなく、「異次元性」にある。
「異次元性」は、宗教の専売特許ではない。「神」とか「霊魂」とか「天国」とか「生まれ変わり」といっても、それはあくまでこの生の「延長」としての現世的な概念であり、むしろほんとうの「異次元の世界」に対する想像力を喪失している思考だといえる。
「異次元の世界」とは「非存在の世界」であり、人が青い空を見上げるとき、根源においてはそういう世界をイメージし引き寄せられている。
宗教者なんか、ただの俗物じゃないか。世の中は宗教を持ち上げすぎるのだ。宗教に洗脳されてしまうのは「異次元の世界」に対する「遠い憧れ」を抱いている人という存在のかなしい宿命であり、今さらこの世から国家や宗教がなくなるわけでもないだろうが、それでも宗教に洗脳される「女子供=民衆」の無意識は、宗教者よりももっと深くラディカルに「異次元の世界」を納得している。そしてそれを納得する能力は、ようするに他愛なく「驚きときめく」心のもとにある。
したり顔をして「あなたの生まれ変わりは……」とか「死んだら天国に行けます」などといっている宗教者よりも、「箸が転んでもおかしい」年ごろの少女のほうが、ずっと深くラディカルに「異次元の世界」を見ているのだ。
だから神道では「かみは隠れている」という。隠れている」とは「消えて存在しない」ということであり、「消えて存在しない」ことが「かみ」であることの証明なのだ。
なんともややこしい。われわれはこのことを体ごと腑に落ちて納得することができるだろうか。おそらく女子供の無意識はそれができる。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」はそれができる。
それができるのは、宗教者でも天才でもない。それができるのは、「女子供」や「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だけなのだ。まあそういう存在の象徴として、人は「処女(思春期の少女)の舞」に魅せられてゆくのであり、そこからこの国における天皇という存在のシステムが生まれ育ってきたと考えて、なんの矛盾があろうか。