非日常性の視線・ネアンデルタール人と日本人89


「山の中」とは「非日常」の空間のことで、「一音一義」の日本語(やまとことば)特有の機能もこのコンセプトともに生まれ育ってきた。
山の中という「非日常」に対する親しみが日本文化の基底にある。それはまあ人類普遍の感慨でもあるのだが、日本人はことさら濃密に持ってしまっている。
近ごろは「おもてなし」という言葉が流行っている。つまり「サービス」の文化。
日本列島で「サービス」の文化が発達しているとすれば、「非日常」に入ってゆくタッチを濃密に持っているからだろう。「お客さん」は、家族のようにいつも一緒にいる「日常」的な関係の相手ではなく、「非日常」の存在である。
その非日常の存在に対する親しみを込めてもてなしてゆく。そのとき、おたがいに相手は非日常の存在である。おたがいに相手を非日常の存在として関係してゆくのが、日本列島の人と人の関係の基礎になっている。「家族の絆」とかいうわけがわからなく鬱陶しいものが基礎になっているのではない。「親しき仲にも礼儀あり」で、たとえ家族であっても相手は非日常の存在であるという視線は持っていないとうまくゆかない。



人と人は、たがいに相手を「非日常」の存在として向き合っている。身体の孤立性(個体性)は、生き物であることの属性である。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、それによってみずからの身体の占めるスペースを狭くしながら、たがいに相手の身体の孤立性(個体性)を尊重し合い、たがいにみずからの身体の孤立性(個体性)を確保してゆく関係性として起きたことだった。
他者とは、「非日常」の存在である。われわれは、その非日常の存在であることの他界性に向かってときめいてゆく。
美人の顔がどこにでもいる見飽きた顔と一緒に見えるのなら、誰もときめきはしない。人は、その「非日常性」に向かってときめいてゆく。美人でなくとも、他者は存在そのものにおいてすでに「非日常性=他界性」を持って現前している。
おもてなしをするということはときめいてゆくことであり、日本列島で「サービス」の文化が発達しているということは、それだけ他愛なくときめき合うメンタリティを持っているということである。そして日本人は、それほどに他者を非日常の存在とみなし、それほどに非日常に対する親しみを持っているということだ。
だから、現実(日常)的な思考や振る舞いがうまくできない。
おそらくこの日本的なメンタリティは、縄文人が山の中に入って暮らしてきた1万年の歴史が基礎になっている。



日本列島は、「山の中に入ってゆく」という文化なのだ。日本人にとって「山の中に入ってゆく」ことは、共同体の「禁制=タブー」になってきたのではなく、そのことに対する親しみこそが文化の基底になっている。
もちろん共同体の制度はそのことを「禁制」にしてきたわけだが、それでも人々は山の中という非日常の空間に対するあこがれを紡いで歴史を歩んできた。そのあこがれは、世界中の人類が心の底に共有している。
共同体の制度は「非日常」を「禁制=タブー」にしてきた。人々の心が「日常=生活」から離れてしまえば、共同体の制度はうまく機能しなくなる。民衆を、生きのびるための生産活動に励ませないといけない。
しかし「山の中」という「非日常」の空間は、生きのびることなんかどうでもよくなってしまうところである。そうして、「今ここ」の世界や他者に他愛なくときめいてゆく。
山姥などの妖怪変化と出合うという話だって、山に入っていった人間の他愛なくときめいてゆく心が発端になっている。これはもう世界中の民話がそうで、だからかんたんに人を信用しちゃいけないという教訓が添えられたりしているわけだが、そういう制度的な教え以前に、「他愛なくときめいてゆく」という体験の普遍性がある。
そして日本列島はこの普遍性に対する意識が濃密だから、サービスの文化が発達したし、共同体の制度の対する意識が希薄で江戸時代の農民はいいように権力から蹂躙されてきたし、明治になるまで国歌も国旗もない歴史を歩んできた。
日本列島の歴史においては、つねに民衆による、共同体(国家)の制度から離れて「非日常」の視線を確保してゆこうとするムーブメントが文化現象として起きてくる。たとえば中世の能は、まさにそうしたメンタリティを象徴する芸能として確立されていった。
そしておそらく、現在の「かわいい」の文化現象も同じなのだ。
日本列島の住民は、「非日常」に対する視線を色濃く持ってしまっているし、もともと人間存在の普遍=自然は、この視線の上に成り立っている。
人類の歴史は、生きのびようとする活動の歴史だったのではない。そんなことはどうでもいいという「非日常」の視線が人と人の関係を豊かにし、知性や感性を豊かに進化・発展させながら、結果として生き残ってきただけである。
「非日常」に対する視線を失ったら、人間が人間でなくなってしまう。



けっきょく、日本語という言葉の問題が基礎になっているのだろうか。というか、そういう言葉をつくってしまうような人と人の関係の作法や世界観・生命観の歴史が日本列島のはじまり以来から続いてきたのだ。
日本語(やまとことば)の特徴のひとつに、言葉の意味を解体して言葉のなんとなくの感じ(ニュアンス)を共有してゆくことにある。それは、意味の裏に隠されてある「メタファ(暗喩)」である。
「青」という色彩の名称の言葉の裏には、「遠いものに対するあこがれとかなしみ」というような感慨のニュアンスがメタファとして隠されている。空の青、海の青、の青である。それはもう現代人はほとんど意識しなくなっているが、それでも「あお」という音声に対するなんとなくの親しみとして、意識下でちゃんと感じとっている。
「蒼(そう)」と書いて「おあ」とも「そら」とも読む。漢字が持っているもとの発音も意味も解体して、日本人はときにそのように読む。それはたぶん、「非日常(山の中)」に入り込んでゆくタッチである。
そのようにして、すぐ「非日常」に向かってフェイクしてしまう。
晴れた日の空の青も海の青も、目にしみる。心がしいんとなる。この「心がしいんとなる」感じを語源において「あお(を)」といった。
語源においてはそれだけで、「青」という色彩の「意味」はなかった。
そのとき原始人には、空や青の名称や意味に対する意識はなかった。そんな必要はなかった。彼らにとって言葉の機能は、たがいの親密なときめきを確認して共有してゆくことにあった。それはすなわち、そのときの空や青に対する「感慨のあや」を共有してゆくことだった。



たとえば何かの仕事をするための手段として名称や意味を共有することが必要になってくるのだろうが、原始時代の言葉はそのための道具ではなかった。あくまでもときめき合うための道具だったのであり、仕事なんかそんな名称や意味の言葉などなくても、とにかくときめき合うという関係さえあればなんとかなった。じっさい、江戸時代の職人なんか、弟子に何も教えなかった。それでもちゃんとその技術を引き継いで仕事が成り立っていった。
ものの名称や意味として言葉が生まれてきたなんて、大嘘なのだ。
ときめき合っていないと、集団の中では生きていられない。それは、名称や意味を伝達することよりも、ずっと大事で切実なことだったはずである。
青の名称や意味を共有して「あお」という言葉が生まれてきたのではない。青に対する「感慨」を共有しときめき合いながら「あお」という言葉が生まれてきたのだ。
だから「あお」という言葉の語源においては、「心がしいんとなる」すなわち「遠いものに対するあこがれとかなしみ」の感慨の表出の音声だった。
おそらく原始人のことばは世界中どこでもそのようにして生まれてきたはずだが、それがやがて共同体ができて名称や意味の伝達の機能が中心になるかたちに傾いていった。しかし日本列島においては、いつまでも共同体が生まれてくることなく、原始的な感慨表出の機能を保ちながらやまとことばとして洗練していった。
共同体(国家)が生まれてきたのはやっと1500年前のことで、大陸から3000年以上遅れていた。
まあ日本列島においては最初から他愛なくときめき合っている集団だったし、それこそが原始人の普遍的な集団性だったわけで、人類の言葉はそうした集団性から人と人が他愛なくときめきあってゆくための道具としてというか他愛なくときめきあっている結果として生まれ育ってきたのだ。



日本列島の歴史は、7,8万年前以降の氷河期に北の樺太朝鮮半島や南方から人が集まってきてはじまった。最初から、そういう雑多な人の集まりだった。
人は、長く過酷な冬を体験すると、短い夏にいっそうの旅心が生まれてくる。そのようにして日本列島に人が集まってきたのだろう。
そのとき何をするかといえば、まずときめき合う関係をつくってゆく。寒い冬はできるだけたくさんで集まっていたいし、大型草食獣の狩はひとりではできないし、解き放たれた性的関係を持とうともしてゆくだろう。どうしても、寄り集まってゆく。
朝鮮半島からやってこようと樺太からやってこようと、みんな散りぢりになったり集まったりということを繰り返しながらここまで移動してきたのだ。離合集散を繰り返すのが原始人の生態だったのであり、そのダイナミズムで地球の隅々まで拡散していった。
それに、日本列島は山が多いから見通しがきかない。誰もが、いろんな出会いと別れを繰り返しながら往来していた。
そういう人たちが寄り集まり、とりあえずときめき合ってゆくことができる道具として、言葉を育てていった。
その人たちの顔や骨格がそれぞれ多少違っていても、日本列島で出会ったときはもう、自分のご先祖がどこからやってきたかなんて、誰も知らなかったのだ。
そしてそれぞれぞれが雑多な発声でわいわい音声交換をしているうちに、共有できる純粋で普遍的な一音一音のニュアンスが抽出されていった。たぶん雑多な集団だったからこそ、そのようなかたちの言葉になっていった。
少なくとも日本語は、中国語や朝鮮語よりもはるかに一音一音のニュアンスにこだわって出来上がっている。その点において、違いすぎるほど違う。それはもう、その歴史のはじめから、中国や朝鮮半島とは気候風土も人と人の関係も違っていたからだ。
どうして違うかといえば、中国や朝鮮半島は人類拡散の通り道だったから、似たものどうしだけが残って異分子はみんなはじき出して出来上がっていった集団だったが、行き止まりの地である日本列島は、雑多なままの集まりをそのままやりくりしながら出来上がっていった集団だった。
だからこそ、言葉においては、共有できる純粋で普遍的な一音一音が必要だったし、意味の伝達など二の次でただもう他愛なくときめき合う関係になる必要があった。
おそらく縄文社会の成り立ちも、そのような生態が引き継がれていった結果なのだろう。



縄文人の多くは、平地から山の中に入っていった。そのときはまだ共同体などなかったし、彼らは神も霊魂も妖怪変化も知らなかった。氷河期が空けてそれまでの平地のほとんどが湿地化していったから、ただもう、無邪気に入っていった。入ってゆくよりしょうがなかった。
しかし、低い平地にまったく住める所がなくなったわけではない。海辺に残った人もいたし、近くの小高い台地に住んでもよかった。しかし、どんどん奥まで分け入って行った人たちがたくさんいた。
これは、原始人がより住みにくい地より住みにくい地へと移動しながらとうとう地球の隅々まで拡散していった生態と同じだろう。住みにくくても、山の奥では人と人のより豊かな出会いのときめきが起こる。
もともと日本列島の住民は人と人の出会いのときめきを第一にして氷河期の歴史を歩んできたのだし、そもそも人類の歴史そのものが、生きのびるための生産活動ではなく、他愛なくときめき合う関係のダイナミズムを基礎にして流れてきたのだ。それが起きなければ、人類の集団など成り立たなかった。だから、たえず離合集散視ながら地球の隅々まで拡散していったのだ。
日本語(やまとことば)のはたらきに言葉の意味を解体してしまう傾向があるということは、日常の生産活動を第一にした言葉ではないことを意味する。縄文人にとっては、そんなことよりも人と人が他愛なくときめきあえることのほうが大事だった。
何しろ彼らは、米のつくり方などとうに知っていたのに、平地に下りていって集団農業をしようとはしなかった人々である。彼らにとっては、生きるための生産活動よりも、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめきあってゆく祭りや遊びのほうが大事だった。言葉だって、おそらく意味を伝達することよりも感慨を共有してゆく機能を大切にしていたのだろう。
そしてその伝統がそのまま弥生時代に引き継がれ、さらには万葉集における枕詞などの言葉の扱いにも残っていった。
言葉は「意味」をあらわすものだと決め付けると間違う。少なくとも縄文人は生産活動を第一にして生きている存在ではなかった。そして中世の人々がその無常感とともに「ただ遊び狂え」と語り合っていたことにしても、縄文以来の日本人の血(遺伝子)が騒いだのかもしれない。それは、「非日常の世界=山の中」に入ってゆくことだった。



日本人は、言葉の「意味」を解体してしまう癖がある。それは、「非日常の世界=山の中」に入ってゆくということであり、そうやって日常を非日常に向かってフェードアウトさせながらフェイクしてゆくという生きる作法=美意識がある。
山の中は、広い空と広い大地とは逆の閉じられた空間である。とうぜん幻覚も起きる。なぜそんなところに入ってゆくのだろう。空の果てに天国があるとか海の向こうに極楽浄土があると思っていたら入ってゆかない。きっと縄文人にはそんな意識はなかったのだろう。
広い空や広い大地から逃げ出すように山の中に入っていった。入れば、一瞬にして世界は変わる。人間の驚きとかときめきとか感動というのは、一瞬にして世界が変わる体験であるのかもしれない。そうやってこの世界の裂け目に入り込んでしまったような心地になる。そしてそこは閉じられた空間かといえば、じつはそうでもなく、別の世界が広がっているのを感じる。
まあ、人間にとっては、空の青も海の青も、生きてあることのかなしみとともにある。人間は、あんなに遠くまでは泳いで行くことも飛んでゆくこともできない。自分はこの大地の上に置き去りにされてもうどこへも行けない、と思い知らされる。人間なら誰だって、どこかしらにそんな気分を抱えて生きてある。
山の中に入ってゆけば、そういう途方にくれた(日常の)気分が消えてしまう。そうして、この先に何があるのだろうという好奇心にせかされる。
人間は、日常の生きてあることに対する嘆きがあるから山の中に入ってゆく。
富士山の樹海に入ってゆく人が途中でどんな気持ちになるのかは知らないが、ひとまず誰もが日常の生きてあることに対する嘆きを抱えているから吸い寄せられてゆくのだし、どこまでも分け入ってゆくことができるのだろう。
最初の縄文人だって、何かしらそういう「嘆き」を抱えて生きてきた人たちだったはずだ。それがなければ、なんとしても平地の近くにとどまろうとするし、奥まで分け入ってゆくということはしない。
原初の日本列島に住み着いた人たちは、空の青・海の青に対するかなしみを共有していた。そうやって他愛なくときめき合っていたし、そのかなしみとともに、みんなで山の中に入っていったのかもしれない。
彼らの言葉は、日常生活の「意味」を共有する道具だったのではなく、日常生活の「意味」から離れて「非日常」に身を浸す感慨を共有してゆく道具だった。
縄文人がなぜ山の中に入っていったのかと考えるならもう、空の青・海の青に対するかなしみがあったからだというしかない。それは、生きてあることのかなしみでもあった。そういう契機がなければ、入ってゆくことはできない。
そうして彼らは、1万年のあいだそこから下りてこなかった。



日本人は、避けがたく「非日常」にフェイクしていってしまう生態を持っている。それが日本的な美意識の基底になっている。能はその代表的な芸能だが、今どきのギャルの「かわいい」のファッションやマンガやアニメが「ジャパンクール」と世界からもてはやされることにしろ、そういう「非日常」にフェイクしてゆくタッチなのだろう。それが、「日常」無限遠点に神や霊魂や天国をイメージしている大陸の人々にとっては「クール」だと感じるらしい。
非日常の視点を持つことはかんたんなようでいてかんたんではないし、かんたんに持ってしまうことの幸福と不幸があり、アドバンテージとハンでキャップがある。
人と人の関係にも、猿社会と同じような上下関係や順位関係がある。ともに同じ現実の中に存在しているのなら、そういうかたちで距離をつくらないと、攻撃し合う関係やうっとうしく密着した関係になってしまう。しかしそれは、どこか不安定で不安である。その不安から逃れようとして、サディズムマゾヒズムが生まれる。
それに対して、たがいに他者に対する非日常の存在として振舞うなら、上下関係も順位関係も必要もない。人と人はほんらい、そのようにして向き合う関係をつくっている。そうなって、はじめて向き合う関係になれる。そうなってはじめて、二本の足で立つ姿勢が安定する。
おそらく、客をもてなすというのは、そういう関係になることである。見知らぬ関係でも順位関係でもなく、たがいに相手に対する非日常の存在になっている関係。人と人は、そういう関係になって、はじめて他愛なくときめいてゆく。
他者にときめきつつ、他者に対する非日常の存在として振舞うことが「おもてなし」である。まあふだんから人に対してそういうタッチを持っている人といない人がいるし、日本列島は、そういう関係の文化を洗練させてきた。
おそらく日本語は、そういう関係になるための道具として機能してきた。言葉はひとまず「意味(=日常)」を持っているのだが、それでもそこに「感慨のあや」というメタファを込めて差し出し、「メタファ(=非日常)」として受け取ってゆくことができるように日本語は工夫されてきた。
しかしこのような関係は世界中の人と人のあいだにつくられているわけで、誰もがそこでほっとしたりしているのだろう。人類の言葉は、ただたんに「意味の伝達」の機能として発達してきたわけではない。
「おはよう」とか「さようなら」といっても、よく考えたらどういう意味かよくわからない言葉である。しかし、その言葉の直接的な意味なんか誰も意識していない。そこに込められた「感慨のあや」をメタファとして差し出し受け取っているだけである。
まあ「グッド・モーニング」というよりは「おはよう」のほうが、さらに言葉の表の「意味」を解体してしまっている。といっても「グッド・モーニング」だって、「よい朝ですね」というよりは「あなたと出会ってときめいています」という感慨のメタファになっているわけで、このとき人は「意味の伝達」をしているのではなく、「感慨の表出」をしているのだ。「あなたと出会ってときめいています」といわないで「あなたと出会ってときめいています」といっている。そしてそのニュアンスを決定しているのは、ことばが持つ意味ではなく、声の調子である。


10
日本列島の住民は、一音一音のニュアンスにこだわる言葉の扱い方をしてきた。
まあ枕詞なんか、すべて「おはよう」とか「さようなら」というようなニュアンスの言葉であり、その表の意味がどうのこうのと講釈していてもほんとうの「姿」は見えてこない。
「非日常」という「山の中」に分け入ってゆくタッチで枕詞が生まれてきた。
これは、「非日常」の場に立って言葉を差し出す、という作法なのだ。そういう場に立っているから、「かわいい」のファッションもネット社会の絵文字も多彩になる。
また、そういう場に立っているから、中国や韓国にいちゃもんをつけられても「ああ、そうですか」という反応しかできなくなってしまう。同じ日常の場に立てばいくらでも反論はあるのだが、彼らのいうことがなんだか遠い山のこだまのようにしか聞こえない。心はつい、非日常の山の中に入っていってしまう。
われわれは、世の中や権力に対してだって、心の半分は非日常の山の中に入ってしまっている。だから、無党派層と呼ばれる人たちが多い。「契約でつながっている」という意識は薄い。世の中の動きを、ただもう「憂き世」と思って眺めている。


11
非日常の山の中に入ってしまう心の底には、生きてあることのかなしみが潜んでいる。それは、生きてあることの日常がフェードアウトしてゆく体験であり。とはいっても現代生活はたえず日常に引き戻されるような構造になっているわけだが、縄文人は1万年も日常に引き戻されることがなかった。おそらく、非日常の山の中に入ってゆくことこそが人間の自然であるのだろう。
人と人は、おたがいが相手に対する非日常の場に立つことによってときめきあっている。だから原始人は、山の向こうからやってきた旅人を受け入れもてなしたし、死にそうなものを介護するということにも熱心になっていった。
それに対してわれわれ文明人は、山の向こうや海の向こうを日常の延長として眺めている。その視線とともに戦争が起きてくるわけで、そんな制度的な視線を人間の自然や原始人について考える物差しにすると間違う。
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