内田樹という迷惑・「あなたを祝福する」ということ

自分を祝福できないものがどうして他者を祝福できよう……イカフライ氏は、そういっておられた。
内田氏も、そういっている。自分を愛するように他者を愛せとか何とか、自分によくしてくれる秘書に対して「あなたなしでは生きてゆけない」といいたいほど感謝している、と。そしてこの言葉こそもっとも純度の高い愛の表現である、といっておられた。
彼らにとっては、すべては「自分を祝福する」というところに帰結する。他者を祝福してゆくことなんか、自分を祝福するための方便に過ぎない。
イカフライ氏は、僕の尊敬を欲しがった。僕がもし彼のいうことに対して「そうですね、あなたはすばらしい」といってやれば、彼もまた、言葉の限りを尽くして僕への賛辞を送り返してくる。
しかしそれは、けっきょく自分のすばらしさを確認しているだけの行為に過ぎない。内田氏も、自分のすばらしさを確認するようにして一部の人を誉めているだけのことだ。
僕はもう、イカフライ氏も、内田氏も、尊敬しない。自分を祝福している人間、したがっている人間を祝福してゆくことなんかできない。僕が祝福しなくても、彼らはすでに自分によって祝福されている。だから、僕の祝福なんか、何の意味もない。むなしいだけだ。
というか、僕の意識は、「……ではない」と認識するときに、もっともいきいきとはたらく。だから、自分を祝福していない人を「そうじゃない」と否定して祝福してゆくことしかできない。
自分を祝福している人、祝福したがっている人なんか、祝福のしようがない。
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ネアンデルタールは、誰も自分のことを祝福していなかった。だからこそ、誰もが「あなた」を祝福していった。そしてそれは、自分を捨てるためだった。自分を祝福するためなどではなかった。他者を祝福することによってしか、祝福されない自分を捨てるすべはなかった。
自分捨てるカタルシスというのを、彼らほど深く知っているものたちはいなかった。
人は、死者を祝福する。死者の思い出は美しい。
とすればもう、生きている自分は醜く祝福されるに値しない存在である、と認識するほかない。
ネアンデルタールの母親は、生涯に7人か8人の子供を産んだが、成人になるまで生き延びることのできる子供はひとりか二人だった。そういう死んでいった子供たちのことを思えば、生き延びている自分が祝福に値する存在だとは思いようがなかった。
ネアンデルタールが人類で最初に埋葬を始めたのは、研究者が言うような「死者の霊を発見したから(内田氏もそういっている)」というようなことではなく、ただもうその死を悲しみ、けんめいに死者を絶対的な「他者」として祝福していったからだ。
原初の人類は、アフリカを出ることによって定住することを覚えた。そうして、死者との関係をより深くしていった。定住すればもう、死者を置き去りにして移動してゆくことはできない。それだけのことさ。何が「霊魂の発見」か。
ネアンデルタールの生存は、生の途中で死んでいった者たちの思い出とともにあった。人類は、定住することによって、死者の思い出の美しさとみずからの生が祝福に値しないことを知った。
そうして、他者を祝福せずにいられない思いを募らせていった。あるいは、他者を祝福せずにいられない暮らしをしていたから、死者の思い出もより美しくなっていった。
そのように「他者」との関係をより深くしてゆくことよって人類は地球の隅々まで拡散していったのであって、「生き延びる戦略」がどうのという問題ではない。
生きている人間は、誰もがその胸のどこかしらで、自分が生きているに値しない存在であると認識している。だからこそ、他者を祝福せずにいられないのだろう。