内田樹という迷惑・「聖なるもの」について3

僕は、二十代の終わりころ、まともな社会人になったとたん、ものすごく死ぬのが怖くなった。つまり、それほどにどうしようもない俗物になってしまった、ということです。
それまでは、死ということなどまるで考えないのうてんきな暮らしをしていた。未来はおろか、明日のことすら考えない暮らしをずっと続けていた。
死は、未来の人生の向こうがわにある。そして、死んだあとのことなんか誰にもわからない。というか、死んだあとなんか、あるはずがない。だから、考えても無駄なことだ。考えないことが正解なのだ。
死について考えりゃえらいというものでもなかろう。殺人者は、みんな、死について誰よりもリアルに考えている。彼らは、人生について深く考えている道徳家であるのか。
死の世界などない。誰も死の世界に行くことなんかできない。
死んだあとの世界のイメージなど、すべて生きている人間が捏造したものであって、「聖なるもの=神」は、そんなことは何も教えてくれない。「聖なるもの=神」は、死について何も教えてくれない。
神は、人間を救済しない。死んだら神が救済してくれる(極楽浄土に行ける)のなら、さっさと死んでしまえばいい。このことの答えは、親鸞だろうと、誰も示してくれていない。
神は、そんなことは何も約束しない。
われわれが生きてあるところにしか、神はいない。
生きてあることの信憑として、神がイメージされる。
意識とは何か、とか、「ある」と「ない」はどうだとか、そんなことは生きてある人間しか考えない。死の世界にそんな問題は存在しない。それは、そこに神は存在しない、ということだ。
生きてあることの問題として、「聖なるもの=神」がイメージされている。
したがって、死について考えることは、「聖なるもの=神」からの逸脱にほかならない。
そんなことは、俗物の考えることだ。あのころの僕は、いい気になって仕事にがんばったりなんかして、ほんとうにどうしようもない俗物だった。
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人は、「聖なるもの」から「見られている」という意識を失ったとき、死について考える。
まともな社会人になるということは、「聖なるもの」を見失うということだ。そうして、はげしく「聖なるもの」を希求する。
聖なるものを希求する道徳家なんて、どうしようもない俗物なのですよ。あげくに、どこかの誰かさんにいたっては、労働と「聖なるもの」を結びつけるような屁理屈をこねくりだしてくる。
「聖なるもの」は、この社会の正当性を保証しているのではない。この社会の戒めとして浮かび上がってくるイメージであり、そんなふうにいい気になって社会生活をいとなんでいる人間がいかに不完全で醜い存在かということを知らせてくるイメージなのだ。
この社会では仕事をしないと生きてゆけないに決まっているが、仕事なんかいやいやするものだ。それでいい。よろこびいさんで仕事をしているものは、「聖なるもの」から見離されている。
それはもう、体験的にそう思う。ほんとに死ぬのがものすごく怖かった。仕事の成果が上がれば僕はもういい気になってしまっていたのだけれど、その一方で、ますます死ぬのが怖くなるばかりだった。
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二十代のころは、アルバイトをしても、三日と続かなかった。それでもそのころの僕は、「聖なるもの」のそばにいた。不道徳な生き方ではあったが、「聖なるもの」に対しては敏感に反応して生きていた。世界が輝いて見えていたし、美しいものにときめいていたし、あんなにも無心に人にひざまずいてゆくことができたのは、後にも先にもあのころだけだった。
毎日「聖なるもの」に見つめられて身がすくむような思いで生きていたが、それでも、特に人からさげすまれたという記憶もない。一人ぼっちだったが、出会った何人かの人は、神の子のように扱ってくれた。僕をホテルに連れ込んだ自衛隊の人や保護観察士の人も含めて。
「聖なるもの」に見られていたら、働くことなんかできない。「聖なるもの」は、未来のことなんか考えるな、今ここの世界の輝きに気づけ、と迫ってくる。
働くことは、「俗」にまみれることだ。しかしその「俗」の中に「人」がいて、その「人」と出会ってゆく。
誰というわけでもないが、そのいくつかの出会いが、僕を働く世界に連れていった。
そうして「聖」と「俗」のはざまで均衡を保っていられたのはほんのわずかな期間で、やがて僕は、よろこびいさんで仕事に励みつつ、どっぷりと「俗」にまみれていった。
そこで、死ぬことがものすごく怖くなっていった。
人は、「聖」と「俗」のはざまで生きてゆくしかない。それは、かんたんなようで、かんたんなことではない。
仕事はしなければならないが、いやいやするべきだ。よろこびいさんで励んでいたら、ろくなことにならない。
「聖なるものに見られている」という自意識は、けっきょくどこまでも着いてまわるのだから。
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俗物ほど、死のことを考えたがる。
未来という時間など存在しないのだから、われわれは死ぬのかどうかわからないのだ。
「聖なるもの」は、決して死について教えてくれない。俗物がわかったような気になるだけのこと。この世の中には「私は死について深く考えている」と、えらそうに自慢する人がたくさんいる。内田氏もその一人だが、そういう連中こそ、「聖なるもの」に気づかない俗物なのだ。
死は、はにかみながら語るものだ。それが、「聖」と「俗」のはざまに立つ、ということだ。
人間は、弱み(急所)をさらして二本の足で立つことの居心地の悪さを携えて人間であることを始めた。「聖なるもの」は、われわれをたえずそこに連れ戻してしまう。
「聖なるもの」は、けっして人に安らぎを与えない。
生きることは、「聖なるものから見られている」という自意識を抱えて焦りまくることだ。自分にいらだち、消えてしまいたいと頭を抱えることだ。この生に幻滅することだ。
安らぎなんか、死ぬまでやってこない。
そうやって心の底に煩悶や嘆きを抱えているから、世界が輝いて見える。
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十字架にかけられたキリストは、最後にこう言って死んでいった。
「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」
この嘆きが、「聖なるものに見られている」という体験だ。神は、人間を救済しない。心の平安など、ついにやってこない。
しかしこの嘆きを携えているから、世界は輝いている。そういう「応力」がはたらかなければ、そういう体験はできない。言い換えれば、そういう嘆きを抱えているから、「聖なるもの」が意識されてゆくのだ。
われわれは、弱み(急所)をさらしながら二本の足で立っている存在である。その「嘆き」が、「聖なるもの」を発見した。その「嘆き」によって、美しいものにときめくようになった。
「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」と訴えるものこそ、もっとも神のそばにいる。
悟りを開いた人間が神のそばにいるのではない。
嘆いている人こそ、「聖なるもの=神」と出会っているのだ。
失恋した人、事業に失敗した人、リストラされた人、ガンを宣告された人びとは、「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」と訴えている。
彼らこそ、もっとも神のそばにいる。
心の平安が、あなたを輝かせるのでも、世界が輝いて見える体験をさせるのでもない。
あなたの「嘆き」が、あなたを輝かせ、世界が輝いて見える体験をさせる。
「神=聖なるもの」は、あなたの嘆きを掬い取ってカタルシスに変える体験をさせてくれるが、心の平安を与えてくれるのではない。
神は、あなたの「嘆き」を掬い取ってやりたいと願っているのであって、あなたに心の平安を与えてやりたいと願うのではない。
心の平安によっては、あなたも世界も輝かない。
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心の平安なんて、そんなもの、ただの停滞であり思考停止じゃないですか。
「嘆き」が思考をうながし、美しいものにときめかせる。
年を取るとなぜ記憶力が衰えるかというと、脳細胞の問題はさておくとして、そのつど世界に反応して生きていないからだろう。反応している人は、そうかんたんにボケない。
たとえばボケ老人が「徘徊」してしまうのは、歩いていてもまわりの景色に反応していないから、どこを歩いているかわからなくなってしまうのだろう。歩こうとする意欲だけで歩いているから、歩くことがやめられない。景色に心を動かされて立ち止まる、ということがない。
景色に心を動かされるとは、世界に対するひとつの違和感である。
若者が輝いているのは、世界に対する違和感を「嘆き」として抱えているからであり、その嘆きから、カタルシスをくみ上げてゆく心の動きのダイナミズムを持っているからだ。
世界に対する違和感を失った大人たちの身体の輪郭は、世界に溶けてしまっている。だから、存在そのものの輝きがない。
若者の姿の美しさは、世界に対する孤立性として現れている。バカギャルでも、そういう孤立性はちゃんと持っている。ただ体形が崩れていないとか、そういうことじゃない。世界に対する違和感という精神性の問題なのだ。
すなわち彼らは、「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」という「嘆き」を携え、そこからカタルシスを汲み上げながら生きている。
人は、そういう「嘆き」を失ったときにボケ老人になり、またそういう「嘆き」がやってきたときにいまさらそこからカタルシスを汲み上げてゆくすべもなく、途方に暮れてしまって鬱に落ちてゆく。
「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」という訴えは、世界に対する違和感である。美しいものに感動するとは、そういう違和感なのだ。その違和感が、カタルシスをもたらす。
心の平安なんかなくてもいい。感動して生きていれば、そうそう死にたくなることもないだろう。というか、必要なのは、心の平安ではなく、感動なのだ。心の平安など、鬱の別名でもある。
「神=聖なるもの」は、心の平安を与えてくれない。世界に対する違和感を持たされるだけだ。そしてわれわれがそこから感動というカタルシスを汲み上げるとき、「聖なるものと出会っている」という体験になる。
内田氏は、人間とは自己意識である、というが、「神よ、あなたはなぜ私を見捨て給うのか」という訴えは、自分をまさぐる意識などではなく、それほど深く「神=世界」に気づいている、という意識である。捨て身で世界に気づいていっているのだ。
自分を肯定してまさぐってなどいたら、ボケ老人や鬱病になっちまう。
自分に幻滅し、捨て身で世界に気づいてゆくときに「聖なるもの」と出会うのだ。この生の最終局面はたぶん、そういうかたちで結審されている。
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「半覚斎」さん、考えるヒントを与えていただき、ありがとうございました。