内田樹という迷惑・「願う」ということ

この世の中は、いろんな人たちがいろんな思いを抱えながら生きている。
しかし「私」は、それらの思いのどれひとつとして知る(見る)ことができない。
「私」が知る(見る)ことができるのは、「私の思い」だけだ。いやそれすらも、ときによくわからないことがある。
「私」は、この世界から置き去りにされてある……。
「私」は、人間から置き去りにされてある……。
そんな思いになったことはないですか。
人の心を知ることはできない……人と人の関係は、そういう絶望の上に成り立っている。
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心なんか伝えようがないから、その代替として人は物でお礼をする。ありがとう、と言う。そうして、わかったようなつもりになる。
ひとの心が見えるのなら、お礼の品もありがとうの言葉もいらない。
人と人のあいだには、心が伝わらない「裂け目」がある。それは、体がぶつかり合わない「空間」がある、ということだ。人類は、このぶつかり合わない「空間」を作るために直立二足歩行をはじめたのであり、この「空間=裂け目」を止揚してゆくことこそ人間性の基礎である。
この「空間」を止揚してゆく行為として、言葉が生まれてきた。言葉は、この「空間」に投げ入れられる。
「私」が話し、「あなた」が聞く。「私」が差し出し、「あなた」が受け取る。決して「伝える」のでも「届ける」のでもない。言葉も贈り物も、この「空間」におかれ、この「空間」が止揚されるのだ。
たとえば原始時代、成人した娘である家の中の女は、家の男にとって性欲の対象にならない。だから、追い出そうとする。女も、逃げてゆこうとする。このことが二つの家のあいだで同時に起こったとき、「交換」という行為が生まれる。
そのとき、二つの家のあいだに交換するための「空間」が発生した。その「空間」において、「交換」が成立したのであって、たがいに相手の家に届けたのではない。ともに、女をその「空間」に置いたのだ。あるいは、女が、その「空間」に立った。
たがいに、相手の前にものを置く。これが「交換」の本質であって、相手に直接渡し、直接受け取るのではない。受け取る受け取らないは、相手の勝手なのだ。直接渡すことなんかできない。「価値」とか「所有」という概念が未発達だった原始時代に、そんな「交換」のかたちなどなかった。「価値」とか「所有」の概念がないのなら、「贈与と返礼」という概念も成り立たない。
これを、「沈黙交易」と言う。原始時代はみな、そのようにして「交換」をしていた。
レヴィ=ストロースや内田氏が濫用したがる「贈与と返礼」というこの通俗的な言葉をいったん捨てなければ、われわれは、原始時代の「交換」のかたちも、「交換」そのものの本質も考えることはできない。
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言葉だって同じだ。言葉は、「贈与と返礼」の道具ではない。人と人のあいだには、贈与をすることも返礼をすることもできない「空間=裂け目」がある。この「空間=裂け目」において、言葉は生成している。
この「空間=裂け目」を止揚してゆくから、人と人は体をぶつけ合わないですんでいる。この「空間=裂け目」を止揚してゆくから、助け合わないと生きてゆけないようにできている。
この「空間=裂け目」をしてゆくことによって、カタルシスが生まれる。
私は、言葉をあなたに伝えることができない。「私」にできるのは、この「空間」に言葉を「差し出す(=話す)」ことだけであり、あなたの「受け取る=聞く)」という行為によってはじめて「伝わる」というかたちになる。
「私」には「差し出す(話す)」ことしかできない。
「あなた」の「受け取る(聞く)」という行為が「伝える=コミュニケーション」というかたちを成り立たせている。
すなわち、この時点ですでに人間は「助け合っている」ということだ。決して「助ける」ことも、相手の心が「わかる」こともできない。
だから人は、助け合おうとする。人が会話をするということは、だれもが根源において「あなたを助けたい」という願いを持っている、ということを意味する。「聞く」という行為は、「あなたを助けたい」という願いの上に成り立っている。
言い換えれば、そういう願いの薄い人間は、人の話を聞こうとしない。
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助けてあげたとか助けてもらったとか、そんなことを確認するために「助ける」という行為がなされるのではない。ネアンデルタールのように助け合わないと生きてゆけないような状況に置かれたら、人間は助け合うようにできている。
助けてやって感謝される喜びだとか、助けてもらって感謝する喜びだとか、そんなことはどうでもいい。そんなことのために人間は生きているのではない。そんなことはたんなる「結果」であって、人が助け合おうとすることの根源的な衝動、すなわち「原因」ではない。単純に、人間は他者を祝福してゆく存在だからだ。「あなたを救いたい」と願ってしまうからだ。
他者に祝福されている、という「満足」が人間を生かしているのではない。自分を捨てて「あなた」に深く気づくこと、それじたいによってもたらされるカタルシスがある。それが、人間を生かしている。
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祝福されると自覚すれば、ペニスは勃起するか。
夫婦仲がよくても勃起しないことが多く起きているから、EDという問題が取沙汰されるのだろう。愛されている、という満足では、勃起しない。他者の存在に深く気づき祝福してゆくというかたちで、ペニスが勃起する。愛されているという満足など、何の役にも立たない。自分のことを忘れて他者に深く気づくから、勃起するのだ。
愛されているという自分をまさぐるだけでは勃起しない。EDは、人に自分をまさぐることばかりさせたがるこの社会に与えられたひとつの報いなのだろう。
自分をまさぐろうとする傾向の強い人は、EDになりやすい。そして病気や老化によってやむなく勃起を断念させられた人は、それと引き換えに、どんどん自分をまさぐり主張してくるようになってくる。
年寄りは、自分をまさぐってばかりいる。
そして内田氏も、自分をまさぐってばかりいる。
勃起という現象は、他者の存在に深く気づきながら自分が消えてゆくカタルシスとしてもたらされる。
人は、他者の祝福(感謝)が欲しくて、助けようとするのではない。感謝されようがされるまいが助けようと人は「願う」のであり、願わずにいられないくらい祝福してしまう生き物なのだ。
「もらい泣き」は、他者を祝福する行為である。