忌みごもり・「天皇の起源」38


「見られることの怖れ」は、すべての生き物にあるのだろう。
田んぼの害鳥よけには、案山子よりも目玉のように見える風船を吊るしておく方が効果があるらしい。
クジャクのオスの広げた羽にもたくさんの目玉の模様がついている。あれでメスを動けなくさせようとしているのだろうか。ヘビに睨まれたカエル、という言葉もあるくらいだし。
動けなくなるのは、消えようとしているのだろう。恐怖が極まれば、逃げるどころではなくなってしまう。人間だって、車に轢かれそうになっているのに立ちつくしてしまうことがよくある。
消えることは、逃げるよりももっと本質的本格的な避難の方法に違いない。
消えられるはずもないが、せっぱつまって本能的に消えようとしてしまうのではないだろうか。
どうやら生き物は、本能的なところで消えようとする衝動を持っているらしい。
「見られる」ことに対しては、「消える」ことによってしか逃れられない。
逃げようとするよりも消えようとする方がより自然であるのかもしれない。
「見られることの怖れ」は、消えようとする衝動をうながす。その衝動は、人間にもある。「かくれんぼ」は、消えようとする衝動の遊びであろう。
生き物は、消えよう(隠れよう)とする衝動を持っている。
逃げること自体が、消えようとする行為であるともいえる。
「消える」とは、「死んでゆく」ことだろうか。
生き物の生は、死んでゆく機能のバリエーションとして進化してきた。原初の生き物は、生まれた瞬間に死んでいった。死んでゆく存在として発生した。その「死んでゆく」という機能が、何かのはずみで生きるはたらきになっていった。そういうたぶん一回きりの歴史のいたずら(偶然)があって、現在の地球上に無数の生き物が存在しているのだろう。
生きることは、死んでゆくはたらきなのだ。
もしも生き物に本能なるものがあるとすれば、それは、生きようとする衝動ではなく、「死んでゆこうとする=消えようとする」衝動にあるのだろう。その「死んでゆこうとする=消えようとする」衝動が、生きるはたらきになっている。
生命力とは、じつは「消えようとする」衝動なのだ。
生き物の生きるはたらきは、「見られることの怖れ」とともに「消えようとする」ことにある。
「生きてある」と自覚することは、「見られている」と自覚することだ。この世界の中に置かれてあるということ自体が、「見られている」ということだ。その怖れを忘れてまだ見られたがっているのが現代人だろうか。



現代人は、見られたがる意識が強い。とくに都会ではたがいに無視し合って暮らしているし、幼児体験や思春期体験をちやほやされて通過したかちやほやされなかったかという格差もあるわけで、その記憶が飢餓感になれば、人からうらやましがられちやほやされる存在でありたいという欲望が募るようにもなる。
戦後、日本列島のほとんどが都市化し、都市には、人生は人に見られてナンボだというような意識になっている人間が多い。
まあ世の常として、ちやほやされる人間よりもされない人間の方が圧倒的に多いし、親が自分を認めてくれなかったというような飢餓感もある。あるいは親にちやほやされることが身にしみて、ちやほやされていないと自分が自分でなくなってしまうような強迫観念で生きるようにもなる。まあ、いろいろややこしい。
広い世間に出れば誰も親のようにはちやほやしてくれないし、親の過剰な期待がのしかかっていつも見られていないと落ち着かない人間になってしまったりする。
とにかく現代は、見られたがる意識が肥大化するような社会の構造になっているらしい。
昔は、むしろ、人に後ろ指さされないように隠れて生きていたいと思う人間の方が多かった。
おそらく現代人だってそういう意識もどこかしらに持っているはずで、見られたい意識と隠れたい意識の兼ね合いで生きている、ということだろうか。
ただ、「見られる」ことに対する飢餓感が強いというのはひとつ病理であるにちがいない。「消えようとする=隠れようとする」衝動が衰弱して、「見られたい」という欲望が肥大化している社会が健康だろうか。
人間はというか生き物は、先験的に「すでに見られている」存在なのだ。そういう自覚が昔はただの庶民のおばあさんにもあった。それが、日本列島の伝統だった。
わざわざ見られたがらなくても、すでに存在そのものにおいて「見られている」のだ。
つまり現代人は、生き物としての存在の根源に遡行するタッチを失って、俗世間の政治や経済だけで思考し行動するようになってしまっている。
まあ、そうやってインポになったり、さまざまな現代病を引き起こしている。



「どうすればうまく生きてゆけるか」ということと、「人間とは何か」ということとはまた別の問題である。
現代社会では、目立ってちやほやされることをめざすのがひとつの処世術になっている。上は総理大臣や社長をめざすことから、下はブログなどで「自分語り」をすることまで、いろんなかたちで「見られたい」という欲望を満足させようとしている。
このブログだって、おおいに「見られたい」という欲望を持っている。しかし、「自分語り」をしているのではない。ネアンデルタールに注目してほしいが、自分に注目されるとちょっと困る。注目されるような自分など持ち合わせていないし、自分に興味があるわけではない。
「私が今日あるのはあの人のおかげです」……などといういい方ほど愚劣で傲慢な物言いもないと思えるのだが、世の中ではけっこう当たり前のように流通している。謙虚ぶった傲慢、いったい何さまになったつもりか。「あの人」をサカナにして自分を語っているだけであり、「他者」という意識がまるで欠落している。なのに、そういうことを平然といってしまって、少しも恥じていない。
うまく生きてきたことは何ものかになったことであるのだろう、だがそれが「人間とは何か」ということがわかったというわけでもあるまい。
うまく生きてきて何ものかになった人間が人間についていちばんよく知っているのだろうか。現在はそういう合意のある社会らしいが、それは違う。
人間=生き物は、「消えようとする=隠れようとする」衝動を持っている。そういう人間の自然は、自分語りばかりしている人間にはわかるまい。
人間なんか、われを忘れて何かに夢中になってしまう存在なのだから、自分のことなどわかりようがないのだ。なのに彼らは、自分が人間の基準であるつもりでいる。
自分なんか語っても、人間の真実はわからない。
どうしてだろう、因果なことに、社会に踊らされながらうまく生きてきて頭の中に社会的な合意の基準しか持っていない人間ほど人間についての何もかもがわかっているつもりでいる。
彼らは自分に興味があるだけで人間に対する関心は曖昧なのだが、自分こそが愛にあふれた人間で愛されてもいると思っている。そしてその愛によって人間のことがわかっているつもりでいる。
人間の真実は、愛というコミュニケーションの中にあるのか。
しかし人間の根源的な衝動が「消えよう=隠れよう」とすることにあるとすれば、コミュニケーションの関係が成り立たないところにおいてこそ人と人の関係の真実があるのかもしれない。
つまり、「わからない」ということこそ人と人の関係の根源的なかたちであり、「わからない」という感慨こそ他者に対するときめきなのではないだろうか。
「わからない」というくるおしさともに人と人の関係の文化は生まれ育ってきたのではないだろうか。少なくとも日本列島の伝統的な文化はそのようになっていると思える。そのくるおしさを生きる形見として天皇が存在しているのではないだろうか。



原始社会は、「消えようとする=隠れようとする」衝動の上に成り立った社会だった。とくに日本列島の弥生時代は、それまで大きな集団をつくったことのない人々がいきなり大きな集団の中で暮らすようになったのだから、その衝動はどうしようもなく募ってきたはずである。
それでも縄文時代からひとつの観念様式があっという間に列島中に広まるというような社会性は持っていたのだから、その大きな集団と和解してゆこうとする心の動きも持っていたにちがいない。
そのはざまで四苦八苦していたからこそ、「消えよう=隠れよう」とする衝動がさらに切実なものになっていった。
「隠れる」ということも、この国の伝統文化のもっとも大きなコンセプトのひとつである。
アマテラスが天岩戸に隠れた話がそれを象徴しているのかもしれない。その話は日食がきっかけでつくられたとよくいわれるが、それだけではない。アマテラスは「隠れる神」であるということを、現在にいたるまで日本列島の住民はすごく意識しているし、その話をつくった古代人にとっても「隠れる」ということは生きてあることのとても大きなテーマだったのだ。
彼らは、誰もが「憂き世」を嘆きながら暮らしていた。その生活感情からアマテラスの隠れる話が生まれてきた。
天皇が死ねば、「隠れる」という。日本列島の住民は、この言葉に格別な思いがある。
「隠れる」は、「籠(こも)る」ともいう。
「忌みごもり」という。古代人にとって、俗世間を離れて「こもる」ことはとても大切な「忌み=穢れ」をそそぐ行為だった。水で清めるよりもこちらの方がもっと本質的だった。彼らは、何かというと、「こもる」ということをしたがった。山ごもりとか、お寺にこもるとか、お産のために建てた小屋にこもって男を入れないとか、そういうさまざまな伝統的な習俗がある。
古代の「忌み=穢れ」とは意識が自分に張り付くことであり、そうやって「ものぐるい」が起きてきた女はよく寺にこもっていた。
歳をとって外に出なくなってしまう老人は、日本列島では伝統的に男よりも女の方が多い。女の方が「憂き世」という意識も「穢れ」の自覚も深いし、「忌みごもり」という習性を強く負っている。
いずれにせよ「こもる」ことは、古代から大切な精進潔斎の習俗になってきた。
人は「こもる」ことによって新しく生まれ変わる……われわれはどこかしらでそう思っている。それが、アマテラス以来の伝統であるらしい。
現在の「登校拒否」や「ひきこもり」だって、「忌みごもり」の伝統とまったく無縁ではあるまい。彼らは彼らなりに、そうやって「憂き世」の穢れをそそごうとしている。



「こもる」という言葉は、語源的にはべつに「隠れる」という意味ではない。「エネルギーを蓄える」というような意味だが、それは世間に出ていって得られるのではなく、世間から離れてじっと身を潜めていることによって実現すると古代では考えられていた。生命力、ということだろうか、人間にとってそれは隠れてじっとしていることによって得られるものらしい。
「こもる」の「こ」は、「集中する」とか「固まる」というニュアンスの音韻。だから、「肩が凝(こ)る」という。子供の「こ」も、わが子として気持ちが集中するし、どうしようもなくかわいいと思ってしまう対象だからだ。「ここ」「これ」の「こ」も、そういう「限定」のニュアンスだ。
「も」は、「藻」「盛る」「森」の「も」、「混沌」「膨張」「増大」の語義。
「こもる」とは、気持ちが集中して盛り上がること。だから「充満する」ことを「こもる」という。つまり、よけいなことを忘れて集中するのだ。そのよけいなこととは、「自分」に張り付いた意識=穢れである。
すっきりと自分を忘れて、この世界は輝いていると祝福してゆくこと。
「気持ちがこもる」というのも、そういうことだ。自分を忘れていないと祝福する気持ちはこもらない。
身をひそめて意識を研ぎ澄ましてゆくことを「こもる」という。直立二足歩行の開始以来、人類はそのようにして歴史を歩んできた。
人は、隠れていることによって生命力がみなぎる。世間に出て活動することはまあ、生命力を消費して疲れ果て、穢れをため込むことだ。
家にじっとしていたら穢れがたまるというようなことはない。
生き物は、世界から隠れることによって、生きた心地を汲み上げる。
引きこもりは、生き物の本能であり、日本列島の伝統である。
広い世間に出ていかないと生きる糧は得られないが、それが人間あるいは生き物としての生命力がみなぎることだというわけではない。
日本列島には「隠れる」ということを大切にする伝統がある。ときどき「隠れる」ということをしてエネルギーを充填しないと集団の活動に参加してゆくことができない。それはもう、おそらく弥生時代からそうだったのだ。というか、それまで大集団の活動の歴史を持っていなかった弥生時代こそもっともそうした意識が切実だったはずである。
俗世間にまみれて生きていれば穢れがたまるから、いったん隠れて穢れを洗い流し、生命力を回復する……それを「こもる」といった。



俗世間は生命力を消費する場であって、生命力が満ちる場ではない。
それはもう、どうしてもそうなのだ。
普通に生きていれば、誰だって消耗する。処世術が上手くなったからといって、人間のことがわかったわけではない。むしろ、人間に対して鈍感になる。人間関係をうまく処理してゆくために人間を分類することはうまくなるが、人間の根源や普遍がわかるわけではない。
「人間はひとりひとりみな違う」といいながら、いくつかのパターンに分類しているだけである。
人間の根源や普遍は、みな同じだろう。ただ、その人はその人であるという、その事実に驚きその事実を尊重できるかという問題があるだけだ。その人がほかの人と違うとか、どのパターンに属するかとか、そんなことはどうでもいい。その人はその人なのだ。その事実を深く感じることができるか。俗世間の垢にまみれていると感じることができなくなってきて、すぐ安直に人間をパターンに分類してしまうようになる。そうするともう、根源や普遍が見えなくなってくる。
内田樹とか上野千鶴子とか勝間和代とかその他もろもろの世間ずれした知識人は、人間をパターンに分類しているだけで、人間の根源や普遍なんか何もわかっていない。
彼らの共通のスローガンは「よりよい社会をつくる」ということである。彼らは、社会の中にいれば人間とは何かということが見えてきて生命力が満ちてくると考えている。
しかし、そうじゃないのだ。
どんなに「よい社会」であろうと人間にとって社会とは生命力という知性や感性をすり減らす「憂き世」であり、いったん社会から離れて「こもる=隠れる」ことによって知性や感性を取り戻すことができる。
内田樹上野千鶴子勝間和代をうらやましがっている人が世間にたくさんいるとしても、彼らははたして魅力的な人間だろうか。彼らの表情や姿に知性や感性の輝きを見ることはとても難しい。
見られたがるばかりの彼らには、「見られることの怖れ」と「こもる=隠れる」というタッチがない。どんな生き方をしようと、そのタッチこそが人間の文化の基底であり、そのタッチからその人の魅力が生まれてくるのであり、そのタッチがその人の生命力としての知性や感性を磨いている。
べつに引きこもりにならなくても、そのタッチを持っていないと人間として魅力がない、セックスアピールがない。



人間の生命力というのは、ひとつの「悲劇」なのだ。
セックスアピールとは、悲劇の気配なのだ。
人と人が出会ってときめき合うとき、たがいの隠れようとする気配を追いかけ合っている。もう二度と会えないかもしれないという不安の中でときめき合っている。
人間は隠れようとする存在であり、消えてゆく存在なのだ。そういうどうしようもない悲劇の気配を追いかけて人と人はときめき合っている。
あなたが人にときめくのは、あなたがあたたかい心のやさしい人だからではない。あなたが出会った相手の隠れようとする気配に気づくからだ。人間は、存在そのものにおいてそういう悲劇的な気配を持っている。その気配がときめかせるのであって、あなたがやさしい人だからではない。
言い換えれば、その隠れようとする気配に気づく知性や感性を美意識という。
すべての存在は、次の瞬間に消えてゆきそうな気配を持っている。その美しさは「いまここ」にしかない。そういう「いまここ」に対する切実な思いを無常感という。
日本列島にはこの無常感が強くはたらいているから、天皇制が続いてきた。未来がなく「いまここ」しかないのだから、天皇が存在しない未来など思いようがない。そういう未来を思うことの後ろめたさがある。天皇を前にすると、未来を思うことが後ろめたくなってしまう。天皇は、「いまここ」にしか存在しない。天皇は、次の瞬間には隠れてしまう人である。そういう気配を前にして権力者は途方に暮れる。次の瞬間に隠れてしまう人は、抹殺しようがない。
天皇は未来を持たない存在であるがゆえに存続してきたし、そういう未来を思わないという伝統的な心性が天皇を生みだした。
日本列島の住民は、「隠れる」というタッチを確保しながら集団(=憂き世)をいとなんできた。その「隠れる」というタッチの形見として天皇が存在し続けてきた。
起源としての天皇である原始神道の巫女は、人里離れた山にこもって暮らしていた。
日本列島において「こもる=隠れる」ことはもっとも大切な穢れをそそぐ精進潔斎の作法であり、実際にそれをしようとしまいと、そのイメージこそが人々の暮らしや人格を支えていた。
そのイメージの形見として、天皇が祀り上げられていった。
われわれは、天皇がいなくなると、人間の本性としての「隠れる」というタッチを失ってしまう。そういうタッチ持っていることがこの国の品位であり、それを失うことになる。
「隠れる」とは、俗世間の「穢れ」を洗い流すことだ。そういう「穢れ」を洗い流している「姿」として天皇が存在しており、それがこの国の品位になっている。
天皇がいなくなったら、どこにでもある俗っぽいただの三流国になってしまうのかもしれない。
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