内田樹という迷惑・やっぱり「イエス!」

とうとう、あの「イカフライ」氏からコメントをもらってしまった。
ちょっとどきどきしました。
しかも、イカフライ氏自身のブログに、僕の記事のことが紹介されてありました。
世界は、広いようで狭い。
そりゃあものすごくうれしかったけど、しかし、お礼のコメントは入れなかった。入れたかったけど、コメントの入れ方がよくわからないからです。
僕は、パソコン操作に関しては、まったく無知です。生まれて初めてキーボードに触れたおじさんと、たいして変わりはしない。
このブログの記事だって、いまだに両方の手の指を一本ずつしか使わないで打っているのです。それくらい、機械オンチです。
毎日こんな長ったらしいレポートを発信しつづけているのだから、さぞや慣れた手つきでやっているのだろうと思われそうだけど、じつはぜんぜんそうじゃない。打ち方も知識も、小学一年生レベルです。
で、イカフライ氏への返信のコメントに、ちょっと変な言葉を使ってしまった。
というか、僕が持っている言葉のイメージとイカフライ氏のそれと同じのつもりになってしまった。
そんなはずないですよね。別の場所で別の人生を歩んできた見ず知らずの他人なのだから、そんなことはありえない。なのに、あっさりとそう思ってしまった。うかつでした。
しかしだからこそ、イカフライ氏のブログを読んで、なるほどそうだな、と思わせられることがいっぱいあった。
とくに感心したのは、内田氏のアジテーションは「原理運動」と同じカルト的手法なのだ、という指摘です。その手法で、多くの人がたらしこまれてしまっている。
うん、たしかにそうだ。
僕が内田氏の言説に気味悪さを感じていたのはそういうことだったのだな、と気づかされました。
それともうひとつ、その記事にコメントを寄せている女性の言葉が、とても印象的でした。
一部抜粋すると、
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内田さんの本はすべて借りて読んだので確信はありませんが、たしか「下流志向」を読んだ後、なぜかショックを受けて何日か落ち込んだことを思い出しました。夫婦合わせても一般のサラリーマン1人よりずっと収入の低い我が家は確かに「下流」だと思うのですが、何とかやっているわけで・・・そんな人間を落ち込ませる本っていったいどうなのか?と今となっては思います。
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イカフライ氏はこの人の気持に寄り添うようにしてていねいなコメントを返しておられた。
そして、「内田氏は弱者や貧者やや愚者を心の底から嫌悪している」と言う。
その通りだ、と僕も思う。
ただ、この女性のコメントで気になったのは、「ショックを受けて何日か落ち込んだ」というその感覚というか感受性のことです。
そのとき彼女は、みずからの貧しさを愚弄されて落ち込んだのではない。彼女じしんの感受性を否定されたからだ。
もっと別の人間になって別の生き方をせよ、と迫ってこられたからだ。
内田氏は、まったくそんな言い方ばかりしている。自分こそがまっとうな人間なのだから、みんな俺みたいな人間になれと迫ってくる。
口先では、人間はひとりひとりみんな違う、と言いながら、そのじつ自分を肯定することしかしていない。彼の理論は、その目的のためだけに捏造されてゆく。
ニート」も「フリーター」も「大衆」も「子供」も「若者」も、すべて否定せずにおかない。
私はそうは思わないのよね、という感想を持てば、そこがおまえのだめなところだ、と追い討ちをかけてくる。その強迫の仕方の上手なこと。それで彼女は落ち込んでしまった。
彼女には、彼女なりに「私はこういうふうにしか生きられない」という何かがある。そういうものをひといちばい切実に抱えているから、落ち込んでしまうのだ。
大切にしているものがあるのじゃない、こういうふうにしか生きるしかないじゃないか、という何かがある。大切にしているものがあるのなら、あんたなんか関係ない、ですむ。でも、誰もが、こんなふうに生きたいわけではないけどこう生きるしかない、というある何かを抱えている。
そんなものを、彼女のコメントから僕は感じた。
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すべての人間、すべての人生が。みんな「イエス」なのだ。
僕は、内田氏の人格も人生も肯定する。でも、俺の人格だけがまっとうなのだと言う言説は否定する。思い切り否定する。そこまで言うのなら、おまえなんかただのゲス野郎じゃないか、と言い返すしかない。
秋葉原で事件を起こしたあの若者の人格も人生も、僕は肯定する。起きてしまった事件の悲惨さは言うまでもないことだが、そういうことをしてしまった人間を否定するつもりはさらさらない。
それは、人間の歴史の運命だったのだ、と思っている。誰もが、歴史の一部として存在している。彼は、そういう役割を負って生まれてきてしまったのだ。
ご立派な大学教授の役割で生まれてきたからといって、俺こそがまっとうな人間だと言われたら、何言ってやがる、と言い返すしかない。あんただって、秋葉原の彼以上でも以下でもない人間の歴史の一部なのだ、と。
すべてが「イエス」なのだ。
われわれは、そこから出発する。