内田樹という迷惑・「聖なるもの」について2

直立二足歩行を始めた人類は、「あなた」の存在の背後に「聖なるもの」が宿っているのを見た。そして自分の背後にも「聖なるもの」が存在し、そこから「見られている」ことを自覚した。
自意識とは、「聖なるものから見られている」という意識のことである。
「聖なるもの」があるなら、「私」はとうぜん卑しい対象でしかない。しかし「聖なるもの」は「聖なるもの」であるがゆえに、けっして「私」を見限らない。どんなに卑しく醜くても、見限らない。
「聖なるもの」は「私」を見限らないがゆえに、「見られている」という「私」の自意識もまた消えてしまうことがない。
「聖なるもの」は、けっして「私」を否定しない。しかし「聖なるもの」であるがゆえに、肯定もしてくれない。否定も肯定もしないで、「私」を許している。
「見られている」という自意識は、消してしまうことも満足させることもできない。それは、われわれの中で生起したり消滅したりしている。われわれはもう、そういう自意識の「生成」を生きるしかない。
つまり、深く自分にうんざりしている人は、その分自分が消えてゆくカタルシスを体験することもできる。これが、自意識の「生成」である。
小林秀雄は「自意識にけりをつける」といった。それは、自意識を消してしまうことでも、満足して止揚してゆくことでもない。さらには、自意識と和解して、自意識を安定的に保つことでもない。
われわれはすでに「聖なるもの」を知ってしまった。「あなた」の背後に「聖なるもの」を見てしまったのだ。であれば自分はもう、侮蔑するべき対象でしかない。自分を侮蔑しながら、生起しては消えてゆく自意識の「生成」を生きること、これが「自意識にけりをつける」という態度だ。
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内田氏は「人間とは自己意識である」という。そうやって自意識を温存し、見せつけたがりの自分を正当化してゆく。
見せつけたがるということは、「見られている」という自覚を喪失していることを意味する。そして、自分を忘れて他者に見とれる、という態度も喪失している。
彼には、「見られている」とか「見とれてしまう」というような、自分から離れたところで起きていることに対する認識がない。「見つめる=見つめられる」という自意識がこめられた関係を「愛」だと認識している。
見つめられたら、誰だってうっとうしいに決まっている。
女に見ていることをとがめられるのは、値踏みするような見つめ方をしているからだ。ただぼんやり見とれているだけなら、女も文句は言わない。
そうやって「見つめる」から、女が逃げてゆく。内田氏はたぶん、女を値踏みするように見つめるタイプだ。
見つめたって、ちんちんは勃起しない。自分を忘れて見とれてしまうから勃起するのだ。
勃起することは、「自意識にけりをつける」体験である。
自分を忘れて「見とれる」ことは、「自意識にけりをつける」体験である。
自意識で「自意識にけりをつける」ことはできない。それは、自意識を離れる体験としてもたらされる。
人と人の関係は、「見つめる=見つめられる」態度の上に成り立っているのではない。人間は、すでに「見られている」存在なのである。だから、その上なおだめを押すように見つめられたら、鬱陶しいばかりだ。
見つめない態度として、人は、抱きしめあう。深くお辞儀をする。
弱み(=急所)をさらして不安定な姿勢で立っている他者は、見つめてはいけない存在なのだ。そんな姿勢で立っているのだもの、見つめられたらつらいに決まっている。
いつもまわりから見つめられて育ったものは、「聖なるもの」に目覚めた思春期以降に、「見られている」という自意識の過剰さに悩まされることになる。
一方、たとえば内田氏のように、見られることに対する飢餓感を募らせて育ったものは、「見つめられたい」という自意識を肥大化させてゆく。彼は、見つめられることによって、はじめて「聖なるもの」を意識する。
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この社会には、「聖なるものから見られている」という自意識を「聖なるものから見つめられたい」という自意識に変えて、その自意識を肥大化させてゆくという制度性が存在している。「見つめられたい」のは、「見られていない」からだ。
内田氏がみずからの道徳性を追及し自慢したがるのは、このことだろうと思う。道徳的でありたいのは、聖なるものに見つめられたいからからだ。
すでに「見られている」ものは、すでに道徳的であり、道徳的でありたいと願うことも、道徳的であると自覚することもない。たとえ社会的に非道徳的であっても、「聖なるもの」との関係において潔癖であろうとする。
内田氏やイカフライ氏のように「聖なるもの」に見つめられたいと願っているものは、一見道徳的だが、もともと「聖なるものに見られている」という自覚が希薄だから、いざとなったら、他人を卑しめはずかしめることなんかなんとも思わない。
彼らは、「聖なるもの」との関係を喪失しているがゆえに、関係を願わずにいられない。
「聖なるもの=神」は、「私」を救ってくれない。たえず「私」に疾しさと自己嫌悪を与え続ける。しかし、そこから「私」は、世界の輝きを体験する。
「聖なるもの」は、「私」の道徳性にお墨付きを与える道具ではない。それを彼らは、そういうものにしてしまっている。
アメリカの正義……アメリカ人ほど道徳を追求し自慢したがる人々もいないし、アメリカ人ほど戦争をしたがる人々もいない。アメリカ人ほど「聖なるもの=神」を希求する人々もいないし、アメリカ人ほど「聖なるもの=神」を冒瀆している人々もいない。
人は、道徳的であろうとするのではない。すでに道徳的なのであり、すでに「聖なるもの」との関係に置かれてしまっているのだ。(つづく)