「翁」という花・ネアンデルタール人と日本人90


日本文化論のキーワードについて考えている。で、古代の日本人が「山の中に入ってゆく」ということにどんな思いを持っていたかということを語るものを探してみた。
■あしびきの山行きしかば山人の 我に得しめし山づとぞこれ(元正天皇万葉集より)
この歌の「山づと」とは何か。
折口信夫は、山の珍しい贈り物が入った籠のことだと解説している
後世にはひとまずそういう言い習わしになっていったのだろうが、この歌の場合の「山づと」は「山のつとめ」というニュアンスのほうが近いのではないだろうか。
天皇が「山の珍しい土産をくれ」というのでは、あまりに品がないではないではないか。
「つと」は、日本髪の髷の部分のことをいったりする。つまり「先っぽ・先端」。「つとめ」も、普段の暮らしから離れて励むいわば「先端」の営為である。「つとに語られている」というときの「つとに」は「早くから」という意味で、これも「先っぽ」のことだろう。
「あしびき」とは、「孤独」とか「さびしい」というようなニュアンス。
この天皇は、さびしい山の中に入っていったのだ。そして水を浴びるとかのみそぎをしながら、山人が持っている「山の暮らしの振る舞いとか心構え(=山づと)」を我にも与えてくれと願った。天皇というのは、孤独な仕事であり立場だ。だからそういう「山づと」を持っていなければつとまるものではない。
このころの天皇は、山の中に入っていって「みそぎ」をしたり、頂上から「国見」をするというのもひとつの仕事だった。
べつに、神のご利益が欲しくて山の中に入っていったのではない。



まあ「あしびきの」は、一般的には、山を修飾する枕詞、すなわちたんなる「山」の飾り言葉だといわれているが、そうではない、これは「山の中に入ってゆく」感慨をあらわす言葉であり、その連想として「山」という言葉があとに続けられているだけなのだ。
上記の歌の場合なら、「孤独な思いで山の中に入ってゆけば」というようなことだろうか。
万葉集の「あしびきの」と詠まれている歌はすべて、そうした「孤独・静寂・孤立」の感慨を表現している。
「あし」は孤立感、「ひき」は胸の中が静まり返ってゆくとか心細くなってゆくというようなニュアンス。「あしひきの」とは、ようするに「ひとりぼっちでさびしい」というようなこと。
歌を詠む古代人がどんな思いでこの言葉を差し出していったかということを、現在の古代文学の研究者は何もわかっていない。
■あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む
これは柿本人麻呂の有名な歌だが、あなたがいなくて夜が長くてさびしくてたまらない、と詠っている。
万葉集の「あしびきの」の歌には、すべて「孤独・静寂・孤立」の感慨が表現されている。
■あしひきの山のしずくに妹待つと わが立ち濡れし山のしずくに(訳・山霧の中で愛しい人を待っていて心も体もすっかり濡れてしまった)
■あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみ わがする業(わざ)をとがめたまふな(訳・さびしく山の中で暮らしている身ですから、私の無風流な振る舞いをとがめないでくださいませ)
■あしひきの山に生(お)ひたる菅の根の ねむころに見まく欲しき君かな(訳・山に生えている菅の根のように孤独なあなたを心からお世話して差し上げたいものです)
「あしびきの」は、たんなる「山」の飾り言葉ではない。日本列島の伝統の「山に入ってゆく」感慨とともに生まれてきた枕詞なのだ。
風流(みやび)なみ……平地の宮廷人の風流なんかどうでもよくなってしまうのが山の中の暮らしだ。
ねむころに見まく欲しき……山の中に入ってゆけば、こういう「おもてなし=サービス」の心も豊かに湧いてくる。これもまた、ひとつの「山づと」である。



日本人はもう、山の中に入っていって「みそぎ」をするということを、ずっと昔からやってきた。
折口信夫などは「日本人の山との関係は山の珍しいものの呪術性に対する関心とともにはじまっている」などということばかりいっているのだが、この人は、どうしてこんな卑しい発想をするのだろう。
最初にあげた歌の天皇は、山人の呪術の能力にあやかりたいと思ったのか?そういうことではない。日本列島の住民にとって「山の中に入ってゆく」ことはひとつのおおいなるあこがれだったのであり、心にそのタッチを持つことが生きてあることのたしなみであり生きた心地を汲み上げる作法だったのだ。
また折口は、古代人の「ことほぐ(祝福する)」という態度は「神」や「霊力」に向けられていてそれが神社の「祝詞(のりと)」の起源だというのだが、だったら古代人はそうやって自分たちの欲望を満たそうとする目的ばかりで頭の中をいっぱいにしながら暮らしていたのか、という話である。
そうではないだろう。人間なら誰だって、純粋に人が生きてあるかたちに対する思いがある。人と豊かにときめき合いたいとか、この世界の森羅万象に感動する心を持ちたいとか、欲望を満たすことよりもまずそのことを思うではないか。現代人と違って欲望を満たす機会の少なかった古代人ならなお切実にそれを思ったのではないだろうか。
「ことほぐ」とは、今ここにあらわれ出ている森羅万象や人の心を無邪気に祝福してゆく態度のことだ。われわれはそうやって「あらたまの年のはじめ」という正月をことほいでいるのであって、べつに欲望満々の心であたりには神の霊力が満ち満ちているとよろこんでいるだけだというわけでもないだろう。日本人は、折口信夫が考えるよりももっと無邪気なのであり、古代人ならなおさらだったのだ。
ほんとに、折口によって古代文学や民俗史の研究がめちゃめちゃにされてしまっている。
上の元正天皇の歌に、古代人のどれほど率直な「山の中に入ってゆく」ということに対する感慨が表現されているかということを、折口信夫はなんにも読み取ることができていない。



もうひとつ「山に入ってゆく」歌を挙げてみよう。
■あしびきの山に行きけむ山人の 心も知らず山人や誰(舎人親王万葉集より)
古代には、山で暮らしている「ほかいびと」といわれる乞食のような人たちが里に下りてきて歌ったり踊ったりしながら物乞いをするという習俗があった。そうやって山の中に帰ってゆく人を詠っているのだろうか。
では、彼らは、折口がいうように「神の遣い」だったのか。
そういうことではない。もともと里に暮らしていた人が山の中に入っていったということも多かった。だから里の人々は歓迎し、彼らの命をつなぐ手助けをしないといけないとも思った。
べつに、山に神の霊力を持ってきてくれたからその報酬を差し出すとか、そんな経済行為ではなかった。
「ほかいびと」の「ほか」は「ほかす(=捨てる)」の「ほか」で、まあ「世捨て人」というようなニュアンスだったのだ。つまり、里人にとってはまったくの他人というわけでもない。だからこそ、その山行きを遠くから眺めながら「心も知らず山人や誰」というようなちょっとせつない関心も生まれてくる。もしかしたら昔この里に住んでいた知っている人かもしれない、という思いで「誰?」といっているのだ。
この歌は、そういう山人に対する心の機微を詠っているのであって、折口が解釈するような山人の霊力に対する関心で「誰?」と問うているのではない。この人の万葉解釈はほんとに通俗的で、人情の機微に対する視点を何も持っていない。
人は、いったいどんな思いで山の中に入ってゆくのだろう……。
古代になって平地に下りてきても日本人は、ずっと山の中との往還を続けてきたのである。
そういう歴史があるからこそ、中世の能の物語も生まれてきたし、姥捨てや隠遁という習俗もつくられてきた。



これも万葉集の歌だが、
■たまかつま 島熊山の夕暮れに ひとりか君が山道越ゆらむ(訳・島熊山の夕暮れ時にあの方は一人で山道を越えていらっしゃるのかしら)
これも、「山の中に入ってゆく」人に対する関心の歌である。
「たまかつま」とは、何かに気付いてほっとしたりときめいたりする心のこと。この歌ではもう、相手の男の顔かたちがどうのという以前に、ひとりで山の中に入ってゆく姿そのものにときめいている。女は、その姿に男の清らかさやさびしさのようなものを見ていたのだろうか。「ひとり」ということにも、何か心に響くものがあったらしい。
古代人にとっての山の中は、「神の霊力」がどうのというような幻想(オカルト=アニミズム)の場だったのではない。もっと純粋に、人が生きてあることそれ自体の謎やなやましさやくるおしさを問うてゆく場だった。それが、「心も知らず山人や誰」ということであり、この「たまかつま」の歌の作者も、まさにこの心の動きを表出している。



折口はその「ほかいびと」が能の「翁(おきな)」の原型になっているといっていてそれはまあそうだろうが、彼のように「翁とは神の霊力を授かっている存在である」などといわれると、ちょっと待ってくれ、といいたくなってしまう。「翁」ということばに、そんな意味はない。
「山の中に入ってゆく」ことのなやましさやくるおしさこそが日本文化の基底になっている。それは、神だの霊魂だのというアニミズムの話などではない。生きてあることそれ自体に対する純粋で率直な心の動きの問題なのだ。
「翁(おきな)」ということも考えてみよう。
「おきな」の「お」は、「おや?」と気になる心の表出。「き」は、ここで何度もいっているように「輪郭」の語義。「な」は、「慣れる」「成れる」の「な」で、この場合は「成熟」のことをいっているのかもしれない。「なれ寿司」は、鮒や鯖を何年も米に漬け込んで発酵させたものである。
「おきな」とは、年をとって顔や身のこなしという「輪郭」がまったりと穏やかになっている人のこと。とにかくまあそういうニュアンスの言葉であって、折口がいう「神事の宿老(とね)」などというような呪術的な意味など何もないということは承知しておくべきである。
能には猿楽以来の伝統として名人だけに許された「翁舞」というのがあるらしい。もとはといえば、山から下りてきた「ほかいびと」が舞って見せた踊りだったのだろう。
能がそれをもっとも権威のある舞として伝承してきているのは、べつに神事だったからではない。日本列島の住民の「山に入ってゆく」ということに対するとくべつな思い入れから来ているのだろう。



神事というのは、まあ権力のところから下りてくるものである。ただの民衆の習俗を神事として引き継いでくることなどありえないのだ。
古代において神との関係は、権力(あるいは天皇家)が取り扱っていたのであり、むやみに民衆に触らせるようなことではなかった。それはまあ、古代のエジプトやメソポタミアや中国でもそうだったはずである。
神と関係できるのは、天皇だけだったのだ。それを神社神道に下ろしていって祝詞などが生まれ、そこから悪霊などを扱う呪術師が生まれてきたりしながらようやく庶民も神を拝むようになってきたのだが、庶民はただ拝むだけで神との関係つくる能力はなかった。
ただの「ほかいびと」が神の遣いとして祀り上げられてゆくためには、まず神の遣いである天皇の代理として舞うということをしなければならない。そのためには、まず神社で舞うという資格を持たねばならない。猿楽師はやがてそのような資格を持っていったわけだが、最初のほかいびとが神の遣いだったわけではない。
日本列島の最初の神の遣いは、神の末裔である天皇だった。古事記はまあ、そういうことを語っている。
古代の神社の神事は、天皇の代理としてなされていた。
ほかいびとは、山人ではあったが、べつに神の遣いだったのではない。時代が経るにしたがってやがて天皇の代理で舞うようになっていっただけのこと。
古代の神の遣いは、あくまで天皇ひとりだけだった。
ほかいびとはただのほかいびとだったのであり、翁もまたただの翁だった。
言い換えれば、ほかいびとがほかいびとであるゆえんは神の遣いであることにあったのではないし、翁が翁であるゆえんもまた神の遣いであることにあったのではない。
たんなる老人のことを「翁(おきな)」といっていただけだろう。
「竹取の翁」の「翁」は、ただの老人のことだろう。
「翁さぶ」といえば、「翁の雰囲気があらわれている」ということだが、それは、折口のいうように「神」の気配をまとっているということではなく、あくまで老人の気配であり、「山に入ってゆく」人の気配をいったのだ。
日本列島の住民は「山の中に入ってゆく」ことに対するあこがれがあったから、神道の神事には榊をはじめとしていろんな山のものを使う。それを山人(ほかいびと)が持ってきてくれる。だから、だんだん神の遣いのようなイメージになっていったのかもしれない。



そういう歴史のなりゆきのことはともかく、日本列島には、年をとることは「山の中に入ってゆく」ようなことだというイメージがある。
「山の中に入ってゆく」ようにして死んでゆく。そうやってこの生が完結してゆく。だから姥捨てとか隠遁という習俗も生まれてきたのだろう。それはもう奈良時代の「ほかいびと」からすでにはじまっているし、縄文以来の伝統だった。
日本列島の住民の「翁(おきな)」という言葉に対する思い入れは、この生に対する率直な感慨の問題であって、神がどうのという問題ではない。
人は年をとるとどのような心模様になってゆくのだろう……そのようにして「心も知らず山人や誰」と問う。
まあ翁とは「なれ寿司」のように顔も身のこなしもまったりとしてしまっている存在であるにしても、心模様もまったりとしているかどうかはわからない。
「心も知らず」というのだから、心までまったりとしてしまっているとは思わなかったのだろう。やっぱり老人特有の「おや?」というような非日常の気配を持っているのだ。彼らは彼らなりに「山の中に入ってゆく」ことのなやましさやくるおしさを持っている。
そのまったりとした身のこなしの中に人としてというか翁として生きてあることのなやましさやくるおしさを表現して見せるのが「翁舞」の真髄であるのだろう。
山の中に入ってゆけば心が動かなくなるのではない。非日常に入っていって、よりなやましくくるおしくなる。その気配を携えてほかいびとは、里の人の前で歌い踊って見せた。
里の人々は、そこから神の秩序やご利益を感じていったのではない。里の暮らしの日常の停滞からいっとき解き放たれるようなときめきを感じた。
ほかいびとのそうした門付け芸にしろ能の名人の「翁舞」にしろ、「色気」こそが人の心を引きつけるのであって、日本人はそこに神のありがたさなんか感じていない。いいかえれば、日本人にとっての神のありがたさとは、そうした「色気」であり「華やぎ」なのだ。
世阿弥は「萎れたるこそ花なり」といった。これはもうまさに「山の中に入ってゆく」タッチであり、その究極の表現として「翁舞」があるらしい。



■淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝が泣けば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ
これも万葉集柿本人麻呂の有名な歌だが、この「しの」ということばは大いに気にかかる。「しの」とは「ひとりしみじみ」というような意味で、ようするに心が「古(いにしへ)」という「山の中」に入ってゆくということなのだろうが、その語感には、萎れつつしかもなやましくくるおしくなってゆく色気がある。
山の中とはつまり「非日常」のこと。古代人の心は、神や霊魂という日常の無限遠点ではなく、日常の裂け目の「非日常」に向いていた。古代人の心には、「非日常」の華やぎがあり、「山の中に入ってゆく」ようななやましさとくるおしさがあった。それが万葉集であり、古代の祭りであり、人と人の関係だった。
世阿弥は「萎れたるこそ花なり」といったが、まさに萎れてゆくことは華やいでゆくことでもあるのだ。それが、「山の中に入ってゆく」という日本文化のコンセプトである。
古代や中世の日本人は、「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」といいながら、心は華やいでいったのだ。
「翁」になって山の中の隠遁生活の入ってゆくことは、心が華やいでゆくことだった。
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