内田樹という迷惑・雌雄の発生2

内田氏は、「生き延びる」ということで「生物学的な」根源を語ろうとする。
だがわれわれは、生き物に「生き延びる」という衝動なんかないし、「生き延びる」ことができないようにできているのが生き物だ、と思っている。
「生物学的な」根源が「生き延びる」というテーマにあるだなんて、考えることが卑しいのだ。そんなテーマは、近代合理主義の問題にすぎない。この世の中には、そのようにして頭の中を近代合理主義に汚染されている学者がうんざりするくらい多い。
内田氏だけじゃなく、分子生物学ホープであるらしい福岡伸一とかいう学者だって、しょせんはそんなふうな俗物だと僕は思っている。近代合理主義に骨の髄まで汚染されきっているくせに、されているという自覚がない。近代合理主義を乗り越えているつもりでいる。そのうさんくささ。福岡氏の言う「雌雄の発生は単体生殖のリスクを避けるために起きてきた」だなんて、笑わせてくれる。この人もやっぱり「生き延びる」というテーマで生き物を考えている。
雌雄の発生は、単体生殖できない不完全な個体どうしがくっ付いたところから起きてきたのだ、と僕は思う。
「生き延びる」という問題は、生き延びることのできない個体の上にしか起きてこないのだ。わかりますか、内田先生も福岡先生も。
それに対して「イカフライ」氏は、このテーマを「孤立性」の問題として考えようとしている。うん、たぶんそれこそが、詩的にして生物学の問題でもあるのだ。
もっとも不完全なふたつの個体が「出会う」ということ。そこから、生物の「雌雄」が生まれてきた。
孤立して存在することの不可能性に陥ったことによって、雌雄が発生したのだ。
「生き延びる」ことができない個体によって「進化」が実現されてきたのだ。
詩的にいえば、生き延びることができない個体こそ、もっとも「神」に近い存在なのだ。そういう貧しく弱く愚かな者こそ、神に近い存在なのだ。
「生き延びることができない」という「孤立性」、内田さん、あなたのような文学オンチにはわからないでしょう。
「生き延びる能力」などといっているやつこそ、もっとも「神」からも「生物学」からも遠い存在なのだ。
「生き延びることができない」人間にしか「孤立性」はわからない。
孤立できない人間にしか「孤立性」はわからない。
そういう孤立できない孤立性から「雌雄」が発生してきた。
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アメーバは、他の個体をよけて動いてゆく。しかしよける機能さえ欠落した不完全なふたつの個体は、重なり立ち往生してしまう。
生きものの雌雄は、単体生殖をする生物のなかの単体生殖する能力を失ったもっとも不完全なふたつの個体として発生した。生きものの進化は、その種のなかのもっとも不完全な個体によってつくられてきた。不完全になってゆくことが進化してゆくことであり、人間はこの世でもっとも不完全な生きものとして存在しているのではないだろうか。
「ときめく」とは、他者の前で立ち往生してしまうことだ。人間はもっとも不完全な個体であるがゆえに、もっとも深く「他者」にときめいてしまうのだ。
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生きものは、その起源において単体生殖なのだから、この世に「他者」が存在しているという前提を持っていない。そのように前提を持たず、しかももっとも不完全な生きものである人間が生きて動いていると「他者」と出会う。たとえ街角ですれ違うだけの人にたいしてでも、出会えば心が動く。それは、「愛」などではない。不完全な生きものとしての驚きであり、ときめきである。それは、「他者」の存在を知らない意識なのだから、「愛」と呼ぶことはできない。他者の存在に驚きときめくことは、「愛」などというナルシズムではなく、孤立した個体でありながらしかもみずからの存在が不完全であることの居心地の悪さから発している。不完全なためによけることができなくなって立ち往生してしまう、そういう心の動きを、「驚きときめく」という。
生きものは、優秀な子孫を残そうとして交配するのではない。そんなあさましい考えは、人間だけのものだ。
交配の衝動とは、体がむずむずする、というだけのことです。不完全な人間ほど、むずむずする。そのとき相手が優秀だから交配するのではない。なんとなく不完全なものどうしの「相性」というものを感じるからでしょう。「出会いのときめき」があるかどうかです。それは、かつて不完全な生物どうしが出会って組み合わさってしまったときの記憶であるのかもしれない。すなわち優秀な子孫を残すことの不可能性を負っているというその自覚においてこそ交配の衝動が発生するのであって、人は、自分が自分として完結してしまったときに性的な不能に陥る。
だってそうでしょう。自分が完璧な人間であると思っているものほど、性衝動は弱いですよ。完全な人間のつもりでいる大人より不完全な若者の方が、アッパークラスのものより下々の庶民の方が性衝動は強い。性衝動が「種族維持の本能」から生まれてくるなら、逆でなければならない。
自分の子供なんかろくなものにはならない、と思っている人間の性衝動は弱いですか。
自分は優秀な人間だと自惚れている人は、性衝動が強いですか。そういう人間にかぎってインポになるのだし、美人ほどセックスの反応は鈍く不感症になりやすい、などともいわれている。彼らは「自分」として完結してしまっているからです。
そりゃあまあ、共同体の制度性に浸されてあるわれわれは、意識の底のどこかしらに優秀な子孫を残そうとする衝動を抱えているのかもしれない。それが、結婚相手を選別しようとする観念行為となってあらわれる。しかしそのような現代人としての生態から離れて生きものとしての本質に立ち返れば、生きものは「愛」や「生殖」などという共同性のために交配するのではないということに気づかされる。生きものにおいては、交配と生殖は別のものである。交配に向かう衝動は、すでに一緒にいる相手ではなく、「出会った」その相手にたいして起きる。生殖は交配の結果であって、生殖のために交配するのではない。
現代人は家族において生殖をおこなうが、生きものとしての交配をうながす衝動は、つねにその外に出たところの「出会いのときめき」にある。この矛盾を克服するために共同体は、「愛」という概念や生きものは生殖のために交配するという認識を共通の了解事項として制度化してきた。家族や共同体の論理においては、「出会いのときめき」によって交配してはいけないことになっている。家族や共同体においては、外部の人間は出会うべき「他者」ではなく、排除するべき「第三者」にほかならない。
人類の歴史は、「第三者」を排除するというかたちで家族や共同体という制度を洗練させてきた。「姦通罪」は、もっとも古い禁制のひとつであり、それこそが第三者を排除しようとするものにほかならない。
雌雄の発生ということを考えるなら、「家族」は、けっして根源的本質的な単位ではない。
そして、不完全な人間として自分に幻滅していなければ、他者に「ときめく」という体験もできない。家族の外に出れば、誰だって(とくに若者は)、みずからが不完全な存在として自覚し、相応の不安を抱く。他者に対する「ときめき」は、たぶんその不安の上に体験されるのだ。
「家族」によって「愛」が生まれるなんて、そんなものは幻想なのだ。家族の中にいて体験できるのは、「幻滅する」ということだけだ。しかしその幻滅を携えて家族の外の他者と出会ったとき、その反動としてわれわれは驚きときめくという体験をする。