内田樹という迷惑・「聖なるもの」について

われわれは、どこかしらで、「神に見られている」「神に試されている」という思いがある。
人間が「正しい」とか「美しい」とかいうものを問わずにいられないのは、けっきょくどこかで「聖なるもの=神」を意識しているからだろう。
「聖なるもの=神」が存在するかどうかなんて、わからない。しかし「見られている」という意識は、たぶん誰もがどこかしらに持っている。
われわれは「見られている」というかたちで存在している。
それは、神という以前に、直立二足歩行の起源の問題だと思う。
二本の足で立ち上がる姿勢は、胸・腹・性器等の、ほんらいは隠れているはずの急所を外にさらしてしまっている。その居心地のわるさが、「見られている」という意識を引き起こす。
人間は、避けがたく自意識過剰になってしまう生き物なのだ。
相手を見つめてしまう疚しさ、というのがある。見つめられる鬱陶しさというのがある。
それは、相手の急所=弱みを見つめてしまう態度であり、自分自身も、見つめられることの居心地のわるさをたえず意識している。
直立二足歩行する存在は、世界から見つめられている。自意識は、そこから生まれてくる。
人間はもう、「見られている」という意識から逃れられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし「人間という制度」の詐術は、その居心地のわるさをよろこびに変えてしまう。
すでに「見られている」のではなく、「見られたい」と願う。そして、見られることによって、「私は美しい」「私は正しい」と自覚する。
彼らは、「見られている」という人間としての根源的な意識を忘れてしまっている。
「聖なるもの=神」の喪失、ということだろうか。彼らは、「あなたは美しい」と気づくことよりも、「私は美しい」と自覚することを願う。そうしておいて、「あなたも私も美しい」など言ってごまかす。そんなものは、ごまかしなのだ。私なんか美しくないという自覚があるから、あなたは美しいとときめく。誰も彼も美しい、という世界などない。醜いものを措定するから、美しいという認識が生まれてくるのだ。
じゃあ、何が醜いのか、人間以外のものか。仏教では「畜生道」などという。そして、「あなた」は「私ではない」のだから、「私」が美しければ、「あなた」は美しくない、ということになる。そうやって内田氏や村上龍氏などは、さかんに「大衆」を侮蔑している。そして大衆自身も、誰もが自分だけは違うと思っているから、二人の言説に賛成してゆく。けっきょくどいつもこいつも「私は美しい」と思いたがっているだけじゃないか。そんな意識は、ダサい。自分がどれほど差別的な人間かということを、わかっていない。「私は美しい」と思うことそれじたいが、差別意識なのだ。
内田氏も村上氏も、まったく野暮ったい人たちだ。
自分は正しいとか美しいという認識は、「見られている」ことの居心地のわるさを打ち消して、「見せ付ける」態度である。見られたいものは、見せ付けようとする。
おしゃれに着飾ることは、「見せ付ける」ためか。たぶん、そうじゃない。それは、野暮なおしゃれというものだ。ほんとうにおしゃれな着こなしは、「見られている」ことと和解してゆくためになされる。ほんとうにおしゃれな人は「すでに見られている」から、内田氏や村上氏のように「見られたい」などと思わない。
「見せ付ける」ためじゃない、「見られている」ことに耐える(和解する)ためにおしゃれをするのだ。目立つためじゃない。おしゃれな人は、そんな派手なデザインの服は着ない。見られたいというような、野暮なスケベ根性は持っていない。「すでに見られている」のだから、いまさらそんな意識を持つ必要もない。彼(女)は、「見られる」ことの居心地のわるさを知っている。だから、他者の視線をはぐらかすように、まるで普段着のようにそれを着こなしている。それが、おしゃれの原点であり、究極なのだ。
人間は、「見られている」ことの居心地のわるさをあんばいするために衣装を着始めたのであり、つまり、「聖なるものから見られている」ことの居心地のわるさに耐えるためにおしゃれをするのだ。見つめられたいからじゃない。言い換えれば、見つめられたいと思った瞬間から、その着こなしは野暮ったいものになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私」が美しいのではない、「あなた」が美しいのだ。人間の意識は、そこから始まっている。
原初の人類は、二本の足で立ち上がって弱みをさらしている他者にときめいてしまったのだ。そのときめきから、「美しい」とか「正しい」という概念が生まれてきた。
「あなたは輝いて存在している」と認識するとき、「聖なるもの」から「見られている」醜く卑小なこの「私」のことは忘れている。人間は、まず「私」を忘れるという体験をした。忘れているから、二本の足で立っていられるのだ。「私(の身体)」のことなど意識していたら、不安で立っていられなくなってしまう。しかしあなたの姿勢のその危うさに見とれて、自分のことを忘れてしまった。
二本の足で立ち上がって向き合ったとき、「あなた」が弱みをさらして「私」の前に存在していることの不思議、そのときめきによって「私」は、自分が不安定な姿勢で立っていることを忘れてしまった。
そのとき「あなた」は、今にも倒れそうな姿勢でたっている。それは、次の瞬間には壊れて(消えてなくなって)しまうかもしれないかたちである。そういうものを前にしたとき、生き物は、目が離せなくなってしまう。
夕日に見とれてしまうのも、まあそういうことかもしれない。
「私」はもう、生き物としての警戒心を一切捨てて、「あなた」に見とれている。
猿どうしが向き合っているときは、威嚇しあっているとか、服従の意思を示して毛づくろいをしているとか、生き物としての緊張関係をはらんでいる。
しかし弱み(急所)をさらして向き合う人間は、一切の警戒心を捨てて「あなた」にときめくことができる。「あなた」は、警戒すべき相手ではなく、「助けてあげたい」と願う相手である。
「あなた」の存在の仕方には、奇跡的な美しさがそなわっている。
「私」は、「あなた」が存在することの正当性を感じないではいられない。
そのようにして「美しい」とか「正しい」という概念は、他者に対する感慨として生まれてきた。
自分をそのように認識することのできる根拠など、もともとどこにもなかったのだ。
直立二足歩行は、自分を忘れて他者を認識してゆく姿勢である。人間の意識は、まず他者に気づく。
「私」にとって目の前に「あなた」が存在することは、ひとつの事件である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「見られている」という「居心地のわるさ(=自意識)」は、他者に見とれて自分が消える体験によって克服されるのか。それとも、見られていることの恍惚とともに自分を正当化しつつ確認してゆくことによってか。
「見られている」ことの居心地のわるさがあるから、他者に見とれて自分を忘れることがカタルシスになる。
「見られている」ことが快感になってしまったら、もう居心地の悪さはない。それは、「聖なるもの」に見られていることに対する反省をしなくなる、ということだ。
しかし反省しないけど、夢にうなされる。つまり、無意識に復讐される。
僕は、30歳を目前にして、それまでのニート暮らしから人並みに働いて飯が食えるようになったとき、いろんないやな夢に悩まされ、夜中に「ぎゃあ」と叫んで飛び起きたことが何度もあった。そうして、だんだんものを考えなくなっていった。生活は楽になったし、これでいいのだと思いつつ、心の奥ではいつも「聖なるもの」に対する疾しさがうずいていた。何かを捨ててしまった、という疾しさが、いつもあった。
ろくに本も読まなくなって、もっと貧しくならなければものを考える人間に戻れない、といつもあせっていた。
いい時代だったということもあるが、貧しかったころのほうがずっと女にもてたし、僕自身も以前のようにときめかなくなっていった。
見られている(=人に認められる)ことの俗っぽい恍惚もたしかにあったのだが、それでも、いつもどこかで「聖なるもの」に対する疾しさがうずいていた。
見られている(見せ付けている)ことの恍惚で生きるとは、自分で自分を見つめて賛美する、ということでもある。しかし、そうそう自分を賛美し続けることはできない。人は年をとるし、人生には挫折もある。そんなとき、自分から見られていることの居心地の悪さが耐え難いものになってしまう。
人は、「見られている」という自意識から逃れて生きることはできない。(つづく)