内田樹という迷惑・「感謝する」という制度性

人類が地球の隅々まで拡散していったのは、住みよい土地を求めて移動していったからではない。
住みにくいところであればあるほど、他者との関係が深く濃密になっていったからだ。濃密になって助け合えば、どんな住みにくいところにも住み着いてゆける。
内田氏は、人間の社会は強い者が弱い者を助けてやることによって成り立っている、という。つまりそのとき強い者は、弱い者から人間として「承認=感謝」されることによってすでに反対給付を受けている。強い者も弱い者も、そういうかたちで「承認される」という結果を得ている。それが、人間を生かしている……ということらしい。
一見もっともらしいが、これは欺瞞だ。
助けてやった、という喜び。助けてもらった、という喜び。そんなものが、人間の助け合うという行為の本質だろうか。
1万円貸してもらえば、まず心に浮かぶのは、これでうまいものが食えるとか何が買えるとか、そういう喜びでしょう。そう思っちゃいけないのか。まず「感謝」しないといけないのか。そのとき感謝の態度を示しながら、誰もが本心では一万円そのものに喜んでいる。
たぶん、それでいいのだ。その一万円に対する切実さが深いものほど、一万円そのものに喜んでいる。
そして貸したがわも、借りた者のその喜びを自分のものとして喜ぶ。
それで、いいではないか。感謝する謙虚さとか、される満足とか、普通はそんなことのために貸すのでも借りるのでもない。その一万円がどうしても必要なものだから、借りるのだろう。そして「うん、わかった」と言って、貸してあげるのだろう。
相手の事情を考えて貸してやるのだ。相手の心がわかったからじゃない。他人の心なんか、わかりようがない。
人が「もらい泣き」するのは、他者の悲しみがわかるからではなく、その泣くという行為を見ながら自分の中に悲しみが起きるからだ。他者の悲しみなんかわからない。わかるためには、自分が悲しくなってみるしかない。それは、あくまで自分の悲しみなのだ。
他者の悲しみを、自分の悲しみとする。他者の心などわからないから、自分の悲しみで追体験してみるしかないのだ。
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他者は、「自分ではない」のだ。世の中は、この平明で厳粛な事実の上に成り立ち、この平明で厳粛な事実を蹂躙して動いてゆく。そこが、問題だ。
われわれは、他者の心がわかったつもりになってしまう。それで、世の中が動いている。しかしそれは、根源的な意識のはたらきではない。それで世の中が動いているのであるが、そういうことの上に世の中が成り立っているのではない。
J・ラカンだろうと内田樹だろうと、そこのところを混同して考えてしまっている。表層と根源、そこのところをきちんと見極めていない。
たとえば、根源的には意識はストレスとしてはたらいているし、そういうことの上にこの世の中が成り立っているのだが、この世の中の動きは、意識の本質がストレスではないという前提になっている。ストレスではないという前提で、われわれは、他人の気持ちがわかったような気になってしまう。
内田さん、あなたは、他者の心のわからなさに嘆き震えたことがないのか。
根源的には、他者の心はわからない。わからないことの上に人と人の関係があり、わかったつもりになって動いてゆく。
もらい泣きしてわかったつもりになるが、わかるのなら、わざわざもらい泣きして追体験する必要もない。
物が煮えたかどうかわからないから、味見をしてみる。店の素敵なドレスも、試着をしてみなければ自分に似合うかどうかわからない。
逆に言えば、他者の心がわかった(=他者から承認された)つもりになっている者はもう、他者の心を自分の心として追体験するというようなことはしない。
弱いものを助けてあげて弱いものから承認(感謝)されたと自覚している者はもう、そのとき弱いものが体験しているよろこびを追体験することができない。
手を取って横断歩道を渡らせてやる。そのとき彼は、渡らせてもらった者の「承認=感謝」の気持ちばかり追体験して、渡らせてもらった者の「渡ることができた」というよろこびを追体験していない。そのとき彼は、「助けてあげた」という自己満足を追いかけているのであって、自分を捨てて「渡ることができた」という他者の心に推参するということをしていない。
そう思いたければ思えばいいのだけれど、いったいどちらにより深いカタルシスがあるだろう。たぶん、人と人の関係の基礎は「渡ることができた」という他者の心に推参することにあるのだろうが(それが原始的な心の動きだろう)、この世の中の動きは、感謝し感謝されているという関係の上に成り立っている。
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他者を助ける行為は、ほんらい他者を祝福する行為である。自分が祝福される行為であっていいのか。
自分を確認するカタルシスと、自分を忘れるカタルシス。あなたは、労働をして自分を確認しているときと、自分を忘れて遊びに夢中になっているときと、どちらにより深いカタルシスを覚えますか。
うっとうしい自分に対するこだわりなどさっぱり洗い流してしまいたい、という気持ちはないですか。
自分を忘れてしまうくらい他者に深く気づくこと、それはたぶん、原始的な心性なのだ。ネアンデルタールだろうと縄文人だろうと、他者が自分に感謝しているとかいないとか、そんなことはどうでもよかった。